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第22話

 約束の水曜日。鳥坂は部屋に響く音で目が覚めた。

 枕元に置いてある、目覚まし時計代わりのスマホのボタンを押しても音は止まない。覚めきっていない頭は、携帯が壊れていると間違った答えを一瞬はじき出したが、音が手に持つ小さな箱からではなく、リビングから聞こえているのに気付いた。

 ベッドから抜け出した鳥坂の足は、重いものを引きずっているみたいにインター・フォンを見た。

 小さなモニターには、レンズを覗きこむ胡蝶の顔が画面一杯に映し出されている。

 応答するのも面倒だった鳥坂は、そのまま下のロックを解除し、気付いた胡蝶がエレベーターホールに入っていったのが映っていた。

 玄関を解錠すると、そのままベッドへと引き返した。中はまだ暖かくて、外気で少しだけ冷えた体をまた包んでくれ心地がいい。

 それなのに直ぐに部屋の空気が皮膚を撫でた。


「ちょっと鳥坂! 起きてきたんならそのまま動きなさいよ! とういうか起きろ」


 体を胎児のように丸め無視するが、一度起きた脳はたやすくはもう寝てはくれない。


「何だよ……朝の早くから。寝かせろよ」

「早くない。もう九時を回ってるじゃないか」

「年寄りは朝が早いから、九時でも遅いと思うんだよ。俺は若いから九時はまだ六時に相当する」

「誰が年寄りだ? ああ?」


 胡蝶の声が、地面から響くような低いものに変わった。

 普段は女装をし、それに見合う仕草をしてはいるが、やはり本質は男だ。それが表に出ると厄介だ。

 以前、仕事が早く終わった日だった。時間も夕方だったこともあり、いつもはあまり見る機会がない、帰宅するサラリーマンや学生が忙しなく歩いていた。

 電車を降り、何かを食べる時はいつも帰る方向にある適当な所で食べていたが、連日してしまうと、変わり映えがなくなっていた。

 駅を挟んで反対側へ降りてみようと思い立ったことがあった。

 南口にはタクシー乗り場とバスローターリーがある。店も軒を連ねているが、どちらかと言えば、女性向けの店舗が多いように思えた。

 自分向きではないなと思いながら、普段通りに北口にある店でいいかと、歩き始めた時だった。

 十メートルほど先で、まばらではあるが人が集まっていた。

 好奇心はあるが、立ち止まって見るのも恥ずかしいのだろうか。中には自分のペースで歩いていた通行人が、近くなるにつれてスピードを緩め、首を命一杯に伸ばしながら覗きこんでいる。

 何事かとそちらに意識が集中しているため、時には前から歩いてきた歩行者に気付かずに、ぶつかっているサラリーマンもいた。

 鳥坂も興味本位から近づいて、徐々にピントがってくると、周りの視線の先で何が起こっているのかはっきりと見えてきた。


「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ!」


 と、ワンピースを着た胡蝶がドスのある声を出して、スーツ姿の中年男性の襟首を掴み上げていた。

 中年は眼鏡をかけたやせ形で、視線が定まらず額からは脂汗が滲み出ていた。

 鳥坂は胡蝶の視界にはいらないようにして、斜め後ろに移動した。

 見た目は女性で、不細工かそうでないかで分けると、胡蝶はその辺の女よりも綺麗な顔立ちをしている。

 容姿からは想像できないドスのきいた低い声をあげ、軽々と中年を持ち上げている。目の前で、胡蝶の変貌の恐ろしさに泣きだしている女子高生もいた。

 鳥坂はその場でしゃがみ、猛獣が暴れている姿をじっくり観察し始めた。

 胡蝶が謝れと怒鳴り、中年が知らないと声を震わせいている様はまさに、サバンナで繰り広げられる弱肉強食の世界だった。

 胡蝶が中年の手を引っ張り上げると、


「じゃあこの傷はどうして、いつ、付いたんだ? 説明してみやがれ」


 低い声に語調が平たんなため、声を荒げて言うよりもより迫力があった。中年はとうとうライオンに屈した。


「すみません。すみません。出来心だったんです……」


 その時、まるで計ったように警官が駆け寄ってきた。


「はいはい。道を空けて。どうしましたか?」


 時間のある野次馬は最後まで見届けようとまだ残り、パフォーマンスは終わりかと納得して帰って行く者と様々だった。

 警官に答えたのは胡蝶ではなく、なぜか泣いていた女子高生だった。


「この人に痴漢されたんです!」


 鳥坂は騒ぎの理由を知った。

 胡蝶が何かをされたか、反対に喧嘩を吹っ掛けたものと思っていた。

 よく見てみると、男のズボンのチャックは半開きになり、女子高生のスカートに白い乾ききっていない液体が付着している。


 中年男性は、つま先がかろうじて地面に着けたまま目を潤ませている。罪悪感から来るものではなく警官を見て、自分の立場が崩壊していく恐怖からだった。

 中年は警官に渡され、胡蝶は泣いていた女子高生の肩を抱きながら頭を撫でている。その光景を下から見ていたが、胡蝶はまだ気付かない。鳥坂はとうとう痺れを切らした。


「おーい」


 胡蝶の目が、命一杯に開かれる。


「あんた、何やってんの」

「いや、それはこっちのセリフ。おっさんが女子高生を抱きしめて、何やってんだ」

「事の顛末を見てただろ」


 鳥坂は鼻を鳴らした。


「ちょっといいですか?」


 警官がやってきた。詳しい事情を聞くためだ。

 若い警官と話しながら、胡蝶は鳥坂に犬を追い払うかのように手を振っている。鳥坂もこの場にいても仕方がないと思い家に帰った。




 あの時の胡蝶は喧嘩慣れしていて、腹が据わっていた。本気を出せば互角かそれ以上の手腕があるんではと感じた。

 それは鳥坂が歩いてきた、陽の当らない道を歩いている人間たちと同じ影を感じたからだ。

 渋々体を起こしベッドから降りると、その足で洗面所に向かった。簡単に身支度を整え、スーツを着る。


「なんだい。やればできるじゃないの。さ、行くよ」


 機嫌が直たったのか、胡蝶は鼻歌をしながら手に持っている巾着のような袋を、くるくると回していた。

 マンションを出てから園までの道、胡蝶は相変わらず上機嫌で、心なしかスキップしているようにも見える。

 長い髪を今日は下し、ブルーのワンピースを着た姿は、周りから見ればデートに浮かれる女性と言ったところだろう。いやマリアを連れて歩くのであれば、男である胡蝶にすればデートかもしれない。

 鳥坂は、何も話しかけず欠伸をしながら後ろ歩いていた。


 園に着くと門の前に、小さな銅像のようなものが見えてきた。以前に来た時にあっただろうかと、思い出そうとしながら距離を縮めていくと、マリアだった。

 胡蝶は彼女と分ると小走りで駆け寄った。鳥坂は歩調を変えず近づき、傍まで来たところで二人が門の中に入っていたので結局、距離は縮まらなかった。




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