翌朝 、台所から普段は聞こえない音で鳥坂は目が覚めた。
胡蝶がフライパンを持ち、その横でマリアが手元を覗きこんでいる。胡蝶は声を出さないマリアに向かって一人で話していた。
マリアはそれに首を縦横に振ったりして、一応の反応を見せていた。マリアの表情は子供らしいあどけないもので、目が輝いて見えるのは、女の子が料理に興味をもつ特有のものだろう。
「朝から賑やかだな」
「あら、もう起きてきたの。残念マリアちゃん。サプライズ失敗だわ」
マリアが縦に首を振ると、胡蝶も嬉しそうな笑みを浮かべている。
「何がサプライズだ。勝手に冷蔵庫を漁りやがって」
「あら、漁るほど何も入ってないじゃないの。卵もベーコンも賞味期限が切れているから、処分してあげたのよ。ねえ? マリアちゃん」
「賞味期限切れの食品を俺に食わす気か」
「大丈夫よ。卵は一週間、ベーコンは二週間過ぎていたけど密封だし火を通すんだから。ね、マリアちゃん」
マリアは張子の虎のように首を振っている。
「さあできたわよ。机に運んでちょうだいな」
マリアは鳥坂の横を通り過ぎ、リビングにあるガラステーブルに皿を置いた。ちょうど朝日が窓から差し込み、髪が透き通って金糸のように見える。
「さあ、あんたも席について」
胡蝶は両手に皿を持ったまま、忙しなく席についた。
鳥坂は自分の家が、オカマと子供に徐々に侵されていくような嫌な疑念が一瞬過った。しかし深く考えると本当にそうなってしまうような気がして、何も考えない様に務めた。
二人は、フローリングの上に敷かれたラグの上に座って鳥坂を待っている。鳥坂は髪を掻き毟りながら促されるまま席に着いた。
「じゃあ頂きましょうか」
マリアは声が出ないので合掌しながら軽く頭を下げ、胡蝶は「頂きます」と言って食事を始めた。
鳥坂がフォークを手に取ろうとすると、視界が大きく揺れた。
「何すんだよ胡蝶! もうちょっとで皿に顔を埋めるところだっただろうが!」
「頂きますは?」
「はあ?」
「頂きますは?」
男で、元々端正な顔立ちの胡蝶だが、朝のオカマの顔はなかなかの迫力がある。押されるように頂きますと言うしかなかった。
「朝から、化け物顔するなよ」
一言が多かった頭に、また同じ痛みが走った。上から無言で凄むように見てくる胡蝶に、これ以上の反抗するのもと考え、静かに食事を進めた。
部屋に皿とフォークが当たる音と、胡蝶の賑やかな声が響く。胡蝶はマリアを可愛い可愛いと何度も褒め、今度一緒に買い物へ行こうと誘っている。関係ない話だと、鳥坂は聞き流してていた。
「あんた聞いてんの?」
「俺、関係ないだろ」
「何言ってんの。鳥坂も一緒にお出かけするの」
「は?」
「ねえ? マリアちゃん」
彼女も首を縦に振り、この話は決定事項になっていた。どうすればこの難を逃れられるのかと考えた。
「こいつは施設に身を置いてんだろ? そう簡単に連れだせるわけねえだろ。オカマのお前とこの俺に、子供を任せると思うか? 諦めるんだな」
「オカマオカマって五月蝿いわね! こう見えても男でもいいからっていう客は沢山いるのよ」
確かに嘘ではないだろう。胸が無くても性別が女であれば、鳥坂も考えただろうと思ったからだ。
「あら? 今、私の事を厭らしい目で見たわね?」
「気色悪ことを言ってんじゃねえよ。どれだけ脳内花畑なんだ」
「マリアちゃんはどう思う?」
マリアは頭を縦に振った。
それにしても妙な感覚だった。自分の部屋にも関わらず違う世界に入り込んだような違和感。それはこの部屋が経験をした記憶がない、暖かい春の陽気のような空気だった。
鳥坂の記憶は霞み朧げな記憶しかなくて、それはとうに色褪せほとんど形はない。でも今のような空気だったような気がした。