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入る前に一礼し、恭しく、足音や鎧の擦れる音さえ鳴らさないように部屋へ踏み出していった騎士様に続いて、僕もどうにか父さんに教わったお辞儀の角度を思い出しながら頭を下げてから慎重に部屋の中へ歩を進める。
部屋の中は、非常に静かで時計の針が一秒毎に時を刻む音と、真ん中に置かれた天蓋付きのベッドから聞こえる微かな寝息以外の音が聞こえてこない。ベッドには天蓋から薄い布が掛かっていて中で横になっている人の様子ははっきり分からない。でも、状況を考えるにあの中で休んでいる人影が件のお嬢様なんだろう。
そのベッドの頭側から離れた、壁際に置かれた赤い革張りの丸い肘掛けが付いた豪奢な椅子──その両脇には、僕を引っ張りまわしてここまで連れてきた二人の騎士様、と更にその左端に神父様が立っている──そこには恰幅の良い、後ろに流した髪に所々白髪がある初老の男性。高貴そうな紫色の前が開いた上着を着ており、その首元にはケープの様な物を引っ掛けている。首元から二の腕の辺りまで覆うそれには鳥の……恐らく不死鳥らしき刺繍が金色の糸でなされている。玄関に会った壺にも同じような国旗に倣った紋様があった。つまり、モアレ公国そのものを表す物を身に纏う人物が深く座り込んでいた。
赤い外套の騎士様が赤い絨毯の上に片膝を付き、右手を胸に当てて恭しく礼をする。
慌ててそれに倣い、同じように頭を下げる。
……確か、右手を胸に当てるのは教会の人の作法だったけどそれも真似した方がいいんだろうか。
「よく戻ってきてくれたアカバネ殿。………では、そちらに控える者が、そうか?」
「はっ、モアレ公爵。こちらにいらっしゃる方がお嬢様を救う…“浄化”の力を持つ勇者。選ばれし紋章を持つ者でございます」
がしゃ、と鎧が擦れる音から騎士様が頭を上げて声の主に返事をしたんだと分かる。
おずおずと自分も頭を上げると、声の主とばっちり眼が合った。
積み重ねてきた年月と経験、そして穏やかさを感じさせる皺の刻まれた顔。だが、その目付きは鋭く、僕を射抜く。
「お、お初にお目にかかります。……ぼ、私はラゴン村のリート。リート・ラゴンと申します」
声がどもる。情けない姿だがどうか勘弁してほしい。一国の支配者にいきなり呼び出された上に、今から────
「そうか、ふむ。其の方が……件の。紋章が尻に出たという」
「……そうなります。はい」
そんな立場にある人の前で、その人の娘に無礼を働かなきゃいけないのだ。
「…其の方が“浄化”の力を有する勇者であるということ、そしてその力を行使する手順については神父殿からつい先程聞き及んでおる」
皺の深い顔から覗く、鋭い眼が今度は左端に立っている神父様を射抜く。
一瞬、神父様はびくりと身体ごと黒い外套を震わせ、目を泳がせるが、軽い咳払いと共に平静を保った表情を取り戻す。
…本当に尻云々の話を通してくれてたんだ。
一国の支配者に。凄い勇気だ。勇者を名乗ってもいいと思う。
「……教会の方々が保証しているのだ。其の方が神に選ばれし勇者であるということを」
鋭い視線が再び僕の方へ戻ってきた。
「は、はい。その、そのようです」
そのようですって何だ。何でちょっと他人事なんだ。
隣で片膝をついている騎士様の首が若干こちらを向く。
今は顔を逸らせないが、直接見なくとも“おい、大丈夫だよな?”と言いたげな、不安を伝える視線を送られていることが分かる。
「吾輩は其の方を信じておる。必ずや我が娘に掛けられた呪いを解いてくれるとな」
「こ、光栄でございます…」
信じている、そう言い切られた。
言葉の一つ一つが重い重い責任を持つ、そんな立場の人に。
つまり、これで解呪に失敗すれば?
僕は一国の主の信頼を裏切ったことになる。
その後のことは考えたくもないが、否応にも“斬首”とか“よくて島流し”という今の緊張で張り裂けそうな心に優しくない言葉が次々に頭をよぎる。
考えたくないこと、思い出したくないことにどうしても自分の脳味噌は興味が絶えないようだ。勘弁して欲しい。
すぅー、っと息を吸い込んで、どうにか縁起でもない思考を頭から追い出す。
こういう時はもう目の前のことに集中するしかない。
「…公爵様。その、娘様のご様子を確認させて頂きたいのですが…」
「勿論。そうせねば始まらぬ…アカバネ騎士団長。話は聞いておる。勇者について手助けをしてくれるか」
「はっ。では……失礼致します」
騎士様が静かに立ち上がり、部屋の真ん中に置かれた天蓋付きのベッドに向かって静かに歩き出す。
それに続いて僕もできるだけ静かに、埃を舞い上がらせない様にその背中を追いかける。
…多分結構偉い人だろうとは思っていたけど、やっぱり団長さんだったのか。そう言われれば赤い外套とか飾り付きの兜がそれらしい。
「リーリア……リーリア・アーリア・ジ・モアレ様…失礼致します」
騎士団長様が、部屋とベッドの空間を分ける天蓋から垂れ下がった薄手の布を両手で分けるようにして搔い潜り、中の空間に入ってゆく。その揺らめく布と布の切れ目が閉じきる前に自分もするりと隙間に身体を入れる。
さぁ、大事な大事な確認の時だ。その呪いの印とやらは一体どこに出ている?
『触ったせいで呪われた』とか言っていたし多分手や腕の方に出ていそうな気がするけども、希望にすがらせて貰えるならそこからこう、体質的な問題とか術者の都合で足の裏とかに出てて欲しい。まだ他の場所よりかは罪悪感がちょっとマシになる。解呪される側はどこだろうと知らない奴の尻に触れたくないだろうけども。
不幸中の幸いを全力で願いながら、御令嬢の姿を視界に納める。
首元や手首にひらひらとしたフリルや糸を撚り合わせた白い寝間着を着た妙齢の女性が頭の後ろで束ねた金色の長い髪を枕に乗せ、細い寝息を立ててそこに横たわっていた────ベッドは思いの外大きくない。貴族のベッドというのはぱっと見て大の大人が数人余裕で横になれる広さを持っているものだと思っていたが、目の前にあるものは一人で寝る分には十分な広さがある程度だった。
そんなベッドに横たわる女性の肌はとても白い、がそれは呪いによる体調の悪化によるものというよりは元々の体質によるものといった具合に見える。恐らく日頃からあまり日の光に当たる生活を送っていないのだろう。
とりあえず一刻一秒を争うといった体調ではなさそうだ。その証拠に奇妙な円形の紋様に邪魔されてちょっと見にくいけどもそこまで顔色も悪くない。
顔にあるじゃん。ふざけないで欲しい。最悪だ。
「……あー……休んで………お休みになっておられるんですね」
「ああ、昨夜は熱に少々苦しめられよく寝付けなかった様子であったと使用人が言っておった。そして今は熱が引いたとの話でな。日が昇ってからようやく眠気がきたのであろう。吾輩が此処に来た頃には既に寝付いておった。神父殿が来てからも起きておらぬ」
誰に向けているのか自分でも分からない僕の言葉に、薄い垂れ衣の向こうから返事が返ってきた。
少ししわがれたこの声からして公爵様だろう。
「……リーリア…お嬢様も懸命に呪いに自分の身体を明け渡すまいと戦っておられる。気高い方だ」
そういうこと言わないで欲しい。益々罪悪感が募る。何で顔なんだ。何で尻なんだ。
……いやちょっと待て。聞き逃せない話があった。
「…朝からお嬢様は寝ていらしたんですね?」
「そうなりますね」
隣にいるアカバネ様が軽く頷きながら相槌を打つ。
「……神父様が、僕の紋章のことを説明してる時もお嬢様は寝ていらしたんですよね」
「…そうなりますね」
「じゃあこのお方、ご本人は“解呪”の方法についてまだ知らない…?」
「………」
黙らないで欲しい。後生だから。
くそっ…一番の障害が残ってた……どうする、いやどうするもこうするも一旦起きて貰って説明するしかないなぁ……。
「………勇者殿」
「はい?」
「このまま、お願いできないでしょうか」
「は?」
「教会の記録に残された過去の例を見るに、“浄化”にはそう時間を要しません。数分と掛からないはず」
「眠ってる女性に無断で尻押し付けろって言ってます?」
しかも顔に。
「尻だからこそです……リーリア…お嬢様はお優しく、清廉なお方。自身がそうした運命にあるということは気丈に耐え、受け入れられるでしょう」
何だかとんでもない試練的な扱いを受けている。別に綺麗な尻を持ってるとは思ってないし状況を考えれば仕方ないけど、ちょっと傷つく。
「しかし…耐えるということは心に傷を残すということ。ならば、何も知らないまま、今ある苦しみだけを取り除きたいのです」
倫理観があるのかないのかよく分からなくなってきた。気持ちはちょっと分かるけどだからといってこれを無断でするのは……。
そうだ。そもそもここにお見舞いに来てる親御さんが良しとしないだろう流石に。
「吾輩は構わぬぞ。それでさっさと解呪ができるならな」
なんで許可出すんだよ。