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第54話 2人のライン

 宙に浮かぶこと自体はおかしいことではないのかもしれない。「イェティは空を飛べない」という固定観念があっただけで、飛べてもおかしくないのかもしれない。問題はそこではなく、宙に浮かぶその姿が、無理矢理に吊るされているように見えることだ。


「魔法が効かなかったの?」


 そうじゃないことはすでに答えが出ていた。見たところ意識がまるでなさそうなのだ。元々表情のわかりにくい青黒い顔が、魔法の連発によって確かに抉れている。


 意識がないどころか生命すら──と思うような状況にも関わらず、それ・・の太い足は地面から離れていた。


「違います。今、瑠那さんの魔法が当たったときにチラッと見えたんです。何か……糸みたいなものが」


「糸だって!?」


 剣に力を込めながら、有門は目を凝らして力なく宙ずりにされたイェティの身体を、爪先から頭のてっぺんまで睨み付けるようにして眺める。だが。


「何も見えねーぞ!」


 どこをどう見ても糸らしきものは見えなかった。有門の目には雪山の化け物がゾンビのように起き上がり、浮遊しているようにしか見えない。腕も顔も重力に負けたようにだだ下がるだけで、何もしようとしないところが、不気味さを増長させていた。


「確かに見えたんです。キラリと、太陽の光に照らされて赤い、綺麗な赤い糸が」


「赤い、糸……」


 瑠那の杖がくるくると回る。糸が、本当にあったとしたならこのイェティの状態も簡単に説明がつく。まるで上空から透明な何かが首や背を引っ張り上げて吊るされているように見えるからだ。


「だけど、そんなスキルは聞いたことがないぞ。剣に槍、斧、刀、小刀──1番近そうなもので弓もあるが、対象を引っ張るような技は聞いたことがない。魔法だってそうだろ?」


「そう、ね。補助魔法でスピードや力なんかを一時的に上げる魔法はあるけど、魔法は放つものだから──って!!」


 強い力で肩を押されて言葉が途切れてしまった。バランスが崩れてまた階段の上に倒れてしまう。痛みが押し寄せる前のわずかな時間が、瑠那の中では何が起きたかハッキリと認識できるほどスローモーションで流れた。


 有門が肩を押した。咄嗟のことに対処しきれずに身体を崩した。それは、その原因は、制止していたはずのイェティの腕が動き出したから。


「有門!」


「くそっ!」


 有門の背中に冷や汗が垂れていた。


 モーションがなかった。普通、拳を振り抜くためには、腕の筋肉を動かし、後ろへと引いて前方へと突き出す一連の動作が必要。どんなにスピードがあっても、その過程をすっ飛ばすことはできない。


 ところが、イェティの腕はノーモーションでいきなり拳が飛び出したのだ。まるで何かに操られているかのように。


「いったい、何が? いや、考察はあと! 美歌ちゃん!」


「は、はい!」


「美歌ちゃんの魔法音楽を使えば、丸ごと消滅できるかもしれない! 演奏の準備を!!」


「わかりました!」


 伸びた足先を引き戻すその勢いで立ち上がると、瑠那は右手につかんだ杖を握り直して走り出した。


「美歌ちゃんの魔法が発動するまで、私がなんとかする!」 


 瑠那は有門の横へと滑り込むように並んだ。必死の形相で雪の怪物の攻撃を剣の先端で捌きながら、有門が驚いた顔を瑠那へと向けた。


「何やってんだ! 前に出るな!!」


 その忠告は至極まっとうだった。魔法スキルに特化した瑠那の場合、直接的な攻撃に対する術がほとんどない。


 基本は直接攻撃を得意とする前衛が敵の攻撃を塞ぎ、後衛がアシストや中、遠距離からの攻撃を試みるのが常道。そんなことは、有門に言われずとも、瑠那は十分すぎるほどに理解していた。


「それは、通常時においてでしょ! 今は、美歌ちゃんに攻撃が向かわないようにするのが最優先! さっきみたいにあんたが吹っ飛ばされたら、美歌ちゃんの演奏だって中断しちゃう! 今は、二人でやるしかないじゃない!」


「だけど──どうすんだよ!?」


 迫り来る拳の連打からなんとか逃れると、有門は叫ぶように言った。


 ただでさえ重い拳なのに、身体に染み付いたタイミングよりも速く繰り出されることで自分の身を守るだけでも精一杯になってしまう。


「あんたは何も考えずに攻撃を受け流し続けて。あとは私がなんとかする。とにかく私たちの、このラインを死守することに集中して。行くよ!!」


 根元が切り落とされた大木のように猛スピードで巨腕が振り下ろされた。


 直撃は免れたものの、風圧が頬を殴り、振動が足を止める。


 瓦礫が土埃にまみれて降り積もる中で、瑠那は地べたに手をついたまま、握って離さなかった杖を隣にいる有門に向ける。


「フォトジャ!」「ラピダ!」


 武器威力上昇と速度上昇の魔法を掛ける。次いで瑠那は、杖先をくるりと回転させると、有門に施したのとは真逆の──つまり、能力を下げる魔法をイエティに向かって詠唱する。


 一時的とはいえ、敵の腕力、スピードがともに減少し、有門の能力が上がることによって美歌の魔法が発現するまでの時間稼ぎを狙う。


「これなら!!」


 またもやノーモーションで向かってきた拳を今度は有門の剣が真正面から受け止めて弾き返した。有門は、躊躇することなく技を繋ぎ、辺りを舞う粉雪よりも白いロングソードを振りかぶって飛び上がる。


「ここ!」


 瑠那の碧色の瞳が見開かれ、杖に力が込められる。


 誰かと動きを、息を合わせるのは得意だった。ダンスと歌を通して──いや、もしかしたらそれ以前からかもしれないが──アイドルとしての活動を通して、嫌でも身につけなければいけないスキルだ。


 ギターが強く掻き鳴らされる。その音の調べを合図に、瑠那は大きく口を開いた。


「アクヴォアクティアラ」「ヴェントキリング」「サブロー」「トンドロタンブロ!!!!」


 そして。


「ファジュログローブ!!!!!」


 唯一会得していた上級火属性魔法を発生させる。青が緑が黄が白が、同時にイェティの大きな身体へと押し寄せ、一直線の赤に貫かれる。


 その刹那。上空高くへと跳び上がった有門の白金の一撃が、いかずちのように脳天へと叩き落とされた。


 やった、と息を切らしながら瑠那は思った。


 少なくともダメージは与えているはずだと。5属性すべての魔法を叩き込んだ上に、頭上への重い一撃。どんなにタフでも、何かに操られていたとしても、数秒はダウンしてもおかしくないと思っていた。そして、数秒もあれば、十分だと。そう思ってしまった。


 美歌の旋律が鳴り響く。激しいアクションのせいで舞い上がった土埃と細かな雪の中に、有門が舞い降りてくる──はずだった。


「!!」


 確かに真横に着地したはずの有門の身体が急に視界から消えていなくなる。激しい衝撃音が聞こえたのはその後だ。瑠那の脳が音の正体を分析するよりも遥かに速く、同じ現象が瑠那の身に起きる。拳による衝撃が身体を貫き、気がつけばふわりと宙を舞っていた。 


「──ロブ……!!」 


 消えかかる意識の中で咄嗟に瑠那は魔法を唱えた。


 攻撃と同時に自身を回復する特殊な魔法。敵の追撃を退けつつ、安全に回復することができる。「マルチソーサリー」の二つ名を有するプレイヤーだけが覚えることのできるこの魔法のおかげで、なんとか意識を失うことだけは避けることができたが、状況は悪くなる一方だった。


 咳き込むように吐き出した息が白く染まる。


 土埃に隠れて繰り出された強烈な一撃は、ダメージを全く受けていないことを示していた。


 もしかしたら、消滅させない限りいくらダメージを蓄積したとしても無意味なのかもしれない。誰かに使用される道具は、壊れるまで繰り返し使うことができるのだから。


(まいったわね……)


 加えて不意打ちをもろに受けた有門が起き上がってこない。強力なロブの魔法も強力がゆえに一回の冒険で使える回数は一度きりと決まっていた。一つだけ、手がないことはないが、それも魔法を出現させるまでは時間を要する──万事休すとはまさにこのことだ。


(もう打つ手が、ない。諦めて帰還を選択するしか──)


 瑠那はうつむいて長い睫毛の目を閉ざした。


 視界が塞がれたことで周りの音が大きく聴こえる。ゆっくりと風を切って近付いてくる音、心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。そこに、アレグロのメロディが流れた。


 自然と瑠那の宝石のような目が開かれる。諦めかけたその心に、美歌の声が真っ直ぐに届いた。


(美歌ちゃん──)


 演奏はまだ続いていた。同じ『アレグロ・アッサイ』だが、今度は自分の声も乗せて。ひたむきにただただ真っ直ぐに美歌は自分の音を奏で続けていた。


 瑠那は、噛み締めた歯の間から息を吐き出した。最後まで諦めるわけにはいかない。


(アイドルとして、先輩として、美歌ちゃんに弱々しい背中は見せられない!) 


 今一度杖をイエティに向けると、なりふり構わず魔法を放出する。少しでも、ほんの僅かな時間でも足止めすることができるならそれで構わない。


(あと少し、もう少し!)


 激しく掻き鳴らされるギターの音と美歌のソプラノの歌声とが混ざり合い、その音楽が浮き上がってくる。


 ふつふつと沸き上がるマグマのそれのように。怒り、ではない。情熱的な前向きな弾けるような音の運びは、周囲の空気を徐々に赤く染め上げ、瑠那の心をも鼓舞し、とっくに悲鳴を上げた腕を何度も何度も振り上げさせた。


(行け──行け。行け!)


 強大な腕が振り下ろされたそのとき。美歌の音が止まった。


(今だ!!)


 瑠那は身を翻して真横へと大きくジャンプする。長い長い4分休符が終わりを告げて、沸点に達した火山が爆発した。


 噴き出したマグマが怪物の足元へと流れ出し、わにのように大きく口を開いて呑み込んでいく。一瞬。まさに一瞬の出来事だった。もがくことすらできずに荒々しい音の渦にからめとられながら、操り人形と化した巨大なイェティは、その姿を焼き尽くされていく。一際大きな焔が舞うと、もうそこには何もいなかった。


 うつ伏せに倒れていた瑠那が顔を上げた。その顔は、罰ゲームを受けたみたいに雪や土でまみれていた。


(終わった? 終わったの?)


 演奏が終わり、焔が掻き消える。美歌と目を合わせると、胸から歓喜の声が溢れ出てきた。


「やった。やった、やった、やった、やっ──」


 子どものように飛び跳ねて喜んでいた瑠那の胸に何かが突き刺さった。


「残念ですが……まだ終わってない」


 倒れ込む瞬間に大きく青色の目が見開かれた。


(そんな、そんなはず……ない!)


 瑠那の目に映っていたのは、このダンジョン世界にいるはずのない2人のプレイヤーだった。


「美歌ちゃ──」


(──逃げて)

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