◇
放課後の、日が落ち始める少し前、空はほんのりと白み始めていた。
補習の時間になってみれば、教室に居たのは和都と川野の二人きり。
──……マジか。
何人かはいるだろうと思っていたのに、完全にアテが外れてしまったようだ。
「では、復習用にプリントを用意していますので、こちらを」
「……はい」
プリントを二枚渡され、和都はとりあえずそちらに視線を落とす。
補習を受けるのが自分だけということもあってか、川野は和都の机の前に腕を組んで立ち、ジィッとこちらを見下ろしていた。テストと違って穴埋め式のプリントだったが、内容はテストとほぼ同じようなものばかりだったので、和都はスムーズに解答していく。
「……点数がとても低かったので心配していたのですが、問題なさそうですねぇ」
静かな教室の中で、川野がポツリとそう言った。
「あー……なんか回答欄、書き間違えてたらしくて」
「あぁ、そうなんですね」
真正面に立ち、うんうんと頷きながらプリントを見つめる川野の額の右端からは、やはり半透明のツノがスラリと伸びているのが視える。和都は極力そちらを見ないように努めながら、ただ手を動かした。
「そうだ相模くん。私、休日によく史跡や神社跡地なんかを巡るんですが──」
雑談のつもりなのか、川野がそんなことを言い出した。
「この辺りにも廃神社があると聞きまして、とても興味深く……。相模くんは徒歩通学で、学校近くにお住まいだそうですね。廃神社のこと、なにかご存知ではないですか?」
「……すみません、おれ、中学の時にこの辺に越してきたんで、そういうの、あまり詳しくなくて」
「あぁ、そうだったんですね」
返事をしながらも、視線は補習用のプリントに向けたまま、ひたすらシャープペンを走らせる。
なるべく早くこの場を去りたかった。
しかし気のせいか、気配と声がだんだん近くなっている気がする。
「鬼を封じたという伝説があるんだそうです。ただ、すでに廃れてしまったそうで──」
机の端に、節の目立つ痩せた手が置かれたのが見えた。声の、息のかかる位置が、やたらと近い。
「封じられた鬼は、どうなったんでしょうね?」
「……あの、プリント終わりました」
おしゃべりを遮るように、走り書きを連ねて終わらせたプリントを二枚、川野と自分の間に差し出す。
「……はい、ちゃんとできていますね」
プリントを受け取るも、川野はそちらに軽く目を通しただけで、視線はすぐに和都を向いた。
「そうだ。神社巡り、相模くんもよかったら、一緒にいかがですか?」
不意に川野の手が伸びてきて、頬に触れる。
「あの、おれ、仁科先生にも呼ばれてて……」
伸びてきた手から逃げるように身体を引いた。しかし、
「いいじゃないですか。……もう少し『お話』しましょうよ」
互いの鼻先が触れ合いそうなほど近くまで、ぐっと顔が寄ってくる。
目の前にあったのは、縦に細長い瞳孔を浮かべる緋色の瞳。
人間のそれとは全く違っていて、息を呑んだ。
「……っ!」
「私は、君ともっと仲良くなりたいんですよ?」
──『鬼』だ。
あっと気付いた時には、胸のあたりが、心臓が、ヒリヒリと凍るように痛み始める。
「やっ……!」
咄嗟に両手を前に出して、川野を突き飛ばした。
しかし、いきなり突き飛ばされたというのに、川野は穏やかに笑った顔を貼り付けたまま。
「……すみません!」
机の上のペンケース類を急いで通学用鞄に詰め込むと、鞄を抱えて逃げるように教室を飛び出した。
「相模くん、まだ話は終わっていませんよぉ」
廊下まで響く声が、教室の方から聞こえる。しかし和都はそれに構わず、中央階段を駆け降りた。
保健室に行く場合は廊下の端にある東階段を使うことが多いのだが、今はそれよりなにより、一刻も早く教室から遠ざかりたかった。
踊り場の窓から西日が差し込む。空はまだ夕暮れには少し遠いようだ。
三階も二階も人が誰もいないようで、珍しくしんと静まり返っている。自分が階段を駆け降りる足音だけが、バタバタと騒がしい。
──あれ?
三階から一階まで、三階と二階の踊り場、二階フロア、そして二階と一階の踊り場で折り返す回数は三回しかない。三回折り返せば一階に着いているはずだ。
それなのに、すでに六回は折り返している。
駆け降りても駆け降りても、なぜか一階にはつかず、気付けば三階に戻っていた。
「……なんで?」
「待ってくださいよ、相模くん」
上の方から、ずっと穏やかなまま、慌てる様子もない、川野の声が追いかけてくる。
和都は肩で息をしながらも、ひたすら階段を駆け降りた。
「くそ……!」
もう十階分以上は駆け降りている気がする。
上から聞こえる声との距離が、だんだんと縮まっていた。このままでは捕まってしまう。
──そうだ!
再び三階に戻ったタイミングで、今度は廊下を東階段のほうに向かって駆け出した。
「おやおや、まだ元気なんですねぇ。どこへ行くんですか?」
こちらが廊下を走り出したのに気付いても、やはり穏やかな声は楽しげに追いかけてくる。
「……どうせ、逃げられませんよ」
中央階段と東階段の間には、四組から六組の教室が並ぶ。
走る横目で教室の中を見た。普段なら誰かしら残っているはずなのに、人っ子ひとりいない。
もうずいぶん時間が経った気がするのに、教室の奥の窓から見える空の色も差し込む西日も、教室を飛び出した時と全く変わっていないようだ。
(ハク! ハク!!)
廊下を駆けながら、和都は心の中で常に近くにいるといっていたハクに呼びかけてみたが、応答はない。
ここは、今までいた世界とは違う世界なのではないか?
もしそうだとしたら、どうやって川野から逃げ切れるのだろう。
東階段にたどり着いて、再び階段を駆け降りた。
三階と二階の踊り場、二階フロア、そして二階と一階の踊り場で折り返したが、やはり三階に戻っている。
──くそっ!
後ろが気になって、降りてきた階段を振り仰ぐ。東階段を降りてくる時には廊下のずっと向こうにいたはずの川野が、ゆっくり階段を降りてくるのが視界に入った。
「そろそろ終わりですか? 疲れたでしょう」
声のトーンはそのままに、顔は穏やかに笑っている。
ただ、額の右端からはすらりと牛のようなツノが伸びていて、楕円を歪めたような瞳はひたすらに赤く、明らかに人間ではなかった。おそらく向こうは、こちらが疲れて立ち止まるのを待っている。
息が上がったままだが、構わずまた駆け降りた。
二階フロアに降りようとした瞬間、足がもつれて最後の一段を踏み外す。
「うわっ……!」
前方に体が大きく傾いて、勢いよく床に転がった。
「……いって」
強かに肩を打ったが、痛がっている場合ではない。
すぐに立ち上がって階段を降りなければ、と上体を起こした、その時だった。
「あれ、相模?」
よく知った声が耳に飛び込んでくる。
視界の端に白衣を着て、両手で紙の束を抱えた仁科が立っているのが見えた。
「なんだ、もう補習終わったのか?」
「あ、仁科先生……?」
辺りをよく見ると、左側に第二体育館へ向かう通用口、そして目の前から右の方へ、保健室と相談室が並んでいる。毎朝通っている、よく知る一階の光景だった。
「転んだ? 大丈夫か?」
仁科がプリントを抱えたまま近寄ってくる。
ちょうど印刷の終わったのを、保健室に運び込もうとしていたようだ。
「え、と……」
頭の整理が追いつかない。
和都は座り込んだ状態で仁科を見上げたまま、何とかそれらしい言い訳を言おうとしたのだが、うまく言葉が出てこなかった。
「どうした。……なんか、あったのか?」
明らかに自分の様子がおかしいと感じたのだろう、仁科が小さく眉を
そこへ、階段の上部から先ほどと同様に川野の声が追いかけてきた。
「相模くん、まだ話が……」
穏やかに追い詰める声が途中で止まる。二人してそちらを見上げれば、川野の目が丸く見開いていた。
「……おや、仁科先生」
声音は変わらないものの、予想していなかった展開だったらしく、驚いているのが分かる。
仁科は和都のほうをチラリと見た後、再び視線を階段の踊り場辺りで立ち止まった川野に戻した。
それからいつものような、軽い調子で仁科が尋ねる。
「川野先生、そのお話とやらは急ぎだったりしますか?」
「……いいえ」
「じゃあ、保健委員の仕事を手伝ってもらう予定だったんで、もういいですかね?」
笑顔で言う仁科に、川野はすっと目を細め、やはり穏やかな調子のまま答えた。
「そうだったんですね。補習は終わっていますので、大丈夫ですよ」