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第二話 閉じた日記、開く扉

  ◇


「……あぁ、何やってるんだか。本当に」


天上に梁が剥き出しになっている少し埃っぽい部屋で、軽くため息を吐きながら自分の浅はかさを後悔する一文で締めくくった日記をぱたんと閉じる。

つい先日から「勇者になれるのかもしれない」という熱に浮かされて、これは記録を残さねばと地元の雑貨屋さんで買ってきたばかりの革で張られた日記はまだ傷が少なく真新しい。


……このまま帰ったらもう日記を続ける気は起きないだろうなぁ。自分の勘違いで余計な出費をしてしまった……このまま箪笥の肥やしにしてしまうのは色々と心苦し過ぎる。せめて覚え書き程度には使おう。

日記にも書いたけど兄さんの言い分は一から十まで当たっていた訳だ。そんなわけはない、何かの間違いだったのだ。


昔、教育の一環として覚えこまされた教会の教えによると、勇者というのは天が相応しい者を選び、その証として[紋章]を与えるのだという。その考えに基づいて考えるなら、確かに天とやらが自分を選ぶはずがない。特段剣の腕が良い訳でもなく、魔術を扱ったことがあるわけでもない。結構前に村の魔術具屋さんから試供品で貰った火の巻物スクロールをちょっと使った経験があるくらいだ。鍋をあっためる為に下に敷いて使ってみたら美味しい野菜と猪肉のスープが作れたけど、その為だけにあれを継続して買うには費用が馬鹿にならない。試供品だけ貰って本命を買わないのかなり気まずかったな……。帰ったら一束位買わせてもらおうか。ああ、どんどんお金が出ていく────


───トン、トン、トン、と自分が入ってきた扉を叩く音。それが考えの浅さを嘆く自分の耳に入ってくる。


「え?はい。ちょっと待ってくださいね。今開けます」


心当たりは無いけれど、お客さんのようだ。ベッドに入る為に肌着だけになる前で良かった。

太い鉄の棒を輪っかに通して戸を固定する掛け金をちょっともたつきながら外す。


「はい、どなたですか?」


滑りが悪い扉を自分の方へ強めに引っ張りながら開けると、そこには────


「やぁ、夜分遅くにお邪魔するよ」


─────そこには、自分より少し背の低い、黒っぽく鍔が円形に大きく広げ頭頂部が折れ曲がった三角帽子を深く目元の辺りまで被ったいかにも魔術に深く関わる者といった風体の、ゆったりした外套から体型は分かりにくいが声色や鍔の下から見える口元から判断するに女性が立っていた。


「すみません、どなたで────あ」


突然の来客に少し驚きながら、顔を確認しようと首を傾げて鍔の下の顔を覗き込もうとするとあることに気付いた。

この人、その丸くて大きい帽子の鍔に負けない位耳が長い。帽子の鍔に沿うように伸びたその尖った耳に見覚えがある。


エルフ。魔の力に長け、言わずと知れた長命の種族。

長命が過ぎて、寿命で死を迎えるエルフは極々稀なのだなんて話も聞いたことがある。天命まで生き抜くより雷に打たれて死ぬ可能性の方が高いなんて冗談も。……本当に冗談なのかどうかはちょっと自分の中ではっきりしてない。


「急にすまないね。ちょっと君に話を伺いたくて」


首を傾げて顔を見ようとした自分に対して、少し気まずげな様子で彼女は帽子を目深に被り直す。

顔をあまり見られたくないのだろうか。それなら無理に見る必要は無い、と首の角度を元に戻す。


「先程、強面の店主と色々話していただろう?途切れ途切れにしか聞こえなかったが…勇者がどうとか紋章がどうしたとかね」


「えっ?あっ……聞かれてたんですか?」


あの時、周りには誰も座っていなかった筈。そもそもこんな目立つ帽子を被っている人がいたら僕は覚えていると思うのだけど、何処で聞いてたんだ?


「はは、ちょっとね。盗み聴きのようになっちまって悪いねぇ」


そう謝罪の言葉を述べると、長年使い込んでいるのだろう古ぼけた帽子の鍔を触り顔に影を落とさせる。

…やっぱり意図的に顔を隠してるよな。何か訳があるんだろうか。


「でもね、場所が悪くてね。途切れ途切れにしか聞こえてないんだ。だから、気になっちゃってね。どうしても」


くい、と彼女が顔を上げる。一瞬だけ、帽子の影に遮られた顔に金色の瞳を持った右眼が見えた。

ちらりと見えた顔の輪郭からは若さを感じ、口調は柔らかい。だが、一瞬垣間見えたその視線から感じられるのは獲物を捉える修羅場を何度も潜ってきた鷹の様な鋭さ。


「え、えーっと…何か、僕に尋ねたいことが?」


「うん。そういうこと。お礼はするからさ」


そう言うと、ゆったりした外套に右手を潜らせた耳の長い彼女は銀貨を二枚を取り出して──未だに扉の取手を掴んでいた僕の左手をその長い手袋に包まれた細い指で戸の金具から引き離し──握らせる。


…額が大きいから遠慮しようと思ったのに、一連の動作が滑らか過ぎてその暇すらなかった。かなりこういった聞き込みに慣れているんだろうか?

というか、握り込ませた手を離してもらえない。


彼女は両手でしっかりと僕の左手を包んだまま動かない。



「君は、勇者の紋章について話をしていた」



「──えっ……はい…」



先程まで陽気な吟遊詩人のような剽軽さすら感じられた彼女の声の抑揚が、厳格で恐れられる教師のような低いものへ変わった。


「君はごく最近に紋章に関わる出来事に立ち会った。間違いないね?」


「は、はい」


先程とは打って変わって、まるで犯罪者が公権力から尋問を受けているような重苦しい空気が辺りを包む。


「うん。間違いない…嘘を吐いていない。では、本題に移ろう」


左手を固く、両手で包み込まれる。渡された銀貨が掌に食い込んで痛い──はずなのだが、妙な圧力に気が押されて、身体が痛みに気を配る余裕が無い。

空気が、重い。

こんな雰囲気に晒されるのは昔、剣を習っていた道場にうっかり遅刻してしまい、先生にその理由を淡々と問い詰められた時以来かもしれない。


「…君は、何時何処で紋章に関わる出来事に立ち会った?」


「え、っと」


「誰か、勇者の紋章を持つ者と出会ったのか?例えば───」


「え?い、いえ、違います。僕に出たんです」


「は?君に?」


固く握り締められた手が、少し緩む。


「…君の何処に?」


「尻です」


「尻」

「左尻です」

「左尻」


重苦しかった空気が一気に弛緩する─────と同時に銀貨を握り込まされた手に鈍い痛みが走った。


「痛たたた!手が!」


「あっ、っとごめんよ…」


抑揚に剽軽さを取り戻した彼女は素早く手を緩め、離してくれた。体温が移った銀貨が生暖かい。


「…嘘は…吐いていないんだよな………なぁ、ちょっと見せてもらってもいい?」


「何で!?駄目ですよ!」


何で場所を聞いた上で見ようとしてるんだこの人。


「…い、いや、というかですね。話がややこしいんですけど、尻の紋章のことは僕の勘違いだったらしいんですよね」


「……うん?」


「だって、魔王が現れる時に紋章を持った勇者が現れるんでしょう?今までもそうだったってちっちゃい頃から聞かされてます……でも、故郷の田舎から出てきても魔王の話なんて聞けませんでした」


「…だから、僕の勘違いだろうなって。魔王がいないのに勇者だけいるなんてことはないでしょう?……色々逸ってしまったんです」


「……ふむ、成る程」


僕の言い分を聞いて、彼女は両手を外套の中にしまい込んで軽く俯く。分かりにくいが腕組みをしている様子だ。


「…というか、そもそも紋章が尻に出たなんて歴代勇者の話聞いたこと無いですし。その時点で気づくべきだったなぁ……本当に何してるんだか」


今更だが、思い起こすと偶に父が土産に買ってきてくれた勇者譚────今になって考えてみれば、教養を身に付けさせる狙いもあったのだろう────にもそんなヘンテコな勇者はいなかった。


いたら絶対に忘れてないだろうし、話の種にしていた筈。腕白な友とウンコだのチンチンだので腹が捩れる程笑っていた幼い自分が見逃す訳が無い。

子供の頃何回も飽きずにやった、手の甲や顔にそれらしい紋様を描きつけて棒を振り回す勇者ごっこで調子に乗った子が尻に描きつけて遊んでいる筈だ。

光景が目に浮かぶ。そのまま円滑に母親から尻叩きの刑を受けてるところまで鮮明に浮かんでくる。痛そう。


「……まぁ、確かにそうだなぁ。私は君より随分生きてるけどそんな奴は見たことないな。実物でも資料でも」


「…あ、そんなお年なんですね。やっぱり見た目じゃ分からないや。僕と変わらない位にしか見えませんよ」


「はっ、世辞が上手だね。お駄賃増やして欲しいのかい?」


特にお世辞を言ったつもりは無い。エルフの人は本当にまるで見た目からでは年齢が分からない。


皆大体若々しいのに大抵とんでもない齢をしている。以前村を訪れた同い年くらいに見えるエルフさんに歳を聞いてみたら「……多分…五百は超えてた気がするけど」と返されて大層たまげた。十の位があやふやになることってあるのか。


「全く、ちょっとだけだぞ」


そう言うと、目の前のエルフさんは手持ち無沙汰だった僕の右手に銅貨を四枚握らせる。

くれるのかよ。両手が塞がってしまった。


「…そう言えば、何で勇者のこと聞いてきたんです?魔王もいない世の中でそんなこと聞いても仕方ないんじゃ」


「…ん?ああ、はは。趣味だよ。勇者に関わる歴史を調べるのが好きなんだ。歴史の探究は長生きしてる暇人にピッタリなのさ」


趣味、趣味か……。

…さっきの迫力は、趣味に深く打ち込むことで無意識の内に出るものなんだろうか。


「うん、確かに…勇者だけで無く、戦士や僧侶の紋章も上半身以外の場所に紋章が出たという記録は残されていない筈だな。累計で一番多いのが……手の甲だね。下半身というか、尻には覚えが無い」


見知らぬ人の助力で僕の勘違いだった説がどんどん補強されていく。


「ええ…じゃあこれなんなんですか?ずっと光ってるんですけど」


「分からないね……光るの?じゃあ前世が徳を積んだ蛍だったんじゃないかな」


「前世で悪いことしないと今世で尻光らないでしょう」


「はは、確かに」


本人としては笑い事ではない。

やっぱりこれは呪いの類いだと思う。


「さて、貴重な話を有難う。そろそろお暇しようかな」


「ああ、いえ。実入りの無い話しかできなくて申し訳ないです」


「いや、楽しかったよ。……それじゃあ」


そう告げて、三角帽子の耳の長い彼女はくるりと外套を翻し、コツ、コツと杖で床を突くような音を響かせながら離れていく。

……この音は何だ?杖なんて持ってなかったよな?


「……ああ、そうだ。君」


彼女が立ち止まり、何か硬い物で床を突く音が止んだ。


「もしもだけどね、君が勘違いだったっていうのもまた勘違いで……要するに君が本当に勇者の紋章を持っていたら、どうする?」


立ち止まったまま、振り返らないまま彼女は言葉を続ける。

…ちょっと話が、というか質問の意図が掴めない。


「どう、と言われても……」


「…まぁ質問が悪いな。ごめんよ。忘れておいて」


一階の酒場の騒ぎ声に混ざり合うように、コツ、コツという音が再び響き始める。


「天とやら、神とやらに選ばれたとしても、無理をする必要は無いって言いたかっただけなんだよ」


彼女の声と、恐らく足音は階段を下ってゆき、そのまま酒場の喧騒と溶け合っていった。



……何だったんだろう。僕は誰と何について話していたんだが。掴みどころのない人だったな…。

化け鼬シェイプシフターにでも化かされた気分だ。もしそうだったらこの手に握らされた銀貨と銅貨が実は葉っぱや馬糞だったりするのだけど、そんな様子は無い。部屋に戻って錠を掛け直してから、貨幣同士打ち鳴らしてみるとちゃんとカチカチと音が鳴る。


…今日はもう寝よう。


あちこちほつれた麻の上着を脱いで適当な壁の出っ張りに引っ掛ける。分厚く暑苦しいズボンを脱いで床に置いた口を開けたままの背負い鞄の中に突っ込む。

そうして肌着姿になり、ちょっぴり硬いベッドの中へ飛び込んだ────


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