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07-03 *

◇ ◇



 体育祭が目前に迫った放課後。和都は保健室で仁科と当日に向けた最終の打ち合わせをしていた。

「ここの競技の時間、一年生だけで大丈夫ですか?」

 談話テーブルに広げた競技プログラムを二人で見ながら、救護係の人員配置の最終確認である。

「一応、三年が一人だけど入れるから平気だよ。それにケガ人出やすい競技じゃないし」

「それもそうですね、じゃーいっか」

「お前が一番テントの出入り多いんだから、気を付けなよ」

「分かってまーす」

 和都は出場競技が多く、本来なら生徒達が待機する応援席にいるべきなのだが、生徒しかいない席に堂島や川野が直接呼び出しにきてしまった場合を避ける目的で、なるべく仁科のいる救護テントにいられるように役割分担を組んでいた。

「てか、最終チェックがおれなのなんで?」

「お前が一番大変なのもあるけど、清水がバックレたからね」

 清水とは、現在の保健委員の委員長を務める三年生である。和都が諸事情により仁科の手伝いを一手に引き受けた関係で、現在はほぼ職務放棄している先輩だ。

「清水先輩め……」

「因みに次の委員長候補、お前になってるからよろしくな」

「はぁっ?!」

 狛杜高校は生徒会長や各委員の委員長を、二年生二学期から三年生一学期まで務めることになっており、二年生の一学期末には、委員長候補を当代委員長と委員顧問の先生が決める。二年で委員長になると、自動的に三年次の委員も確定となる仕組みだ。また、生徒会長及び生徒会役員は二学期始めに行われる、全校生徒参加の生徒会長選挙で選出される。

「委員長とか絶対イヤなんですけど……」

「お前、向いてると思うけどなぁ」

「目立つのがイヤなんですっ」

 そんな話の最中、ブーッブーッ、と作業デスクに置いてあった仁科のスマホが振動し始めた。止まる気配がないので、どうやら着信らしい。

 やれやれと仁科は作業デスクまで行き、スマホを手に取り覗き込むと、少しだけ驚いた顔をした。

「……悪い、ちょっと出るね」

「あ、うん」

 普段の仁科なら無視して後から掛け直しているのだが、どうやら外せない電話らしい。

 和都の返答に、仁科が『応答』を押して取る。

「はい、もしもし……」

〈こんの大バカヤローー!!〉

 耳をつんざくような、女性の大声だった。

 スマホの設定をスピーカーにしているわけでもないのに聞こえるということは、かなりの大声である。

「……うるさっ」

 仁科は分かりやすく嫌な顔をして、まだ何事か叫び声の聞こえるスマホを耳から離しつつ呼びかけていた。

「おい、うるせーぞ! 俺まだ学校なんだけど」

 学校という言葉に落ち着いたのか、スマホから声が漏れ聞こえることがなくなり、それでようやく仁科はスマホを耳に近づけて話し始める。

「悪い悪い、忙しくてさ。んで? ……あぁ、そう」

 そう言いながら、仁科が保健室の奥の窓際へと移動した。電話の向こうの声に、うんうんと相槌を打っている様子を、和都はなんとなく目で追ってしまう。

 話している相手は、聞こえた声の感じから若い女性のようだった。いつもと違う表情が見られるのでは、とつい見てしまっていたのだが、全くもって普段と変わらない。

「……今年は夏に帰るよ。ちょっと探し物もあるし」

 仁科の視線が、何故か一瞬だけこっちに向いた。

 目が合ったのがなんだか気まずくて、和都は思わず視線を談話テーブルの上へ向ける。

「……ああ、わかった。じゃあね」

 もうしばらくだけ何か話した後、仁科がそう言って電話を終えた。

「……女の人の声、だったね」

 談話テーブルのほうに戻ってきた仁科の表情を窺いながら、和都が言う。

「ああ、うん。安曇神社の宮司を代々やってる親戚の子でね。次代の当主様だよ」

「えっじゃあ、今の電話って……!」

 安曇神社と聞いて、和都はにわかに色めき立つ。

「うん。予想通り『白狛神社』は『安曇神社』に今も末社として祀ってあるそうだよ。移動した経緯とか元の場所のこととかは、分かんないみたいだけど」

「……そっか!」

 未確定だった白狛神社の現在の行方が、これで確定した。

 しかし、これ以上の情報を得るには、安曇神社まで行くか、現当主に話を聞く必要がありそうだ。

「こうなると、当主の親父殿に連絡しないとだなぁ。面倒くせぇけど」

「そこは、お願いします……」

「分かってるよ。何とかするさ」

 普段ならわりと何でも積極的に、どちらかと言えば強引に進めていくような人だが、安曇家に連絡するのはどうも腰が重いらしい。

 そこも気になるのだが、和都はもう一つ、気がかりなことがあった。

「……そういや、なんか相手の人、怒ってなかった?」

 離れた位置にいた自分にも聞こえるような大声で怒鳴られていたのだ。どうしたって気になってしまう。

 しかし仁科は、いつものような調子で言った。

「そりゃまぁ『婚約者』に数年連絡しなかったら、怒るだろうねぇ」

 予想外の単語に、和都は目を見開く。

「婚約者?! うそ!」

「嘘」

「……どっちだよ」

 淡々とした調子で言われてしまい、さすがに腹が立ったが、仁科の表情はいつも通りだ。

「まぁ『嘘の婚約者』ってとこかな。お互いに結婚する気ないけど、表向きは婚約者っつーことにしてるというか、されてるっていうか」

「親が決めた的なやつ?」

「そうそう。そんな感じ」

 本の中ではよく見かける話だが、実際にいるとは思わなかったな、と思いつつ、和都は心臓の奥にチリリと滲む、小さな痛みを覚える。

 痛みの理由は分からないが、この状況がよくないというのは、分かった。

「……てか、そういう人がいるなら、先に言ってよ」

「なんで?」

「その気がないんだとしても、ダメだろ」

 自分の声がだんだんと沈んでいくのを感じる。

 必要なこととはいえ、本来なら恋人同士でするようなことを、自分はこの人にお願いしているのだ。

 制服のズボンの、太腿のあたりをギュッと握った手が震える。

 怒りでも悲しみでもなくて、これは恐怖だ。

 自分のせいで誰かが裏切られること、傷つくこと、迷惑をかけることへの、恐怖。

「……知ってたら、頼まなかったのに」

 目の奥が、ぎゅっと熱くなる。

 泣きそうな気持ちになるのは、なぜだろう。

「でも、他に頼れる人、いないんでしょ?」

「そう、だけど……」

 仁科の顔が見れなくて、和都は俯いたまま呟くように言う。

「他人に迷惑かけてまで、なんとかしたいとは思ってない」

 自分にそこまでの価値を見いだせない。

 他人を裏切ってもらうほどの理由がない。

 そう、思ってしまうのだ。

 ふっと気配が近づいて、大きな手のひらが頭の上に乗せられる。

「……俺は、結婚する気のない奴のために貞操守るくらいなら、困ってる可愛い教え子が助かるほうを選ぶけどね」

 言われて顔を上げると、眼鏡の奥の目を細めて笑う仁科の顔があって。

 あ、と言う隙もなく、小さく開いた口を唇に軽く塞さがれて、すぐに離れていった。

「……だ、から! 学校ですんなって!」

 慌てて頭に乗せられた手を振り払って、仁科と距離を取る。しかし、相手はいつもの飄々とした調子で笑っているだけだ。

「いやー、つい」

「あんたの貞操観念、どうなってんだ」

「これでも好きな子としかしないタイプだよ」

「どーだか。……婚約者にさせられてる人が、気の毒になってきた」

 和都は文句を言いながら、手の甲で唇を拭う。

 仁科の本心が全く読めない。今後も分かる気がしない。

 頼れる人がこの人しかいないのは、不幸中の幸いの中の、災いである。

「てかホント、学校でコッチにすんのやめろって」

「あら、そんなに嫌だったの?」

「……ユースケに見つかったら、先生殺されるよ?」

「あー。それは、確かに」

 春日の名前を出してようやく仁科が『それはマズイ』という顔をした。『番犬』からの警告はよほど嫌だったのだろう。

 本心が見えない仁科の、そこだけは何故かよく分かってしまって、和都は呆れながら小さく笑った。

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