「──これで、懸念材料は──」
「まだだよ!」
月守はすぐさま刀を投げ捨てナイフを抜き取ると、眩しすぎる太陽に向けて投げた。無防備になった頭上をイエティの拳の影が覆う。
「どんなスキルかわからないが、糸は糸だ。切れるだろ。あとは、直人! 美歌ちゃんを頼んだよ!」
「当たり、前だ!!」
直人も刀を捨てて全速力で走り始めた。身動きが全く取れない上空で美歌の身体を支えているのは、視認できるかできないかの非常に細い赤い糸のみ。
その糸が断ち切れれば、物理法則に従いたちまち猛スピードで落下していくのみ。
「き、きゃああああ!!!!」
心の底から突き抜ける恐怖が喉をつき、広がる口から叫び声が響き渡る。上昇が止まり、僅かな静止時間のあと、下降が始まる。
「大丈夫だ!」
たとえ直人が怒鳴り声を上げたとしても、地上からは空にいる、それもパニック状態の美歌に声が届くとは思えなかった。
「大丈夫」
それでも声を上げるのは、自分自身に言い聞かせるため。届かないなんて言い訳はいらない。諦めるなんて認められない。なにがなんでも、間に合わせるんだ。
気がつけば腕を前に伸ばして飛び上がっていた。巻き上がった冷風が顔面を叩くなか、突然その脳裏に浮かび上がったのは、視界を覆う一面の海色。
かろうじて光の届く海面から懸命に伸ばされた繊細な白手は、拒む手を無理矢理に掴み、ブラックアウトするその最後まで離れることはなかった。
ドンっと、重石が両の腕にのし掛かる。裂けるような痛みが襲い、そのまま地面へと激突する。痛みに耐えながら薄目を開くと、砂埃が舞うなか確かに腕のなかには、微かに震える美歌の姿があった。
「ほら、大丈夫だろ?」
「大丈夫、 じゃない! 直人くんの腕が!!」
じーんと抉るような痛みと痺れた感覚が同時に襲ってきた。力の入らない腕を無理矢理にでも引き抜いた方がいいのだろうが、そうするとバランスを崩して美歌が転んでしまう。
「問題ない。それより──」
嘲笑うような拍手が送られた。首だけを後ろに動かすと、案の定、余裕の微笑みを浮かべた物部大地が、拳に取り付けた牙が触れないように器用に手を合わせている。
そのさらに後ろには命令を待っているとでも言うように雪男が唸り声を上げながら待機していた。
「ナイスキャッチ! でも、わからないな。自分の腕を犠牲にしてまで足手まといの齋藤美歌を助けるなんて。やせ我慢してるみたいだけど、相当痛いんじゃないかい? おかげで刀も振れないし、ギターも使えない。なんなら、その位置から動くことだってできないだろう。悪手だね。ゲームなんだから、効率的に動かなきゃ」
「……挑発するのが上手いやつだな」
一度頭を下げる。次の動作のために足先に力を込めた。
「悪手。確かにそうだ。他にもっといい方法はいくらでもあっただろう。自分だけが勝ち残るためならば」
脚を胸に引き寄せるようにして美歌を抱えたまま上体だけを起こした。もはや腕の感覚が無くなっている。
「だが、それでは何の意味もない」
「そういう台詞は勝たないと意味がないんだよ!」
腕に装着した牙を何度も噛み合わせると、物部は体勢を低くして真正面から突撃してきた。圧倒的な戦力差に余裕を抱いているのだろう。
美歌を地面へと下ろすと、直人はなんとかその前に立った。やれることはもう一つしかない。
「諦めるわけには、いかないだろう、美歌。歌ってくれ、最後の最後まで」
俺がまた逃げないために。
「歌ってって。そんな、でも敬遠──」
「絶対に負けるわけにはいかないんだ。現状でできることは、それしかない。なんでもいい、お前の魔法を奏でてくれ」
「わかった」とためらいがちな呟きが耳元を撫でていった。何度か呼吸を整えると、大きく息を吸う音が聴こえる。
『音楽魔法水属性中級スキル──クルツ発動します』
その歌は、不意に頬に当たった雨粒のように微かな一音から始まった。染み渡るように、浸透するように何度も同音を重ねて、雨の存在を大地に知らしめていく。
意外な選曲だと直人は思った。さきほどまでの怒りをむき出しにした雷や炎と違い、しめやかで悲しげですらある水の旋律。だが、それでよかった。それが、よかった。
落ち着いた音色が心を冷静にさせてくれる。無駄にヒートアップした曲よりは、この曲の方が自分には合っている。今さら熱くなんてなれやしない。
「強がってても何もできないんじゃないかい? 後悔させてあげるよ、首をはね飛ばされるその痛みで!」
神経がもう通っていない拳を構える。一秒でも長く美歌への攻撃を防ぐことができればそれでよかった。あとで怒られるかもしれないが、現状ではこれが負けないためのたった一つの方策だ。
雨足が強くなる。繊細さに力強さがプラスされた美歌の歌声に背を押され、直人はなりふり構わず前方へと駆け出していった。
「君はここで終わりだよ、車田直人」
突き出された拳と牙とが交差する。直人は愉悦に魅入られた獣のような瞳を睨み付けると、血の通わない拳に渾身の力を込めてその頬を殴り飛ばした。
急に訪れた静寂のなかを
「残念だったね。拳は届いたけど、そんな弱々しい力じゃ、どうしようもない」
牙は頚に噛み付き肉をえぐり出していた。痛みとともに血が噴き出し、あっという間に血雨が降った。
「痛いだろう? このまま噛み切ってあげるよ。耐え難い激痛の先に天国のように安らかな暗闇が訪れる。大丈夫。目が覚めれば全て元通りだ。僕に殺され負けたっていう事実以外はね」
肉が血管が嫌な音を立てて引きちぎられていく。もはや抗う力も残っておらず、耳障りなその音だけが脳髄に流れ込んでいく。そう、
(……
これで負けがなくなったことを確信した直人の頬が珍しく緩んだ。
「何がおかしいの? 痛みのあまりおかしくなっちゃった? 君みたいな反応は初めて──」
音がなくなったことに気づいたのだろう。微笑みが驚きへと豹変する。食い込んでいた牙が急に緩んだ。
「まさか。ダンジョンの時間が? そんな、僕らはまだ──そうか、齋藤美歌は、あの子は早い、僕らより後にダンジョンに、そんな、そんな!!」
(……だから、言っただろう。負けるわけにはいかないと)
ダンジョンにいられる時間は限られている。滞在時間は冒険の度に延びていくため、ダンジョンにいつ呼ばれたかによって差異が生まれる。
美歌がダンジョンに足を踏み入れたのは直人が来たときよりも少しあと。だから、直人よりも早くに限界時間が訪れたのだ。
「なんで! くそっ、やられた!! 君は、最初からそれを狙っていたっていうのか!?」
声はもう出ない。かわりに勝ち誇ったように口角を横に広げた。
「やせ我慢するなよ! もう、立っていることだって限界だろ? いいか、あの子を逃がしたのは失敗だったけど、君はここで僕に殺されるんだ! そうだろ、負けるんだ! 君は僕に勝てないんだ!」
(そうじゃない。俺は負けたかもしれないが、俺達は──)
急に重力から解き放たれたように体が軽くなった。その感覚が何を示すか理解するよりも先に、直人の意識は勝利の余韻に浸りながら消えていった。