「二年三組でーす。観察簿持ってきましたぁ」
「おー、ご苦労さん」
和都がいつものように保健室の引き戸を開けると、デスクの椅子に座ったまま仁科がこちらを見た。
「はい、どうぞ。今日は寝坊してないみたいですね」
「そんなしょっちゅう寝坊しねぇよ」
観察簿を受け取ってデスクに置くと、仁科は立ち上がってコーヒーを入れ始める。コーヒーのほろ苦い香りが小さく漂うと、不意に仁科が何か思い出したようにこちらを見た。
「あ、そうだ。今週の土曜、行ける?」
「なに?」
「例の神社探し。中間テスト、終わったろ」
「あ、行く! 行ける!」
仁科の言葉に、和都がぱっと弾けるように、反射的にそう答える。
「じゃあどこか、分かりやすいとこで待ち合わせな。出来ればあんま目立たないとこがいーんだけど」
何もない休日に教師と生徒が二人きり、学校以外の用事で出掛けるというのは、なかなかのリスクだ。
可能な限り人目につかない場所がいい。
「んー、駅裏の公園とか? 車道のすぐ横にあるし」
「あーあったなぁ。じゃあそこで。十時くらいでいい?」
「わかりました!」
和都も思わず明るく答えてしまう。それを見て、仁科が少し呆れたように笑った。
なぜならこれは、ただの楽しいお出掛けではない。
特殊な『狛犬の目』のチカラを持つ和都は、学校に潜む『鬼』達から狙われており、その『鬼』をなんとかするヒントを探すべく、手掛かりとなる『
コーヒーをいれたカップに口をつけようとして、仁科はああそうだった、とまた思い出す。もう一つの大事な日課がまだだった。
「……あ、忘れるとこだった」
「ん?」
仁科は和都の目の前に立ち、少しだけ頭を屈めて、小さな額に軽く唇で触れる。仁科の持っている強い
「はい、今日の分な」
「……はぁい」
和都としては、当初気恥ずかしさや戸惑いもあったのだが、今ではされることにすっかり慣れてしまった。
自分の困ったチカラのためとはいえ、さすがに一ヶ月以上ほぼ毎日、こんなふうに続けていれば慣れてきてしまうものらしい。
──……口は、やっぱ慣れないけどさ。
普段はこうして額のみなのに、先日はなぜか唇のほうにされてしまった。
口移しのほうがチカラを分けるのに効率がよいらしいのだが、恋人同士というわけでもないので、流石に気が引ける。普通の感覚なら多分そうだ。
それなのに、この教師はやたら楽しげに、臆面もなくするのだから、相変わらず意味がわからない。しかし正直なところ、和都自身もそれを嫌とも不快とも感じなくて、あったのは恥ずかしさだけだった。
──先生に毒されてきてる気がする。
このままこの人を頼っていいのだろうか、と考えてしまうこともあるが、現状、他に頼れる人がいないので仕方がない。
和都が一人そうやって考え込んでいると、いつも通りの顔の仁科がこちらを見る。
「どうした? そろそろ一限始まるぞ」
「……なんでもない。じゃあね」
和都は小さく息をついてから保健室を出ていった。
◇ ◇
約束の土曜日。
休日の午前中だというのに、駅裏の公園は相変わらず人が居なくて、閑散としていた。
狛杜公園前駅に三箇所ある出口のうち一つの近くにあり、駐輪場と並ぶように作られていて、すべり台とブランコ、そしてベンチくらいしかない小さな公園だ。平日は駐輪場利用者が待ち合わせで使っていることもあるのだが、なぜか不思議と人が寄り付かない。
自宅近くの公園は小学生達がわんさか遊んでいたので、公園での待ち合わせは失敗だったかなと思ったのだが、それはまったくの杞憂に終わった。
──まぁなんか、変な感じのするとこではあるよね。
和都は公園の入り口で、肩から斜めがけしたショルダーバッグのベルトを両手でギュッと握りながら公園の中を見つめる。
スマホの時計を確認すると、十時を少し過ぎていた。
そろそろ来る頃だろうか、と思った辺りで、駅前の方から大きめの白い乗用車がウィンカーをチカチカと光らせながら近づいて来た。車はそのままゆっくり和都の立っている前で停まると、助手席側の窓が開いて、運転手がこちらを見る。
「おはよ。ほら、乗って」
運転席にいたのは、普段と変わらない表情の仁科。ただ服装は、学校で見ているワイシャツにネクタイと白衣ではなく、いつものよりラフなシャツにジーパンという私服姿である。
「……お邪魔します」
言われるまま助手席のドアを開け、乗り込もうとした途端に、急にこれはあまり良いことではないのではないか、という当たり前の事実に襲われた。
乗る直前になって何故か硬直した和都に、仁科が首を傾げる。
「どうした?」
「ううん。なんでもない……デス」
知らない人の車に乗ってはいけません、という言葉が頭の中で大きな文字となって迫ってきた。
学校の先生とはいえ、他人の車にそう簡単に乗っていいのだろうか。しかし、これから大事な手掛かりを探しにいかなければならないわけで。
──……ユースケには、黙っとこ。
ぐるぐると渦巻いた考えに、とりあえずの落とし所を決めて息をつくと、和都は座席に腰を下ろしてドアを閉め、すぐにシートベルトをした。
「で? まずはどこに向かうんだ?」
「あ、えっと……」
現実に引き戻され、和都は慌てて持ってきていたショルダーバッグの中を漁る。小坂商店で丸をつけた地図を取り出すと、運転席の仁科にも見えるように広げた。
「この、赤丸のとこに行きたくて」
「地図に書いてるその駅は、隣の狛山駅か?」
「うん。その先の山の中に集中してるから、とりあえずそっちのほう、かな」
「りょーかい」
仁科がそう答えると、ゆっくりと車が動き出す。
公園の前の道路をまっすぐ進み、そのまま一方通行の多い狭い住宅街の路地をぐるりと大回りする。そう進んでからようやく、進行方向に目指す狛山の先端が見えてきた。
途中で線路の向こう側の道路に入ると、学校からも見える、背の低いなだらかな狛山を正面に捉える。車で山頂まで行けるようになっていて、頂上付近には公園や展望台が設置されており、この地域では手軽に自然を楽しめる場所として家族連れに人気のスポットだ。
「何度かその辺の道通ってるけど、そういう空き地とかあったかなぁ」
「そうなんだ。おれ、あの山自体行ったことないや」
「家族で出掛けねーの? 行楽スポットだよ」
「うーん、二人とも忙しいからね」
「……そう」
仁科がチラリと和都のほうを見ると、車に乗ること自体が久しぶりなのか、小さな子どものように窓から外の景色を熱心に眺めていた。出掛ける話になった時、やたら楽しそうにしていたのも納得がいく。ただ今回は目的が目的なので、仁科は少し複雑な気持ちになった。
「……とりあえず、低いほうから順番に行くかね」
そう言って、三箇所ある候補のうち、線路に近い方から回っていく。
一箇所目は比較的道路から近いところに広い空き地があり、そこにきちんと神社跡地と明記された看板が立っていた。
次の候補地は車の入れる場所から少し離れており、徒歩で斜面を少し登った先にあった。だいぶ荒れてはいたものの、小さく開けた空き地の隅に神社跡地を明記した看板がかろうじて分かるように設置されているのを確認。
そしてそのどちらも、探している『白狛神社』ではなかった。