◇
「……大きい暖炉、下にあったよな」
勇者として旅立ってから丸三日。
頭に巻いてた包帯はもう影も形もない。ついでに傷も全く。
あんまり受けた経験は無かったけれど、治癒魔術というのは凄いんだな。
…その魔術を使った本人にはまだ満足にお礼を言えてもできてもいないのが申し訳ない。精々、昨日に薪割りを少しばかり手伝えた位。
あれから、スコルアーチさんと顔を合わせる機会はあっても、じっくり言葉を交わす機会は中々持てていない。
教会の中ですれ違うことはあるけれど、気まずそうに「あ……どうも…」との言葉と共にそそくさと通り過ぎられてしまう。
……今日に至ってはその姿すら見てない。何処に行ったんだろうか。
プレァザスタの勇者、ムーンさんにもあれからほぼ顔を合わせていない。偶に村の中で影を見たと思えば次の瞬間に村人にもみくちゃにされている。随分と頼りにされ、交流を深めている様子だ。仲間づくりの為に外堀を埋める狙いもあるのかもしれないけれど、勇者っぽくていいなぁそういうの。
…いや、一旦そのことよりも暖炉に急ごう。
今、自分の手には日記が、三日前に書いたページを破り取りクシャクシャに丸めた物が握りしめられている。
今日、日記を読み返して『これ記録に残したら不味くない?万が一誰かに見られたら大変なんだけど。これわざわざ文字に起こした奴何考えてんの?』と漸く思い至れた故の行動。
早く自分のやらかしを灰燼に帰してしまいたい。
二階にある部屋を出て、なんとも言えない後ろめたさを抱えて階段を降りる────
「……おや。ラゴンさん」
「おぅ!?……あっどうも。神父様」
────前に、廊下の花瓶の水を差し替える、白い髭を伸ばした此処の神父様と出くわした。
「どうされましたかな。今から外出ですか?もうそろそろ日も暮れますのであまり遠くまでは向かわれない方が良いですよ」
「あーいえいえ……特に外に出る用事は無くて……」
「そうでしたか。これは失礼致しました」
そう言って右手を胸に当て、短く纏まった白い髪を携えた頭を恭しく下げる。
……なんともむず痒い。
“そんな風に畏まらないで欲しい”と伝えたいが、頭に包帯を巻いて此処に来た時に似たようなことを言うと『それは勇者を神に遣わされた者として捉える我らの信仰の否定に繋がりますので』と告げられたことを考えると口が重くなる。
スコルアーチさんに負けず劣らずこの人も信仰に真摯過ぎないか。
「であれば、どうされたのでしょうか?私にお手伝いできることがあれば────」
「いえいえいえ、ちょっとその冷えた?ので暖炉に温まりに行こうかなぁって!大したことじゃないんですよ!」
両掌を見せて神父様の前でブンブン振る。冷汗が首筋を伝うのが分かる。
今汗出るなよ!体冷えたって言ったばかりだろ!
「…暖炉ですか?」
白髪の似合う頭がすっと上がり、淡く青い眼が僕を捉える。
「……ああ、申し訳ございません。広間の暖炉はうっかり薪を切らして火を落としてしまったのです」
「アレっそうなんですか!?」
予定外の事態。
場所が場所なだけに聖職者に向かって嘘を吐いたことを神に咎められているのだろうか。
「ふむ…でしたら、台所でミルクを温めてきましょうか。お部屋までお持ち致しましょう」
「え、いや、そんなことまでしてもらう程じゃ……」
「遠慮なさらず。村の子供達にもよく作りますから慣れたものですよ。では用意して参りますので……どうぞお部屋でお待ちください」
再び、右手を胸に当て恭しく礼。そして頭を上げると慣れた足運びで階段に向かって、トントンと足音を立てて降りてゆく。
水平線の向こうに沈む夕日の様に姿が見えなくなった神父様────に取り残される僕。
……どうしよう。一旦戻るか?
…………いや、もうこの手に握りしめられた秘密はさっさと処分してしまいたい。
破って捨てればいいのかもしれないが…それだと安心しきれない。わざわざよく分からない紙くずを復元するような暇人もいないとは思うけれども。
なら、外に出よう。それでそろそろ灯り始める角灯の火を借りるなり、何処かの焚火に放り込むなりしてしまおう。
神父様の気配が消えた階段を足早に降りる。
左横にある窓から見える山々にまだ日は隠れ切っていない。
一段、二段、三段と降りる。
足音を立てないよう慎重に。
抜き足差し足忍び足。けど急ぎ足。
悪いことをしに行く訳じゃないけど、後ろめたさが消えない。さっさと済ませてしまおう。
此処を何回も上り下りをした脚が段数を覚えて───
ぐきっ、と足首から膝に変な衝撃!
アレッ!?一段少ないっ!
────っ
「グアぁぁ!!」
一瞬、下の方から聞こえてきた何かの音。を掻き消す僕の唸り声。
思わぬ衝撃を殺しきれなかった僕の脚は薄情にも主人の体を支えることを諦めて、僕を思い切り板張りの床にダンっと叩きつける。
「……おお”……おおっ」
…………治ったばかりの頭が痛い。
視界が涙で滲む。
頭を抑えて床でのたうち回る──
「──ぐへっ!?」
そして、今度はガンっと後頭部に何かがぶつかる。
痛みに悶え蠢き頭を振った所為で柱か何かに。
散々だ。
痛みを大人しく受け入れ、三度目の悲劇を起こさない為、耳鳴りが止まらない頭の後ろを両手で抑えて額を床に付け何かに全身全霊で祈るように蹲る。
…場所が聖堂だったならちょっと祈り方を別の神様と間違えた信者と勘違いされていたかもしれない格好。
だかしかし、此処はただの階段下。
今の僕はただの階段に向かって祈る異端者。
「………スゥーッッフゥッっ……」
もう暫くしたら戻ってくるだろう神父様にこの姿は見せたくない……。
フラつきながら、クラクラする頭をさすりながら立ち上がる。
……………どこに行こうとしてたっけ?
…あそうだ。暖炉だ。さっさと行かなきゃ……。
広間はあっち……ああ、頭がいたい……。
………足がフラつく……
◇
ようやく意識がきっちり、はっきりしてきた。
広間の火の消えた暖炉へ辿り着く前にそうして欲しかった。
何をしているんだ。教えてもらっただろ。
……ここ最近頭ぶつけ過ぎた所為で、脳みそが悪くなってるんだろうか。
勘弁して欲しい。
…どうしよう。もたもた歩いてきた所為で時間を食ってしまった。
今頃神父様はミルクを温め終わっているかも。
サッと外でこのクシャクシャに丸めた紙を処分してしまいたかったのに。
部屋に戻らないと結局待ちぼうけにさせてしまう───
「……ん?」
ふと、気づいた。思い出した。
確か神父様は『薪を切らしてしまって火を落とした』と言っていた。
目の前の暖炉はその通り、薪は一欠片も残っておらず煤がこびり着いた石床に灰が多少かかるばかり。
脇にある平たく長い鉄で編んだような籠にも薪は一本も無い。
………おかしいな。
僕は昨日、薪割りの手伝いをした筈。
割って、よく乾かしておいた筈。
ここ最近は雨も降っていない。
というか、暖炉綺麗過ぎないか?誰か掃除したんだろうか?
顔を突っ込んで覗いてみると、灰がちょっと隅にある位で燃え残りが一切無い───
──ごり、ごり。がり、がり。
頭を深く突っ込んだ暖炉の奥。
そこから、何か、硬い物を壁か床に擦るような音。
幼い頃、壁に石を擦り付けて落書きをして、お説教を受けた時の記憶が蘇る音。
……この暖炉、奥に空間が在る。ほんの少しだが空気も流れ込んでいるのも感じる。
体をちょっと屈めて進めば通れるだろうその先に誰かが……何か、削っている?
教会に関係する方で姿を見てない人を思い浮かべると一人しかいないが、何故こんな所にいるのか、何をしているのか分からない。
いや、広間なら今の時間誰でも入れるからお客さんの誰かなのかもしれないのか?
いや、今日は誰もお客さんは見てないしこの教会に深く関わる人じゃないとこんな隠し部屋みたいな場所には───
「……先程からどうされたんですか?ドタドタ動き回って」
壁から響く音が止んだ。
代わりに僕の心臓が思いっきり五月蠅く跳ね上がる。
「そんなところに用事も無いでしょう?うろうろしていると灰で服が汚れますよ?我々の黒い服に白い灰の汚れは目立ちます。みっともない格好で信者の前に出る気ですか?」
姿は見えない。だが、聞き覚えのある鈴を転がすような声が聞こえてくる────若干棘が生えているけど。
多分、勘違いされている。声の主は今覗き込んでいるのが…神父様だと思ってる。
となると神父様は彼女が此処にいることは知っていたのか?
いや、そもそも火を落として薪も引き上げたのは彼女が此処に入る為か?
「……聞いてますか?返事くらいしてください。勇者様はちゃんと部屋にいるんでしょうね?」
心臓が更に鼓動を大きくする。やばい。
こんな所に籠る位だから何か見られたくない理由があるんだろう。本人が此処にいるとは言えない。
「………ちょっと?本当にどうしたんですか?」
ざり、ざり、と靴の底がざらついた地面を擦る音。
それが暖炉の奥から聞こえてくる。
不味い、不味い。
ゆっくり足音を立てない様に後ずさって、何処かに行けばまだ誤魔化せ────
「………………えっ。あっ……」
暗闇の中で、僅かな光を反射して煌めく銀色の、前に馬車の中で目覚めてすぐに目に入った長髪が揺れる。
ただ、あの時とは恰好がかなり違う。
黒くゆったりした修道女の衣服は身に纏わず、肌にピタリと張り付き、動きやすそうな薄手の黒い襯衣を着込んで、鍛冶場の主人が履く様な全体的にダボついた袋状の小さな物入れを多く縫い付けたズボン。
それらを身に着けて────その左手には短刀程の長さがある棒状のやすりを握ったスコルアーチさんが暖炉の縁に手を掛けて、闇の中から顔を覗かせた。
「…………ゆ、勇者様…」
豊かな胸元には、氷の結晶の様な六角形を何度も重ね、その中へ数本の棒を突き刺した紋章。
城下町の神父様から譲り受けた資料で見た、“僧侶”の紋章。
だが、それ以上に目を引くものがあった。
「す、スコルアーチさん……ごめんなさい……いや、でも、それは……」
銀色の前髪を掻き分ける、深紅の瞳の上にある額から突き出た二本の……黒の中に若干の赤が混ざったツノ。
それは彼女の種族を明確に表して、そして………そのツノは、中程で折られ、削られ、帽子で隠せる程度に短い。
「い、痛くないんですか?大丈夫ですか?」
「…………え、ま、まぁ……慣れてるので」
そうしたのは誰か。
彼女の服装と手に持ったやすり────荒い目に黒っぽい粉が詰まった長い物を見れば、それは明らかだった。