中にはでっぷりとした中年と、やや若い警察官が小さい箱の中で机を並べて、何か事務処理をしていたみたいだったが、びしょ濡れの男が子供を担いで入ってきたその様に驚いたのか、二人同時に立ち上がった。
二人の顔つきは、鳥坂を犯罪者の類だていると感じた。
「迷子の子供、連れてきたんですが」
「迷子?」
「急に車の前にと飛び出してくるわ、親はいないわ、何も言わないわで連れて来ました」
「それは……ご苦労さまです。うん? 君はもしかして聖アレルヤのマリアちゃんじゃないか」
太った警官の言葉だった。
何度か面識があるのだろうか。ならもう自分がここにいる理由はない。早々に立ち去ろうとした時、腰が何かに引っ掛かっているような感触で戻されてしまう。
見るとマリアが鳥坂の服をしっかり掴んでいた。
「離せ」
「どうかしましたか?」
警官が鳥坂の視線の先を見た、
「マリアちゃん。おじさんの服を離してあげないと」
マリアが座る前に屈みこんで、下から見上げる格好で年配の警官が話しける仕草は、自分の子供に話しかけるように言葉が柔らかで、家でもいい父親なのだろうと鳥坂は感じた。
しかしまだおっさんと言われる年では無いと、心の中で小さな反抗をした。
それにしても、うんともすんとも言わないこのマリアが少し気持ち悪かった。鳥坂の気持ちなんて知らずに、マリアは頑なに鳥坂の服を離そうとしない。
それでも警官は辛抱強く説得を始める。
外は土砂降りで彼らも暇なのだろう。マリアの説得はいい時間潰しのようにも見えた。警察官このマリアについて警官が鳥坂に話し始めた。
マリアが不幸な出来事があり口も心も閉ざしていると言う事。そのためにボードで意思の疎通を図る事。
鳥坂はこのボードは今、子供の間で流行っている遊びの一環だんなだろうと漠然と思ってはいた。ボードが会話をするための物だとは全く考えなかった。
ショックで、本当に失語症になる人間がいることにも驚きを隠せない。
「マリアちゃんと知り合いかな?」
なぜそんな質問が自分にされているのか一瞬、意図が分からず呆けてしまった。警官は鳥坂の反応を見て続けた。
「いやね、彼女が人に固執というか、懐く事がないって聞いていたからね」
「いや、俺は知らないです。あ、でも以前、公園で突然目の前にいて驚かされた時はあったな」
マリアとの出会いなんて、鳥坂にはどうでもよかった。ただこの場から早く立ち去りたいという思いだけだ。
「すまないがその手、離してくれないか? 家に帰りたいんだわ。雨で濡れた体が冷えて、熱いシャワーが浴びたい。マリアも風邪をひくと迷惑をかける事になるだろ? なんで俺にしがみ付いてるのか知らんが、今日の所は解放してくれ。また会ったら相手してやるから」
じっと見られているのは分かるが、髪で隠れて目が見えないので表情も分からず、鳥坂も困った。
しかしマリアはゆっくり首を縦に振り、掴んでいた手を離してくれた。
長い間掴まれていたシャツは、かなり皺が寄っていた。その隙をみて鳥坂は逃げるように交番を出ようとした。
「すみませんが念のため、名前だけお願いします」
一瞬迷ったが、名前だけならと答えた。
「鳥坂です」
家に着くなり鳥坂は、勢いよく服を脱ぎ、熱いシャワーを頭から一気に掛けた。
体はかなり冷えていて、数分はお湯と体の温度差で熱湯に感じらた。
頭から肩、背中へ流れるお湯は徐々に表皮から筋肉を暖め、冷えと固まった体を柔軟にしていく。
「ふう」
災難を吹き飛ばすみたい吐き出した息は、シャワーと共に排水溝へと流れて行く。
鳥坂は掌を見ながら、掴んだマリアの腕を思い出した。
手には余るほどの細さと柔らかさ。それは大人が守るべき対象と証明するには十分な存在だった。だが彼が幼少期の頃は、その対象ではなかった。少なくともあのマリアには十分にその権利があるように思えた。
鳥坂はシャワーの温度を上げた。今度は温まった体に針が射すみたいな心地よい痛みが走った。
あの少女マリアと自分は関係ない。重ねること自体間違っている。幾つもの傷を伝う人工の滝は、なかなか感傷的な気分までは洗い流してはくれなかった。