彼女の深紅の瞳は、呆然と握りこまれた自分の手を見つめている。
突然の闖入者。突然の申し出。
色んな事が起こり過ぎて呆気に取られていることは明らかで────
「い、いや、ちょっと待ってください」
「そうだ!待て───いや、んん!待って頂きたい!」
僕と御者さんの必死の訴え。
それは名も知らない……他国の勇者の耳に届いたようで、彼はスコルアーチさんの手をゆっくりと離す。
大胆なかつ、突然の勧誘に後ろに控える人達がどよめく。
「今誘われたの?仲間に?」「あの修道女さんが…」「だいぶ前から紋章が出たとかの話は聞いてたけど」「あのスコルアーチさんが…」「え、すげぇ…」「この村から勇者の仲間が…!?」「えっ大丈夫なのか」「おいそういうこと言うもんじゃねよ」「神父さんは?」「差別だろ」「う、ごめん…」「あれ?いない?」「でもあの……人の紋章ってどこにあんの?俺知らないんだけど」「なぁ、勇者様には言った方がいいの?」「熱心に勇者様の話聞き回ってたもんなぁ」「嬉しいだろきっと」「神父さんは教会の工事が何とかで……」「やめろ余計なこと言うな」「あの床割れたのまだ直ってないの?」「えっ胸に…!?」「秘密にしとけ」「……頼んだら見せてくれないか?」「やめろ馬鹿。何考えてんだよ色々」「勇者の仲間…!村興し…!」「あのドワーフ仕事遅くないか?」「そこまで掛かる修理じゃねぇよな」「何か余計なことして金取ろうとしてるんじゃねぇだろうな」「教会から?罰当たりな」「村の奴らでやればよかったかな」「折角の晴れ姿がねぇ、こんな時に立ち会えないなんてねぇ…」
「…君たちは?私が僧侶さんを勧誘すると何か不都合があるのか?」
「不都合も何も……貴方は他国の勇者だろう、そう言っていた!」
御者さんが言葉を荒げる。
そう。それが気になっていた。
「…勇者が自分の出身国以外で、紋章を持つ仲間を勧誘するのはいいんですか?」
今代は勇者が何故か多く出現し、それに伴ってその仲間と認められる紋章を身体に浮かべる者も相当の数が確認されている。
だが、そうした存在が希少であることには間違いないし、その存在は国にとって代え難い人材となる……らしい。
なので、まず国や組織は自分の領域からその貴重な人材を離したがらない。他国に放出するなどしたくないし許し難い。
『……貴殿の意思は尊重しよう。文は出さん。だが……しくじるなよ』
とてつもない圧を感じる公爵の“失敗は許さんぞ”という意思を言外に感じさせる一言を思い出し、身が震える。
「ああ……成程。君達は察するにこの国の役人か?」
「いや、私はそのようなものであるが────」
「言いたいことは分かる。国家間の繊細な部分に私は首を突っ込もうとしていると、そう言いたいんだろう?」
御者さんが最後まで言い終わる前に、勇者はその金髪を整えるように掻き上げながら口を挟む。
「だが、少ないが前例はある。それに“そうしてはいけない”と定められている訳でもない。そもそも勇者は…国同士の言い分に心を砕く前に、魔王を討つ為に最善を尽くすべきだ。違うかい?」
「それはまぁ、そうかも…」
「いや何普通に言い負けてるんですか勇者様」
隣にいた修道女さんが僕の間の抜けた発言に鋭く突っ込む。
どうやら我に返ってくれたらしい。
「んん…プレァザスタの勇者様。その、とてもお話はありがたいのですか、今は……少し混乱していて…」
「勿論今すぐでなくていいとも。突然のことなのだからそうなるのも当然だ。聞くところによるとモアレの勇者に会いに行ったと────いや待て。今勇者と言ったか?……その、隣に向かって」
彼の視界が再び僕に注がれる。今度は蚊帳の外にいる人間をも観る薄い眼ではなく…驚愕の色が差した大きく見開いた眼が此方を見つめる。
「ど、どうも。お初にお目にかかります。…ラゴン村のリート。リート・ラゴンです。モアレの……勇者です」
初めて出会う自分以外の勇者。
そもそも勇者という存在を実際に目にするのは初めて。今までは本の中だけの存在だった。
こうして淡い光を放つ左手の甲に刻まれた紋章を、それが似合う壮健な人物が目の前にいる。
「え?あっちも勇者……」「……うん?」「…モアレって言ってた?」「言ってたな」
「え、嘘だろ」「いやでも後ろの馬車は立派だぞ」「確かにあっちは城下町の方の道だし……」「え、ふーん……」「…あの服は都会の流行り?」「いや違うだろ……」「…………」「……………………」
すぅーっと空気が抜けた浮き輪のように村の人達の興奮が収まっていく。
つい先程きらめいた眼でムーンさんに話を聞いていた女の子が目の光を急速に失ってゆく。
……小さな子の夢を一瞬でぶち壊してしまったことに対する罪悪感が凄い。ごめん、こんなので。
……諸々の問題はともかくとして、勇者に会えたこと自体は……ちょっと心が浮き立っている。これが勇者。
ざわついた村人達の様子を見るに、あの恐ろしい猪を剣一本で倒す腕利き。
きっと哀れな猪の遺体はあの人ごみの向こうに転がっているか、どこかで皮と肉に分けられている最中だろう。
右腰に差された剣を見るにこの人は多分左利き。
握手がしやすいように僕は左手を差し出す───────
「…お前が……勇者だと?」
───その手は取られなかった。
彼の碧い瞳は、ただじっと僕を見る。夜闇の中、獲物を見定める梟のように。
「……あー、あの?」
「……嘘や気狂いではない。分かる。ならその恰好はなんだ。ふざけているのか?その怪我は何だ?何かに負けたのか?勇者が?」
先程の柔らかい雰囲気がまるで無い。
横にいた御者さんが「う、うお」と呻き声を上げ後ずさり───更にその後ろから馬が興奮してしまった時のバタついた蹄の音。「うお!どうどう!どうどう!落ち着け!」という御者さんがの声が後ろの方に消えてゆく。
生物として上にいる強者特有の圧。馬はそれを鋭敏に感じ取ったんだろう。
僕も感じる……。剣の稽古の時、絶対に勝てない相手と組まされた時の空気。圧力。此方に詰め寄る彼からそれを感じる───
「あ、いやケガはわたしのせいなのです!」
スコルアーチさんの言葉に、虚を突かれたように彼の全身から醸し出されていた圧がふっと消える。
「…ん?何?その私の所為とは……」
「あ……はい。それなんですが……」
「────ちょっとした事故があって。ほら僕らが来た方は谷に囲まれているでしょう?そこで落石にあってしまったんです」
「それが何故彼女の所為になる」
「丁度落石にぶつかったのが偶々スコルアーチさんと合流した所だったんですよ。あそこで立ち話して往生しなければ怪我しなくて済んだろうにって気にしてくれてるんです」
「……え、あの」
事故なのは間違いない。なら勝手な判断だが今更どうこうとつまびらかにして評判を落とす必要は無い。ましてや勇者相手に。
……余計なお世話だったら後で謝ろう。
「ああ、成程…やはり素晴らしい。まさに……選ばれし僧侶に相応しい慈悲の心」
「…いえ…そんなことは…」
「…そして、その僧侶を貴様も手放す気は無いと。そういうことかな?」
スコルアーチさんに向ける柔らかな視線とは対照的な厳しい視線が、僕を貫く。恐い。
「……どうかな。一つ“紋章比べ”でもしてみないか?」
……紋章、なんだって?比べ?
「…知らないんじゃないだろうな?」
ムーンさんが放つ声の抑揚が更にもう一段階落ちる。
最早これは相手を威嚇する唸り声。
…ヤバい。大分怒らせてる。
自分はちょっとした競合相手なのかもしれないけれど、ここまで悪印象を持たれるようなことをしたんだろうか?大分礼を失する格好はしているけれども。
今にも叩き斬られそうな気さえしてくる。
「…紋章はそれ自体が不可思議な力を持つこと位は知っているだろうな。それを比べる。互いに紋章を押し付けあってな。紋章の力の弱い方は弾き飛ばされる…つまりはみっともない姿を晒した方が負けだ」
じゃあ勝負が始まった時点で僕の不浄負けじゃないか。
というかお尻触らせることになるんだけど。嫌だろこの人も。
「…やめておきましょう。後悔しますよ」
「…ほぉ、言ってくれるじゃないか。大層な自信だな」
そういう意味で言ってるんじゃない─────
──────パァンッ!!
突然、隣から凄まじい乾いた音が鳴り響く。
「…んん、お二人とも、ちょっと落ち着きましょう?」
……反射的に音がした方を見ると、そこには真紅の瞳を此方に向け、両掌を合わせた修道女の姿。
さっきのはスコルアーチさんが注目を引く為に打った柏手だったようだ。
……音がデカ過ぎてビックリした。なんか爆発したのかと思った。
「…そうだね。冷静にならないと………別に勝負をすることに意味なんて無い。別に勝った方に君がついて行くなんて約束を取り付けている訳でも無い。別に、な」
僕と同じように、視線を彼女に動かしたプレァザスタの勇者さんは僕に向けたものとは全く異なる柔らかい声色で返事をして───そのままくるりと身体ごと振り返り、成り行きを見守っていた村人達の元へ戻って行く。
「あっ勇者様!お泊まりでしたら是非ウチの宿屋で!仕留めてくださった大牙猪の処理を大急ぎでやらせてますから!新鮮な肉が食えますよ!」
「おい!何抜け駆けしてんだ!…勇者様。ウチは鍛冶屋でして。そのお腰に付けた立派な業物をピッカピカに手入れできます!どうぞウチに!」
「ちょっと!あんたら何言ってんの!さっき私が家で魔術の話しましょってお誘いしたのよ!」
「はは、ありがとうございます皆様。一人一人のお気持ちがとても嬉しい。ありがとうございます………ありがとう僧侶さん。そんなことをする必要なんて無い。分かり切ったことだものな。
───“結果”も何もかも。この光景を見れば」
最後の一言だけ、僕に向けて彼は放つ。またあの獲物を見下す猛禽の様な眼を向けて……
彼は村人の集団を引き連れて村の奥へと、日が落ちた闇の中へと消えて行く。
此方に、興味を示して歩み寄る人は、誰一人としていなかった。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。もうこれで二回目。
もう打開策は思いつかない。
そういえばいつの間にか御者さんがいない。馬車も無い。
馬車を停めて馬を落ち着いて休ませられる場所を探しに行ったか何かしたんだろうけど……
「んん……その…勇者様?」
「………?………あ!僕か!はい!」
気まずそうに修道服の余り布を摘みながら、スコルアーチさんが沈黙を切り破る。
「その、私も戻ってきたことを司祭様にお伝えしないといけないので…一旦これで失礼します」
「あ、そうですね。お疲れ様です」
最後に此方に向かってぎこちなく一礼し──黒い服を薄闇に溶け込ませ、彼女もまた家と家に挟まれた脇道に消えて行く。
……それじゃあ僕は────
「……あれ」
……それじゃあ僕は?
誰もいない、篝火だけが辺りを照らす、門の近くにある広間の中。
そこにはただ僕だけが孤独に立っていた。