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第九話 黒く染まる視界

  ◇


日記に“インク壺を片付けることにする”の文字を丁度書き終わったその時。微風一つ無い凪いだ海を滑る帆船のように穏やかに進んでいた馬車が馬の嘶きと共に突然動きを止めた。


「お、うっ」


慣性の所為で身体が前へつんのめる。危うく日記に干からびた蚯蚓みたいな線を残すところだったが、とっさの判断で鷲の羽を削って作った筆を天高く掲げた為、せっかく綴った文字列を台無しにすることは無く、日記は無事。


「危ない危な……っ」


ほっと一息を吐き出そうとしたその時───

羽ペンを突っ込んで日記に黒くのたくった染みを作る為に左脇の空いたソファの上に置いておいたインクの小さな蓋付きの、今は蓋が開けっ放しの壺。布に一度染み込んだら最後、しつこく擦っても洗剤に浸しても居座り続ける黒い染みを作り出すインクがたっぷり詰まった小壺が、慣性に従ってソファの端まで移動し、今落下しようとしている!お借りしている馬車の中で!



「あ危なああアブなぁぁいッ!!!」


そのまま手を伸ばして掴むのは駄目だ!衝撃でインクが絶対零れる!しかも最悪掴み損なったらインク壺は僕の手により勢いよく弾かれてこの毛織絨毯の床どころかこの馬車の中全てを黒に染める!


ならば取れる最適な手段はっ────


「うおおぉッ!!」


足が軽く沈む柔らかな床へソファから転がり落ちる。視界にインク壺を捉えたまま仰向けになるように!


黒く粘り気のある液体が、僕の視界を覆い尽くす。

その後、鼻先に硬い小物が当たる感覚。その小物はころころと僕の身体の上を転がり、臍の辺りで止まった。


……助かった。

豪奢な馬車に少しでも負けないようにと着てきた、晩餐会でも微力ながら尽くしてくれた貫頭衣はもう駄目だろうけどこの馬車の内装に比べれば文字通り安いものだし。


黒に覆われた視界の影響で少し鋭敏になった耳にがちゃり、とすぐ傍の扉が開かれる音が入ってくる。


「勇者様。急な停車をお詫びしまっ、勇者様!?なんとっ…申し訳ございません!私が拙いばかりにこのようなお姿に!」


アーリアお嬢様が紹介してくださった御者さんの声。どうやら目の前の惨状は自分が馬車を少しだけ急に止めた所為だと誤解している。


「ああいえ……気にしないでください。この有様は自分自身の考えとか配慮が足りなかった所為なんです。本当にお気になさらず」


「そ、そうなのですか……?」


自分の責任じゃないのか、と安心した気持ちと“じゃあなんでそんなことになったんだ”という気持ちが入り混じった声の色。まぁ目の前のこんな間抜けを見れば疑問は尽きないだろうな。


しかし、インクのように拭い切れない疑問は此方にもある。


「……そういえば馬車はなんで止まったんですか?馬の調子が良くないんですか?」


「ああ、いえ、それについてなのですが……どうも困ったことに道が塞がっているようなのです」


「道が?」


もうこれは駄目だろうしな、と開き直ってもう捨てる予定をそれとなく立てた服の袖で目を拭い視界を確保。

慎重に臍の上にあるインク壺を再び倒さないようしっかり掴み脚は伸ばしきったまま上半身だけを起こす。


目の前にはやや頬の骨が張った痩せ気味の、男の働き盛りといった年齢にみえる御者さんが扉を半分外側に開けて困惑した表情を見せている。その表情の原因の一つは間違いなく自分だと思うけど、他にも原因はある様子。


床に座り込んだまま、首を捻って窓から外を確認する。窓は黒く染まっている。インクの所為じゃない筈だ。

となると知らない間にもう日はとっぷりと落ちていたらしい。


「山に囲まれた谷道を進んでいたのですが、どうも何か、道に土か石の山の様な物があるのです。それがすっかり道を塞いでおります」


「えっ…土砂崩れか何かですか?」


「そういったようにも見えることは見えるのですが……如何せん暗くてはっきりとは状況が分からないのです。もうしばらくすればライラ村だったのですが、一旦戻らねばならないかと」


なんとも弱ったな……今から引き返して別の道から回り込むにしても相当時間が掛かってしまう。できればここを通りたいけれども……

とにかく状況をもっと詳しく把握したい。


この暗さなら、広い場所を照らせる僕の“紋章の力”が役立つはずだ。


「すみません、ちょっと失礼します」と御者さんに一声掛け、扉から数歩下がってもらい自分も外に出る。

御者さんが手綱を握って座っていただろう位置に置かれた、暗がりの中で揺らめく角灯の光が白馬を照らす。

その立派な体格の馬に間違っても蹴られないように脇をすり抜けて少し進んでいく。


「勇者様。一応先に馬車を後ろに下げておきます。また引き返すことになりそうなので……」


「あっはい。お願いします」


希望は捨てたくないが、そうしないといけない可能性は高いんだろう。一応念の為に確認はするけども……。

そんな思いを抱えて邪魔者の傍まで寄ると、確かに何か見上げる程に何かがうず高く積もったように見える山の影が目に入ってきた。


「うわ、本当だ。何でしょうかこれは……確認しないと」


「はい。今明かりを持ってきましたので……」


「あ、いえ。僕が照らします。その方がきっと分かりやすいと思うので」


「へ?」


そう告げて、僕は謎の塊に背を向ける。尻を向けると言った方が正しいか。


その尻に光は、なんと“まだ”灯っていない。


「ふー……よいしょっ……!」


心臓の鼓動に集中し、体内の血を紋章の位置に集めるような感覚を意識する。


城下町から旅立つ前。神父様に調べて貰って漸く見つけ出せた“紋章の光を調整する方法”を、まだまだ不十分で短い間しか向き合えていないが、その為に積んできた修行を思い起こす。



『教会の記録によると先代の勇者は必要に応じて紋章に淡い光を持たせていました。紋章が単なる刺青などではなく、勇者に選ばれた真なる証なのだと証明するのに重宝されたようです。心臓の鼓動を意識し、紋章の位置へ血を多く留めるような感覚を掴むことが重要であったとか。より力を込めればその光が強くなったとも』


『今は強くする方より光を弱める方法を……あの呪い主、グリィダ=クラウンでしたか。あの魔族の人に押し付けてからなんだか光が強くなってるんですよね』


『はい、もう夜なのにこの部屋だけ昼間のようです。ともかく、続けますとその光らせた紋章を鎮める方法についても記述がありました。そのままでしたら目立って仕方ないでしょうしね』


『そう!それです!その方法を知りたいです!教えてください!』


『紋章の光を再び抑える際は、そこに集められた血を再び全身へ行き渡らせるような感覚で光を鎮めていたようです』


『…成程!なら僕はそっちを練習すれば何とかなるかも!』


『はい。常に輝いているのはなんとかなるかと。お嬢様も後は医師に任せられそうですし、私も鍛錬にお付き合い致します。無意識の内にできるようになるまでは少し時間を要するでしょうし、他にも勇者に伝わる力についてお伝えしたいことはあるのですが、とりあえず今は翌日の晩餐会には何とか間に合わせるようにそちらの練習に時間を割きましょう』


『ありがとうございます!神父様!』


『勇者様。そのように頭を深く下げられる必要はございませんからどうか───アッ頭を上げてください!眩しい!姿勢を戻して!目が潰れるッ!』




「…あの、そこでも大丈夫だとは思うんですけど、危ないので、一応もう少しズレて僕の正面に回ってください」


「え?ええ。はい。分かりました」



一旦脱力し、念の為、角灯を手にぶら下げる御者さんに移動してもらい仕切り直す。

また無辜の人々の眼を焼きたくはない。もしまたやったらこれで三人目だ。二度あったことの三度目は許されない。


再び集中。散らしていた身体中を駆け巡る熱い小さな粒を動かす感覚。神父様に付き合って貰った短い間に何度も反復し身体に覚え込ませたあの感覚が身体全体に伝わってくる。


いいぞ、よし、今度は今までとは"逆"のことをする。


散らばらせたものを一点に、具体的には臍の下辺りに集めるよう意識する。集めた小さな粒達が熱を帯びて、自分の身体の内から紋章を通して光を放つように思い描いて───


その瞬間、暗がりにある筈だった自分の足元がはっきりと見えた。

丈の長い使い込まれた革靴のほつれた靴紐の一筋一筋までよく見える。


「うお!急に…これが、紋章の?」


「御者さん。どうですか?」


「はい!しっかり光っておりますよ!これが勇者様のお力というものですか?」


「いや、そっちではなくて。道を塞いでいるものがはっきり見えるようになりましたか?」


「あ…失礼致しました。そちらですね、ええと……」


とりあえず成功したようだ。光らせない訓練と平行して一応光らせる方の訓練も積んでおいてよかった。

意外なところで役に立つもんだなぁ。


……光源が後ろにあるおかげで、自分自身はその暗闇の向こうにある景色は見れないけど。


おまけにそういった事情もあって光量の調整も難しい。ある程度光を絞ったり強弱も操れるようにはなったけれど、時間が掛かる上に光源を視界に収められないから肌感覚で調整するしかない。


消灯か、最大まで強めるかなら一瞬で出来るが、微調整は中々難しい。何事も丁度良く収めるのには苦労するものなんだな。


とにかく今は強い光を御者さんに当てないように気を付けないと。


「…………大きな岩に、土に、砂利に……これは、木の根か?」


「根っこ?」


「はい。私の背と幅を優に超える道を塞ぐ大岩がまず在ります。……とても退かせそうにありません。馬達に引っ張らせても無理でしょう。まぁ退かそうにもこの細い道の何処に避ければいいのかという話になってしまいますが……」


「う……そうですか」


この辺りは山と山に挟まれた、二台の中型馬車が何とかすれ違える程度の細い谷道。狭い道で周りに人気も無いしどうにかしようにも今すぐの応援は期待できない……。


「その大岩を囲むように土や砂利が覆い被さり、その中に千切れた太い木の根が見えます……ふうむ、やっぱり土砂崩れか落石が起こったのでしょうか……別に近頃は大きな雨も無かったと思うのですが」


「…ん?土には千切れた木の根だけ混ざってるんですか?倒木は無い?」


「ええ、そうですが。何か気になることが?」


「いや、まぁ、大したことじゃないですしただの推測ですけど土砂崩れなら───ちょっと待って……今なんか、音がしたというか、揺れませんでした?」



曇り空から小雨の粒が肌を掠めたかのような、ちくりと肌を刺し空気が変わる微妙な違和感。それが一瞬足元に現れた気がした。


「…ん?……ん!?」


そして、それは御者さんも同じであったらしい。足元に一度視線をやってから、警戒するように左手に吊り下げた角灯で周囲を忙しなく照らし出す。


慌てている。当たり前だ。……こんな道で地震は……非常に良くない。


「う、うお……!?ここで地震?まずい……」

「御者さん!馬車の中に入って!山から何か転がってきたら大変です!」


いや、逃げ場のない場所に入り込む方がまずいか?とにかく落石や土砂だけには気を付けないと危ない。道を挟んだ山々の勾配はそこまで急ではないことはこの危機の中で唯一の救いだ。何かが転がってきても何とか対応する為にあらかじめ視界に収める余裕は持てる。


少々不自然なこの大自然の脅威。それに往生していた僕の脚が再び地面の震えを感じ取る。より揺れは存在感を強めている。


一旦紋章の光を押さえ込む。まだぼんやりと周囲は見えているし、それならこの場にいる人の視界を阻害することは避けないと。


御者さんが手に下げた角灯が一定の間隔で振り子のように揺れる。ただ、その動きには明確に振り子と違う点が一つ。だんだんと揺れの幅が広がってきている。


その困惑した表情からもいたずらに揺らしている訳では無いことは明らかだ───そして、また揺れが強くなる。


……何か、おかしい。確かに轍の出来た地面からは揺れを感じるし強まっているのも分かるけれど、地震にしては何かおかしい。揺れがなんというか、途切れ途切れだ。


それに何か硬く重い物を叩く、ドン、ガンという重厚な音が先程から耳に入ってくる────これだ。揺れの正体はこれだ。音が響く度に地面が震えている。


何かが何かを叩きつけられている衝撃が地面を介して伝わってきている。


どんな存在がそうしているのか、そもそもこの行為の主は生き物なのかも分からない。だけど、その存在が衝撃を与え続けている物はすぐ分かった。何かを叩きつけられ破壊されようとしているそれは攻撃に耐え兼ねて、大きくぐらつく。


今にも雛が孵ろうとする卵のように揺れる目の前の大岩からパラパラと土埃と砂利が落ちてくる。


「……だ、誰か向こうにいる?」


再び、目の前の大岩に向こう側から凄まじい一撃が加えられ────轟音と共に岩の頂点から底面に掛けて、亀の甲羅模様にも似た大きな皹が入った。


「……やばい。御者さん下がって!入って!早く馬車の中に!」

「え、あっは、はい!」


ぐいぐいと骨張った背中を突き飛ばすように押して急かし、御者さんを馬車の方へ走らせる。


皹が入った大岩から視線を外さないように自分も下がる。向こう側の“何か”が何をしていようとしているのか分かった。このままぼさっとしているのはまずい。


次の一撃がすぐに来る。そうしたら────


大量の火薬が弾ける音にも似た乾いた爆音が地面を震わせ、空間に轟く。

砕け散った大岩の破片が散弾さながら辺りに飛び散り────そのうちの一つが、僕の目の前へ飛んでくる。


避けようの無い危機に脳が反応したのか、周囲の時間が一瞬だけ、とてもゆっくりと流れる。眼前に迫る欠片にあった黒と茶色の粒々を数えられる程に。


弾丸めいた破片が額にぶち当たる。頭蓋に衝撃が響き渡り脳を揺らして、視界がまた黒く染まってゆく────────


────視界が完全に暗闇に落ち切る前、一瞬だけ目に入った。岩の向こう側に確かにいた誰かの姿が。


その赤い双眸は、驚愕の色を湛えているように見えた────




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