トイレから出るとまだマリアの姿がない。鳥坂は気にもならないが、胡蝶はうっとしいほどに横でソワソワしていた。
「おい。落ちつけよ。たかがトイレだろ。小学四年生がトイレに落ちて流れる訳ないんだし、待ってりゃ出てくるだろ」
「そうね。そうよね」
目の前を女性が通り、同じ女性がまた通り過ぎると、さすがに鳥坂もおかしいと思い始めた。その時だった。
男性トイレと女性トイレの間にある、身体障害者用の大きな引き戸が、勢いよく開けられた。中から同じくらい勢いよく飛び出してきたのは、マリアだった。彼女はそのまま鳥坂の腰に抱きついた。
「マリアちゃん。ここに入って行ってたかしら……」
鳥坂もマリアが女性トイレへと入ったのをしっかりと見ていた。
しがみつくマリアの体は、小動物が大きな相手を怖がって、小刻みに震えている状態に似ていた。。
反動で閉まりそうなドアに手を掛け、鳥坂は勢いのままに開けた。
携帯を握ったまま男が、鳥坂に体当たりをしてきた。しかし鍛えられている体は、強い盾のように体当たりしてきた男を止めた。
鳥坂は、直ぐさま男の手を捻じりながら背中に回し、壁に押し付けた。胡蝶も男丸出しに顔で中に入って来る。マリアも胡蝶の服を掴んで一緒だ。
「胡蝶。こいつのスマホを取り上げろ」
指示を受けて、それが何を意味しているのか理解できたようだ。
「鳥坂」
画面に動画が再生された。画面には嫌がるマリアを壁まで追い詰め、スカートを捲
くり上げている、見ているだけで胸糞悪い画だった。
別にマリアを可愛がっている訳でも、特別視しなんてしてはいないのに、今まで感じた記憶がない嫌悪感、マグマみたいに熱い怒りの塊が、腹の中で出口を探しているみたいに体に中で暴れている。
鳥坂は、捕まえた男の頭を鷲掴みすると、思いきり壁に叩きつけた。
一度、二度。三度目で胡蝶が鳥坂の腕を止めた。
タイルの壁には血が付着し、男は鼻と口、額から血が出ている。
「鳥坂。その辺でやめときな」
興奮で知らず知らずに上がっていた呼吸を整えて、掴んでいた男を便座に突き飛ばした。
「携帯番号、アドレス。名前に住所。しっかり控えたよ。今度しでかしたらネットでもなんでもばら撒くよ」
胡蝶は男の鞄から財布を抜き取り、免許証と学生証の内容をスマホのカメラで保存していた。
胡蝶の手際の良さに、鳥坂の熱は幾分がまた下がっていく。最後にスマホの画面を、思いっき拳で叩き、力任せに折ってから便器に投げ込んだ。
鳥坂たちは、折れそうなマリアの腕を掴んで、個室を出た。
「ちょっと、鳥坂! 止まりなさい! マリアちゃんは可哀想でしょ」
トイレから、十メートルほど離れた頃、胡蝶の怒鳴る声で我に返った。
掴んでいた腕から手を離すと赤くなっていて、マリアの息が上がっていた。止まった鳥坂を、小さい肩を上下にしているマリアが見上げている。
血流のせいか、ぽってりしている唇がいつもより赤くなって、色白の頬に赤味掛かっていた。
マリアの容姿は、百人いれば全員が可愛い、綺麗な子どもだと賛辞するだろう。でも鳥坂は今のマリアを目の前にして「気色悪い」と感じた。
並から大幅にズレた、子供らしくない美しさと可愛らしさが異様とされ思えてくる。マリアのこの異様なまでに完璧とも言える容姿が、一部の人間の正常な部分を狂わせているのではないか?
「鳥坂?」
鳥坂の考えを読んだのか? と見間違うほどに、胡蝶の顔は険しかった。
「行くぞ」
鳥坂が速度を緩めて歩き始めると、マリアがいつものように服を掴んでくる。鳥坂も胡蝶も口を開くことなく、そのまま示し合わせたみたいに建物を出た。
外は日差しが強く、屋内から出た目に厳しい照り返しで嫌でも薄目になってしまう。
少し離れた場所までくると、胡蝶がマリアの腕を引っ張って、その反動で鳥坂も足が止まった。道の端で胡蝶は、マリアに目線を合わせしゃがみ込んだ。
「マリアちゃん。大丈夫?」
首が縦に動いた。ボードに書き込んだ文字に、胡蝶の顔柔んでいた顔が険しくなる。鳥坂も気になり覗き込んだ。
「なれているから」
馴れている? 何に? 痴漢にか? 胡蝶が鳥坂の腕を不意に引っ張ると、数歩だけマリアから離れて視線だけを残し、囁くように喋り始めた。
「あんたには言ってなかったんだけどね、ちょっとあの子のことを調べたのよ。もしかしたら……性的虐待、されていたのかもしれないね」
虐待という言葉に、心臓が石になったように重くなった。胡蝶は続けた。
「あの容姿じゃ、あっても不思議じゃない気がするんだよ。鳥坂? 聞いてるのかい?」
「え? ああ」
胡蝶は鳥坂の背中を思いきり叩くと、マリアの元へ戻っていく。合流しようと歩き出した時、今度は横から大きな衝撃が襲った。ちょうど植込みがあり、そこに勢いよく倒れ込んだ。
自分が立っていた場所に、入れ替わったように男が立っている。その手には包丁らしきものが握られ、刃から手に掛けて赤い液体が付いていた。
「痛ぇ……」
視覚が合図だったかのように、脇腹辺りが焼けつくように熱く、鈍い痛みが湧きおこってきた。刺した男は固まったままでいる。
「……お前」
男は、鳥坂が覚えていた事実に驚いたみたいだった。その拍子に金縛りが解けたように、男は走り去っていった。
周りからは叫ぶ声や、野次馬が面白そうにスマホで鳥坂を撮っている。動物園の折の中に生き物か、珍獣みたいな扱いだなと、冷静に周りを観察していた。
「鳥坂! 鳥坂!」
胡蝶がおっさんらしい声で名前を呼んでいた。
「――胡蝶。やられたわ」
胡蝶はスカートの裾を力一杯に破いて、鳥坂の傷口当てた。気付けば胡蝶の膝に頭を置いている。
「おっさんの膝枕は……気色悪いな」
いつもみたいな反応はなく、目を潤ませて小さい震える手で救急車を呼んでいる胡蝶を珍しい。治ったらこれをネタに、からかうのも面白いなと霞んでいる意識の中で考えていた。
体中の全神経と熱が傷口に集まり、新たに心臓でも作っているのではと思えるほどに、脈打ち、同時に針で全体を突かれている感覚だった。額からは脂汗が出てきている。
それでも鳥坂は何処か冷静だった。マリアが書いた「なれている」今さらながら、なるほどな、と思っていた。