とあるオフィスフロアでは、電話が鳴り響いていた。
前髪を長くして眼鏡をかけ直し、ポニーテールにした女性が立ち上がった。
給湯室に行き、10時のお茶出しの準備に行った。なぜかこの会社では昔ながらのお茶出し当番というものがあり、それは女性がするという暗黙のルールがあった。今の時代、コーヒーもボタンを押せば自動で出て来る機械があるというのに、好みの飲み物を予め聞いておいて、マイカップにそれぞれ入れに行く。コーヒーの人の割合が多いが、苦いのがダメな人は紅茶、ココア、緑茶などそれぞれに配らないといけない。10時と15時のお茶出しだ。女子の人数が全部で5名。当番の名札を受け取った曜日はげんなりする。ご厚意で当番じゃない人が手伝うこともある。
「聞いた? 濱田課長とお局りっちゃんが不倫関係なんだってよ。知らなかったわ」
同期の
「マジで? それはちょっとありえないペアだわ。年差やばくない?」
「20歳は離れてるよ。課長元気だねぇ。60歳近いっしょ。りっちゃんは40歳だよね」
「うん、うん。本当。ありえないわ。ねぇ? 麻衣もそう思うでしょう」
不倫という言葉にびくっとする麻衣は1人黙々とお茶やコーヒーを社内人数分を準備していた。あとは電気ポットのお湯を注ぐだけだった。
「え、そうだよね。あ、あのさ、ちょっとお湯注いでもらってもいい? 私、トイレ行きたくなった」
「嘘、大丈夫? 任せといて。やっとくわ」
麻衣は郷子の肩を軽くたたいて、トイレに駆け出した。履いていたハイヒールの音が廊下に響く。社員証がぶらぶらと右左に揺れる。頬にばちんと当たる。
「いたたた……」
これからトイレに入ろうとしたところに男性トイレからハンカチで手を拭く1人の男性に会う。
「大丈夫か? 本当にお前はおっちょこちょいだよな」
上司の肩書は係長の
「私はいつもこんなんです!」
少しイライラしながら、立ち去ってトイレに行こうとする。腕を握られて足を止められた。
「週末、予定空けとくから」
「……うん」
嫌とかダメとか断ることもできるのに、条件反射で返事をする。トイレの洗面台に立ち止まる。麻衣は、鏡に映る自分を見つめる。どうして、素直な生き方ができないのか。世間からバレてはいけない。隠れて会わないといけない。目的は一体何かわからない。いつも優先するのは家族。子供。それが不満だった。沸々の不満が沸き起こる。突然、鏡に映る自分の背中が灰色の煙のようなモヤに包まれて、笑っていないのに鏡の自分は不敵な笑みを浮かべている。
「……え? 私じゃない」
鬼の形相のように恐ろしい麻衣が鏡の中に映る。鋭い爪を淵にかけて、犬歯が光る。鏡から出ようとしている。トイレの中、麻衣は後ずさりした。
「きゃぁ!?」
しりもちをついて少しずつ後ろに下がる。恐怖のあまりで腰が抜けて動けない。人間の姿をしていない。鬼のように角を生やしている。体は2倍くらいの大きさだ。鏡から出てきて麻衣に襲いかかる。細い鋭い爪が体に刺さり、服が破れ、血が噴き出した。
「いやぁぁあぁああーーーーー!」
首がストンと吹っ飛ばされて、滝のように血が噴き出した。切り刻んだ体をくちゃくちゃと食べた。トイレの中はとてつもない惨劇と化した。