──ドアの隙間から音が漏れ出た。
両手で押し開くタイプの重い半透明なドアの先では、十数人ほどの子どもたちがそれぞれ個性的なレッスン着に身を包んで、音に合わせて腕を脚を自在に振るい、ダンスを踊っていた。
蛍光灯に照らされた大型ミラーが写し出す滴る汗が、張り付く笑顔がキラキラと眩しい。
『美歌ちゃん、やっぱり──』
『いいんです、もう』
遮るように言葉を挟んだ。なるべく、明るく聞こえるように。ゆっくりと半円をつくってくるりと回ると、強張っているその顔を見上げる。飛びきりの笑顔を作って。
『先生が気にするようなことじゃないです。もう、しょうがないじゃないですか』
気丈に構えたはずの声が微妙に触れていた。隠したはずの内なる声を代弁するように──。
(……これは、昔の。遠い子どものときの記憶だ──)
*
薄いまぶたが開いた先には、天井があった。
最初に思ったことは、いつもよりも近いということ。次にはなぜか橙色に塗りたくられているということだった。そして、美歌は違和感に突き動かされるように上体を上げた。
「美歌! 美歌ちゃん!!」
記憶を辿るよりも先に飛び込んできたのは、柔らかい感触とふわりと漂うローズの香り。
最近はいつも側にあったそれらから、顔を確認せずとも胸の中へ抱きついてきたのが瑠那だとすぐにわかった。
「瑠那さん……」
抵抗することなく腕をだらんと下げたまま、美歌は辺りをうかがった。明らかに自分の部屋ではなさそう。かといって他に見慣れた場所は知らない。
「ここは……?」
問いかけを口にする。と同時に鳴り終わったオルゴールのネジをもう一度回すように、記憶を甦らせていく。
確か、瑠那さんと一緒にランチを食べて、トーク会の──。
そこまで頭を巡らせたところで、ズキッと後頭部が痛んだ。
(そうだ、私──)
「気を失って……いたんですか?」
「そうだよ!」
瑠那のブルーの瞳が訴えるように見つめてくる。よくよく見れば、水に浸した宝石のように濡れているのが確認できる。
「ほぼ半日! 会場から救急車で運ばれて、本当に心配」
救急車、ということはここは病院? でも、空気感が何か違う。病院特有のどこか厳かな音が周囲の壁のどこからも響いてはこなかった。それどころか、むしろどこかから陽気なざわめきも聞こえてくる。
(ここは──?)
「ここは、ダンジョンだ」
答えたのは別の声だった。ギシッギシッと一定間隔で揺れる音とともに現れたその声は、低く安心感が与えられるような野太い声だった。
「有門……さん?」
「ひと月ぶりだな、美歌」
はにかむような笑顔を向けると、有門は短く切り揃えた黒髪を人差し指でポリポリとかきながら、最後の階段を上がった。
「瑠那、お前もう離してやれ。状況を説明しないと」
美歌の胸元から、色白の小さな顔が離れていく。
「そんなことより、美歌ちゃんの話を聞きたい。あんただって知ってるでしょ? 何が起きたのか」
「ああ。ネットでトップニュースになってたからね。SNSだって炎上中だ。まあ、今、このダンジョンでは時は止まっているけど」
美歌の顔が瑠那と浅黒い顔の有門を交互に行ったりきたりする。
「えっと……」
(いったい、なにが?)
「トーク会は中止になったんだ。美歌が病院に運ばれたってことで、今、ファンが怒り狂ってる」
「……えっ……トーク会が、中止?」
「アイドルが倒れたんだ。中止にするしかねぇだろ」
「ででで、でも、ファンのみんなが怒ってるって!」
「大丈夫。怒ってるのはイベントが中止になったことじゃなくて、美歌ちゃんが倒れてしまったことに、だよ」
瑠那は、そっと手のひらで美歌の頭を撫でた。肉付きのいいその手の心地よさのせいか、いくらか動揺した心が静まっていく。
改めて状況を整理してみると、まだ薄ぼんやりとした頭のなかで気を失う直前にぶつけられた言葉が甦ってくる。
「すみません。私……ちょっとショックできっと……」
「そうじゃない! 美歌ちゃんは全然悪くない! 悪いのはあの男だよ! 葵さんから聞いたけど、順番無視したから注意したら逆ギレしたんでしょ? 美歌ちゃんも突き飛ばしてひどい言葉を……」
「……いえ。だけど私が倒れたりしなければ。瑠那さんが言うように適当にあしらって気にしないでいられれば、ちょっとトラブルはあっても中止にまでならなくてすんだはずです。トーク会ですから、こういうことあるってわかってたのに──」
「違うよ美歌ちゃん! ……ねっ?」
何度頭を撫でられても、肩を揺すられてもうつむいたままの美歌の表情は晴れなかった。
「寝不足。極度の緊張。過度のストレス、それらが重なりあって倒れたんだろ? SNS見てたら過呼吸もあったらしいじゃねえか。単純に働きすぎたんだよ。アイドルとはいえ、瑠那、お前働かせ過ぎたんじゃねえのか?」
「なっ! あんた、私のせいだっていうの!」
「お前のせいっていうか、運営側の責任っていうか。元々トップアイドルのお前と、急にアイドルになった美歌とは違うんだ。ずっとトップギアでお前のペースに合わせてたら、疲れきってしまうんじゃないかっていうことだよ」
「それは、それだけ人気もあるし、注目されてるってこと! 今回のことは、あの男が──」
「おいおい! うるせーぞ!!」
突然下から大声が侵入し、二人は口を閉ざしたままお互いにそっぽを向いた。
「特別に部屋を貸してやってんだ! コウモリみたいにギャーギャー騒がれたら、客が上手い酒も飲めねーだろ!! それに齋藤美歌──歌姫だってゆっくり休めないんじゃないのか?」
落ち着いた声の通るバスに、二人は気まずそうな顔を浮かべるとそれぞれベッドの端へ、側の椅子へと腰掛ける。
美歌は、心の中で感謝を述べると状況を確認するために改めて周りを見渡した。
赤茶色の
(確か、あれは)
ダンジョンに初めて訪れた日。右も左も何もわからない状態の美歌を受け入れて、プレイヤーの登録をしくれた酒場のマスター。名前は──。
(なんだっけ? とにかくぬいぐるみみたいにもふもふなんだけど、ちょっと、どこか、かなり強面の。あっ、そうだ!)
脳裡に自己紹介されたときの光景が甦る。
『ん? どうしたい? 俺の顔が怖いかい? 大丈夫、俺はウルフガイ! 悪いウェアウルフじゃねえぜ!』
しゃべるオオカミみたいな外見のモンスターが、読めないラベルが貼られたたくさんの酒瓶をバックに話し掛けてきた姿が思い浮かんだ。
(ということは──)
「有門さん、ここってもしかしてダンジョンなんですか?」
聞くまでもなかった。顔を上げた有門の姿をよくよく見てみれば、ブラウンのフード付きコートは寒い冬で当然としても、背中に鞘に入れたロングソードを斜めがけしている。
「ああ。ダンジョンだよ。『転送』される前にトーク会の情報を知っていたから来れるのかどうか心配してたんだが、ダンジョンの入口で瑠那と一緒に倒れたままの美歌が現れて、ここまで運んだんだ」
「美歌ちゃんが目覚めるまで絶対ずっと側にいようと思って。ダンジョンも一緒に転送されたみたい。大丈夫。有門には指一本触れさせてないよ!」
確かに有門と違い瑠那は、上品なブラックのオフショルニットにゆるめなピンクのワイドパンツと、トーク会のままの格好をしている。いつもの『武器』であるピンク色の杖もどこにもない。
(そしたら私は、気を失ったままダンジョンに……)
これまでは自分の意思でダンジョンの日を迎えていたが、今回はそうではなかった。自分の意思に関係なく転送されてしまうことに疑問を抱きつつも美歌は、自分がダンジョンにやって来たことを知って急に気持ちが晴れてくるのを感じていた。まるで空気を吹き込まれた風船のように。
ダンジョンでは、アイドルや車椅子なんて関係なく、自由でいられるのだから。
「瑠那さん!」
「う、うん?」
瑠那は、急に見せた笑顔に戸惑うように首を傾げた。
「行きましょう! 冒険!!」