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敷地内の駐車場から少し歩いて着いた場所は、二十階以上はあると思われる大きなマンションだった。
オートロックのエントランスを通り抜け、煌びやかなシャンデリアの下がる天井の高い玄関ホールの奥に進み、広くて綺麗なエレベーターで十五階まで上がる。
やたら見晴らしのいい通路を暫く歩くと、仁科が『一五〇六』とプレートの掲げられたドアを開けた。
「はいどーぞ」
「……お邪魔します」
仁科に連れられるままに付いてきてしまったが、和都は今朝車に乗り込んだ時のような妙な罪悪感に再び潰されそうになり、手のひらにかいた汗を自分のパーカーで拭きながら入る。
部屋に来るまでに見えた設備といい、室内の造りといい、所謂高級マンションとしか思えない場所だ。
「先生ってさ」
「ん?」
「お金とか、持ってる人?」
「あー、実家がね。ここも実家がいくつか持ってるマンションの一つだよ」
「なるほど……」
玄関からまっすぐ伸びた廊下の先に中扉があり、そこを開けると左側にキッチンが目に入る。反対側にリビングダイニングが広がっていて、奥にはまだドアが二つもあった。見える範囲でも十分広いが、この先にまだ部屋があるらしい。
「適当に座って。何か飲む? コーヒーは、飲まないよなぁ」
「牛乳!」
「はいよ」
元気よく返した和都は辺りを見まわし、ひとまずリビングダイニングの奥にあったソファに座った。
ソファの前にはガラスのローテーブルと、その向こうに壁掛けのテレビ。隅には仕事用なのかパソコンの載ったデスクがある。白い壁と家具は黒やグレーで統一されていて、散らかった印象はなく、掃除も行き届いているようだ。
「先生って、ひとり暮らしなの?」
「そうだけど?」
仁科はそう言いながら、キッチンからカップを持ってソファまでやって来ると、和都に牛乳の入ったほうを渡す。
「部屋、広すぎない?」
「これでも、ここだとこの部屋が一番狭いんだよ。元々ファミリー向けのマンションで、他は家族連ればっかだし」
「ふーん、そうなんだ」
受け取ったカップに口をつけながら、和都はテレビの周辺に視線を向けた。
画面の大きなテレビの近くには色々な映画のものと思われる、ディスクケースを並べた棚が置いてある。こちらもきちんと整頓されていた。
そういえば保健室の机の上が散らかっていた印象がないので、どこかズボラそうな雰囲気のわりに、意外とこの辺はきちんとするタイプなのかもしれない。
「……あ。それで、神社の行方が分かったかもって、どういうことですか?」
飲み物を飲んで落ち着いて、ようやく本題に入る。
「あぁ、ちょっと待ってな」
そう言うと、仁科が奥の部屋から大きな段ボール箱を二つ持って戻ってきた。箱を開けると、中にぎっしりと大量のアルバムが入っている。
「すごい量……全部アルバム?」
「なにかあるとすぐ写真撮る家でね。大量にあんのよ」
「はー……。え、それで? これと白狛神社に何の関係が?」
「明細帳にもあった『安曇』は『安曇神社』に仕えてる宮司の苗字でもあってね。で、そこの宮司が前言ってた、俺の親戚なのよね」
「えっ?!」
確かに仁科は以前から、宮司をやっている親戚がいる、とは言っていた。
それが安曇神社だったのは、予想外だ。
「だから俺が前どこかで見た気がするって言ってたの、多分、安曇神社の中に白狛神社があったからだと思うんだ」
「じゃあその時に撮った写真があるかも、ってこと?」
「うん」
図書館で見せた、困ったような呆れたような顔で仁科が答える。
和都はとりあえず、段ボール箱からアルバムを一つ取り出した。布製の分厚い表紙を開くと、のっぺりとして少し色褪せた、古い年代らしい写真がいくつも並ぶ。うち一枚の、神社の拝殿前で撮ったと思われる、制服に身をつつんだ男の子の写真に目が留まった。顔立ちからして子ども時代の仁科のように見える。
「……これ、先生?」
「んー?」
和都の問いかけに、仁科が横からアルバムを覗き込んだ。
指差した写真に、ああ、と気付いて懐かしそうな顔をする。
「そう、中学生ん時かな」
「面影残ってるね、かわいいじゃん」
「楽しんでんじゃねーぞ、探せコラ」
「はーい」
アルバムを一ページずつ捲りながら、並んだ写真を一枚ずつ確認していった。安曇神社で撮ったと思われるものは多いが、それらしいお
それよりも、昔の仁科と一緒によく小さい子ども達が写っていて、そちらのほうが気になってしまった。
「先生と一緒に写ってる小さい子たちが弟さん?」
「そうだよ」
二人写っているうちの、一番小さい男の子が亡くなったという末弟だろうか。
写真の中で笑う小さな彼は、どことなく自分の小さい頃に似ているような気がする。
「……確かに、ちょっと似てるかも」
「でしょ?」
以前仁科が言っていた『逢いたい人』というのは、もしかしてこの末弟のことなのだろうか。
死んだ人間が視えるはずなのに、和都自身も死んだ父親には逢えたことがない。
──おれが弟さんに似てるから、こんなに協力してくれてるのかな。
和都は隣でアルバムを捲る仁科をチラリと見上げる。
自分も父によく似た人が困っていたら、きっと無条件で手を差し伸べるはずだ。そう考えると、なんとなく今の状況にも合点がいく。
そんなことを考えながら、和都は再びアルバムを捲った。
そしてとあるページの一枚に、ハッとして声を上げる。
「……あっ」
「どうした?」
「この写真さ、ここ!」
最初に見た時よりも少し古い写真。赤ん坊を抱いた男子小学生と、幼稚園児くらいの男の子が小さなお社の前で並んで笑っている、その背景。
小さな石造りのお社の前にひっそり佇む、朱色の褪せた鳥居の柱に『白狛』の文字が見えた。
「……あった。これだ」
アルバムの透明なフィルムを剥がし、その写真だけを取り出して改めて確認する。
小さいが間違いなく『白狛』と書いてあった。
「これも、安曇神社で?」
「ああ。安曇家と仁科家は、元々は本家と分家の関係でね。だから何かあれば『安曇神社』に集まってた。これも多分、雅孝が生まれた時に神社で撮ったやつだ」
「じゃあ、やっぱり」
「うん。白狛神社にいた神様は、何かしらの理由で今は安曇神社にいるってことに──」
仁科の言葉に、和都の目が一瞬だけ金色に光って、それからポタポタと涙が溢れ出す。
「……どうした?」
「あれっ、わかんない……」
和都の意思とは無関係に、涙が出てきて止まらない。悲しいという感情はなく、どちらかというと嬉しいという気持ちが心の奥からじんわりと湧き出てくる。
〔バクが喜んでるんだよぉ〕
「あ、ハク」
不意に空中から声がしてそちらを見ると、犬の生首だけのお化けが嬉しそうに涙を流していた。
「……そうか、居なくなっちゃった神様の居場所、分かったから」
〔うん。よかった、よかった……!〕
ハクと和都で頭を寄せ合って泣いていると、仁科がどこからかタオルを持ってきてそっと差し出す。
「ほら」
「あ、すみません」
タオルを受け取って顔を拭いていたら、涙もようやく収まった。それを見ながら仁科は、広げたアルバムを一冊ずつ段ボール箱に詰め直し始める。
〔これで一個、わかったね!〕
「なにが?」
〔ニシナとカズトの波長が合う理由だよ。ボクらの神社の関係者だったからなんだ〕
「縁があったってこと?」
〔そういうこと!〕
段ボール箱を奥の部屋に戻して帰ってきた仁科が、なるほどなぁという顔で、ソファに座っていた和都の隣に腰を下ろした。
「とりあえずはよかった、のか?」
「でも、なんか納得したかも……」
どうやら、白狛神社や安曇神社と縁のある人間は、和都と波長が合うらしい。
〔んー、でも、ニシナも気をつけてね〕
不意にハクが少し心配そうな声でそう言い出した。
「え、なんで?」
〔ニシナは鬼を封じてた祠のあった神社の関係者なんだよ? 鬼からしたらまた封印されるかもって、思っちゃうよ?〕
「なるほどな」
鬼達の目的は、和都を喰らうことに変わりはないだろうが、その立場を考えれば分からない話でもない。大きなご馳走を目の前にして再び封印されるなど、全力で阻止したい可能性のはずだ。
「そんな……」
「
「……うん」
仁科が隣に視線を向けると、和都が不安そうな顔で写真を見つめていた。多分また、自分のせいで、ということを考えているのではないだろうか。
「大丈夫だよ。バレなきゃいいんだ」
「そう、だけどさ……」
仁科は和都の頭を優しく撫でる。けれど、和都の表情は強張ったまま。
少し考えて、仁科はすっと和都の持っていた写真を取り上げると、すぐそこのテーブルへと置いた。
「あ」
小さく声をあげて驚く和都のほうに身体を向けると、小さな肩を掴んでそのままソファの上にゆっくり押し倒す。
「えっ、ちょ、ちょっと?」
仁科の予想していなかった行動に慌てすぎて、和都の声が上擦った。
「……せんせ?」
「今日の分、してなかったな、と思って」
上から降ってきた声は普段と変わらない。
「だからって、なんでこの体勢……」
「んー、雰囲気?」
「いやだから、雰囲気なんか作ってどうす──」
仁科の顔が覆い被さってきて、言葉の途中で唇を塞がれた。
唇の隙間から大きな舌が入りこんできて、口の中で自分の舌を絡めとる。
「……んんっ」
身体の中から迫り上がってくるザワつきに堪えながら、和都はソファの背もたれをぎゅと掴んだ。
いつかの、水を飲まされた時と違い、入り込んだ舌が口の中をゆっくり蹂躙していく。そこに少し、コーヒーの苦味と煙草の香りがじわりと滲むように混じって、あの暖かい不思議な感覚の何かと一緒に内側へ流れ込んできた。
息が苦しくなったあたりでようやく、唇が離れて解放される。
「なん、で……?」
そう聞きながら、和都は大きく息を吸い込んで、内側の熱を冷ます。
鼓動が早くて、顔が熱い。
目の前にある顔は、いつもと変わらない、どこか楽しそうに眼鏡の奥の目を細めて笑う。
「まぁ、学校じゃないし。こっちのが効率いいんでしょ?」
「そう、だけど……」
当たり前のように答えられて、なんだか悔しい。
何か言い返そうにも、心臓の音がいつもよりうるさくて、息がつかえて上手く言葉が出なかった。
戸惑うこちらに構わず、仁科の身体はすぐに離れて、スッと立ち上がる。
「……さ、夕飯食って家まで送りますかね」
何でもなかったような、平然とした声音。
和都は身体を起こしつつ、眉を
悔しい。自分ばかり動揺しているこの状態が、悔しい。
そしていつもこういう状況なら、怖いとか嫌だとか、そういった感情が真っ先に来るはずなのに、そういったセンサーが全く反応しなかった。
これは、困る。
──嫌じゃなかったから、困る。
これも普段の日課のせいなのだろうか。
まだ、顔が熱い。
「どうした? 行くよ」
仁科が涼しい顔をして、ソファから動けないままの和都を呼んだ。
「……なんでもない!」
こちらがどんな顔をしているのか知られるのも嫌なので、和都はそっぽを向いたまま勢いをつけて立ち上がる。そしてソファの横に置いていたショルダーバッグを肩に掛け、無理やり笑顔を作りながら、中扉の辺りで待っている仁科の元に駆け寄った。
「夕飯、焼き肉がいーな!」
「お前と行くの怖いんだけど、財布的に」
和都の提案に、仁科が少し困ったように笑って答える。
「やすいとこ! やすいとこなら大丈夫!」
「しゃーないなぁ……」
そんなことを言い合いながら、二人は部屋を後にした。
──ホントによかったの? コレで。
──ああ、構わない。このほうが、きっと愉快だ。
──君がいいならいいけどね。
愉快なほうへ、転がっていく。