きっと午後には乾いてしまうだろう。窓辺から見える小さな水溜まりを忙しなく通りを行き交う人々が容赦なく踏み、その度に水面が揺れていた。水面に映る太陽の光は白い光を均等に降り注いでいた。
雨上がりの空。数日前に降った雪の名残はもうどこにもなく、街全体が春の訪れを告げていた。
晴れ渡った空には似つかわしくない溜め息がカップに注がれたブラックコーヒーを揺らした。考え事ばかりしてしまって、もうすっかりスペシャルブレンドは冷めてしまっていた。コーヒーの表面に映る青色の瞳が責めるように自分を見返す。
「……はぁ」
元気がないのだ。自身もそうだが、パートナーがあれ以来すっかり気持ちが沈んでしまっていた。忙しない毎日に追われて表面上はいつもの通りに元気に見せているが、スポットの当たらない裏では今の自分と同じようにどんよりとした息を吐き出す姿を何度も見ていた。
「なに? また、ため息? トップアイドルが台無しだよ?」
個室のドアを開けて入ってきたのは、ニコニコ顔のマネージャーだった。
「葵さん! うそ、もうそんな時間!?」
慌ててピンクで縁取った腕時計に目をやるも、予定していた時間まであと30分以上はあった。面白がるように目を細めた葵は、断りもなく瑠那の向かいの椅子を引いて腰を掛ける。
すぐにウェイターがやってきて、ロイヤルミルクティを注文すると、葵は身を乗り出した。
「たまには瑠那と二人きりで話したいと思ってさ」
「葵さんの口からそんな台詞を出されると、怖い気持ちしか起きないですけどね」
なるべく意地の悪い返しをしたつもりだったが、ウインク一つで受け流されてしまう。
「久しぶりじゃない、こうやって話すの。美歌ちゃんが加わってから、いろいろと慌ただしかったし」
「いやいや、いつも忙しいですよ。これでもトップアイドル、なんですから」
普通なら嫌みに聞こえかねないこんな台詞でも、瑠那が意思の強そうな瞳を輝かせて落ち着いた声色で断言すると、妙に納得してしまう。強気で負けず嫌いの性格にしっくりとくるのもあるが、トップアイドルの名にふさわしい実績と努力の裏付けがあるのも事実だ。
「確かに。浦高時代から約8年間、ずっと休むことなく駆け抜けてきたしね。でも、ここ何週間か少し疲れているように見えるけど、瑠那自身のことじゃなかったとしたら、やっぱり美歌ちゃんのこと?」
鋭い。どんなときでも「仕事、仕事!」とぐいぐい背中を押してくるマネージャーだが、そのくせしっかりと体調や心の変化も気にかけてくれる。なかなか本音を言えない世界だが、今までも葵だけには愚痴や不安を漏らすことができていた。
「うん」と、力なく答えるとコーヒーを口に運んだ。しゃべるにも準備体操は必要だ。
「葵さんも気づいていると思うんだけど、美歌ちゃん、なんだか前よりも無理しているように見えて。心ここにあらずっていうか、もちろん笑顔で仕事はこなしてるけどさ、前よりも楽しんでいるっていうか、そういうふうには見えなくて」
その理由にはいくつか心当たりがあった。だけど、葵に話すことができるのはそのうち
「やっぱり尾を引いてると思う? この前の握手会のこと」
「うーん、それはないとは言えない、かな?」
結局、握手会のことをどう折り合いつけたのか聞けずじまいで数週間経ってしまった。すずは話をしたみたいだが、ダンジョンでのあの一件以来、連絡を取ることができていない。
「真っ直ぐな子だからね。そこがこう、王道アイドルっていう感じで人気があるんだろうけど、ファンの人も純粋に応援してくれる人ばかりじゃないからね。ああいう人もいるんだって割り切って活動するのが一番現実的だと思うんだけど」
「それはきっと無理だと思います。気にしてないとは言っていたけど、そのせいで握手会が中止になってしまったことや横入りされた車椅子の女の子に言葉を掛けられなかったって言ってましたから」
糸のプレイヤーに怒っていたのも、「一人一人の声を大事にしたい」って言っていたのもきっとあの体験があったからこそ。
「気づいているのかいないのか、向き合おうとしているのかしていないのかはわからないけれど、握手会の出来事は絶対影響していると思います」
「ん~そういうときってさ、どんな思いがあるにしろ、誰かにさ、飾らずに話せればいいんじゃないかって思うんだけど、瑠那にも話してくれないんでしょ?」
投げられたボールはいくらなんでも直球すぎた。
「いや、痛いところつかないでくださいよ! それで悩んでるんですから!」
「あはは! ごめん! いや、客観的にさ、あくまでも客観的にどうやったら美歌ちゃんが元気になれるかなっていう」
コーヒーを喉に流し込んだ。一気に飲んだからか冷たいくせに胸の辺りがもやもやと熱い。
「仕事の話はできるんですよ。だけど、なんか二人になった途端に今まで何話してたんだっけってくらい、話題が何も浮かんでこなくて。こう、見えない薄い壁があるみたいな」
「いや~まあまあ、一緒にやってたらそういうときもあるんじゃない?」
「それは、ありますよ! 今までも浦高でもあったし、モヤモヤっとした嫌な、もー美歌ちゃん大好きなのに!! 今まではすぐに謝って話し合ってスッキリしたのに、美歌ちゃんが相手だと、なんかいろいろ考えちゃうんです! 私が引っ張っていかなきゃいけないのに、とか美歌ちゃんに謝っても困っちゃうんじゃないかとか──」
「お待たせしました」
感情が高ぶりそうになったところでウェイターがやってきて、ロイヤルミルクティを葵の前に置いていく。当たり前のことだが何も知らない顔で接客する様子を見ていて、行き場のなくなった感情が大きな息とともに霧散していった。
「まっ、そしたらあとは見守ることしかできないんじゃない?」
ウェイターが去ったあとに葵はくるくるとスプーンでミルクティを回しながら、どこか他人事のようにそう言った。
「見守るって……でもっ!」
「瑠那がそんなに取り乱すのは珍しいけどさ、もしかしたらちょっと過保護すぎるのかもしれないよ? あるじゃん、誰でもアイドルやってたら。そういう時期っていうかさ。『アイドルとして』が問われる、試される時期っていうか」
葵が言わんとしていることはなんとなくわかる。進めるか進めないか。もっと言えば飛躍できるか羽をもがれてしまうか。それは一つの分岐点。飛躍しようともがいてもがいて、さらにもがいて何者かになっていく。ただし、もがけなくなった者は──。
「そっか」
「ん? どうしたの急に?」
「……ああ、いえ。確かに美歌ちゃんがそういう時期かもしれないなって」
そうじゃない。瑠那は、葵に合わせて口を回している間にも別のことを考えている自分に、呆れてしまっていた。美歌とどう接したらいいか本気で悩んでいたはずなのに、もう違うことを考えてしまっている。
(だけど、きっとこれは美歌ちゃんのためにもなる)