どれくらいの時間が経っただろう。意識が遠のいてから、夢を見たのかさえ覚えていない。うつ伏せに倒れてから、口の中にしょっぱい水が入ってくる。自分の汗だったんだろうか。いや、違う。そばにあった湖の水があふれ出ていた。ここは太陽の沈まない白夜。天国と地獄の境目。真っ白い空間の中で倒れていた。口元についた砂を腕で拭って起き上がった。猛烈に喉が渇いた。体が傷だらけだったが、鬼の侵食が和らいで片目の部分だけになっていた。ふらふらの状態で吸い寄せられるように足を引きずりながら歩く。キラキラと光る水面に心奪われて、手を伸ばすと、ぼんやりと何かが映った。
『迅! 迅! 見えるか?』
鏡のように自分の姿が映った水面に誰かが呼んでいる。そんなところに人なんているわけないなと思った迅は、黙々と喉の渇きを潤すためにジャブジャブと水を飲んだ。しょっぱいかと思ったが、案外飲みやすかった。
『あいつ……無視してるなぁ。こうなったら……』
話しかけたくて仕方ないらしく、作戦を練り直す。さらに迅の近くに移動して、水面をテレビ画面のようにして、話し出した。
『初見さん、いらっしゃい。鬼ちゃんチャンネルへようこそ』
迅は、鬼柳が両手でハートを作りながら、こちらに話しかけてくるのを見て、気持ち悪くなったようで、せっかく飲んだ水を全部吐いた。
「おえぇぇーーー」
『おいおい。吐くほど俺が好きなのか。もう、ハートを射抜いちゃうぞ! どっきゅんパワー』
「きっもー」
『マジで引くのやめろよ』
突然、正気に戻る鬼柳に、迅は、しらけた顔をする。本当は面白がった対応をしていただけだった。
「おっさん、暇だな。いつまで生きてんだ? 亡くなったんじゃないのかよ」
『やっと普通の会話だな。こうでもしないと話をしないだなんて、面倒なやつめ』
「…………そっくりそのまま返すぞ」
『それをまた返すわ!』
「返すなよ」
バシャバシャを水をかけあうが、迅だけがびしょ濡れだ。鬼柳はケタケタと笑い続ける。ふと、ため息をついて深刻な様子で話し始めた。
「正気に戻ったんだよな。元に戻れて本当によかったよ。俺は、水の姿に憑依?したみたいになっちまったがな。肉体はもうない。お前に殺されたんだ。でも、こうやって最期に話せてよかった。もうすぐ、俺も迎えが来る。下界に戻ったら、お前はまた酒呑童子に狙われるはずだ。絶対鬼に取り込まれるんじゃないぞ。白狐兎にまやかしの術をかけてもらうのを忘れるな! それと……」
だんだんと、水面から消えかかる鬼柳は、まだ喋っているが何を言ってるかわからない。迅は、水の中に手を入れる。
「おっさん!! あんたのおかげで俺は人間に戻れたんだ。絶対に忘れないからな!」
すっかり消えたかに思えたが、また鬼柳の顔が現れた。
『素直に言えよ。ありがとうって……』
そう言うと、鬼柳の姿はすっかり消えてしまった。鬼柳は、大事なことを言い忘れていた気がした。迅は、最期に説教されたみたいで不機嫌になる。
「最後の言葉がそれかよ!? ふざけるんじゃねぇ」
怒りに任せているうちに涙が出る。もう、鬼柳は迅の前に出てくることはないだろう。もしまた会うとしたら、自分の死を迎えたときだろう。
ふと空を見上げると、どこから現れたのか1枚のお札がひらりと落ちてきた。迅の祖父、土御門 嘉将が作った札だった。どうしてここにあるかはわからない。これがあることで迅は、下界に戻ることができる。深呼吸をして呼吸を整えた。
『
久しぶりに唱えた術に声が少し裏返ったが、どうにか丸く虹色に光る異次元空間を出すことができた。まだけだるさが残る体をストレッチしてから、ジャンプして入った。入ると同時に、体の傷が癒えていく。左義眼とともにほんの少しの鬼の力を持ちながら、少しずつ、陰陽師の力が戻りつつある。
迅がいなくなった湖で、冷たい風が強く吹きすさんでいた。