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まともになりたい。
まともな目で見られたい。
まともな、何かに、どうにかしてなりたい。
初めてそう思ったのは、俺のナワバリと知らず足を踏み入れた不注意な夫婦。それがきっかけ。
耳の長い女が血の気が引いた顔でジッと見ていたのは血がポタポタ垂れる俺の握り拳。
どのクソを殴った後の血かは覚えてない。
トラバサミに挟まれたシカみたいに辺りをキョロキョロ見回して足がすくんで動かない、貧民街に似合わない綺麗な服を着た二人組。
今までに無い格好の獲物。
石壁を簡単に蹴り破れる俺の太い足が不運な奴らに向かって進む。
ビクリ、と男の身体が跳ねた。
女を置いて逃げると思った。問題無いと思った。
よたよた逃げる背中を張り倒し、その後腰を抜かした女の元に戻ればいい。
総取りだ。
男は予想通り、震える身体の力を振り絞って───
女の前に出て、勢いよく頭を地面に膝と頭を打ちつけた。
“妻だけは勘弁してください”
“荷物は全て置いていきます”
“僕は残りますから、妻は許してください”
そんなことを言っていた。よく覚えている。
頭をごりごり擦り付けて、靴を舐めて許しを乞う姿はしょっちゅう目にした。
見慣れているはずだった。
だけど、あの時見たあれは、いつものじゃない。
いつものように、欲に任せて俺に襲いかかり、返り討ちにあって骨も心も折られた野郎がする、自分が助かるための屈服じゃなかった。
身を投げ出して、他人を守るための降伏。
獲物を逃したのはあれが始めてだった。
金目の物を置いていく程度で見逃したことなんて今まで無かった。
なんでだ?俺はどうした?
置いていった荷物をボーッと眺めながら自分のよく分からない行動を振り返った。
振り返る度に頭の中に、逃した二人の姿が浮かぶ。
生きて帰れると分かって、
“君が無事で良かった”と、つやつやのよく手入れされた女の髪を撫でつける男の姿が。
“貴方が無事で良かった”と、男の節くれ立った手を握る女の姿が。
抱きしめ合う姿が、何度も何度も。
俺は、されたことない。そんなこと。
したことない。そんなこと。
妬ましい。
羨ましい。
クソの掃き溜めでは手に入らないそれが欲しい。
“まとも”にだけ許されたそれが欲しい。
どさ、と持ち主に置いて行かれた高そうなツヤのある革の鞄が倒れ、中身を酔っ払いのジジイみたいに吐き出した。
じゃらじゃらやかましい口の堅い財布に何かのスクロール、あいつらが自分から外して入れた首飾りに指輪。
そして、一冊の本。
分厚いそれは何度も何度も読み返されて、表紙は傷だらけで、黄ばんでいた。
一銭にもならない。すぐ分かった。
だが、気になった。
持ち帰って、本を開いた。
読み書きなんて習ってないからまともに読めないのにそうした。
そこらの品の無い落書きや、どこの誰がいつ貼ったのか分からない“クスリを買うな売るな”とか書いてある貼り紙から読み書きを学んだ頭じゃあ苦労したが、頭を振り絞ってどうにか読み込んだ。
そこには、“まとも”になるための方法が書いてあった。
あれから、随分経った。
今の俺……わたしは未だに“まとも”とは言えない。
貧民街から飛び出して“まとも”な人々の中に飛び込んだ。
彼らはわたしを受け入れた。
だが、感じる。何処か一線を引かれている。
越え難い何かが“まとも”とわたしの間にある。
これをどうにかしたい。
自分は、自分だけは立派なものなのだと証明したい。何も恥ずかしくない方法で。
誰にも胸を張れる方法で。
そして、その方法は突然舞い込んできた。今は……少しややこしい状況にあるが。
どちらかを選ばないといけない状況。どちらかに着いて行かないといけない、のだけど。
一人はなんだか頼りなくて、そもそも満足に目的を果たせるか怪しい。俺は……わたしはわたしに誇れる手段で自分を満たしたいんだ。
もう一人は……人当たりがよく村の人から信頼も受けている。実力もある。だが────きな臭い。
血の臭いがする。
そもそもプレァザスタから来たと言っていた。経験者だから分かるが何故そんな遠くから?その辺りにもどうも怪しさを感じる。
だが……わたしの目的を果たしやすいのはその後者だ。
………ああ…クソ、また伸びてきた。削らないと…。
…いつもの部屋へ向かわないと。
自分の部屋には、もしもこれから同室になる者が増えた時のことを考えると、あのブッソウな道具は置けない。不便で仕方ない────