二人が愛用しているカフェ「アッコルディーレン」を出たのは、ちょうど午後2時のことだった。
2月。早生まれの美歌が誕生日を迎えて、16歳になったばかりの空は快晴だった。だが、風は強く、通り抜ける風に美歌は咄嗟に片手で艶やかな黒髪をおさえた。その髪の毛をそっと触るのは瑠那の柔らかな手だ。
「少し、髪伸びた? 美歌ちゃん」
同じ質問でも瑠那とファンの人とではどうしてこんなにも受ける気持ちが違うのか、と頭を悩ませながら美歌は顔を上げた。
どうしても低くなってしまう自分の背に合わせて屈み込んでくれるのは嬉しかったが、反面気を遣わせてしまっているかもと不安も生まれる。
瑠那に見つけてもらって、「ウィスパーボイス」を結成して、隣で過ごすようになってまだ約半年。慣れるまではもう少し時間がかかるだろうか。
「はい、髪伸ばしてるんです。切るタイミングが見つからないからっていうのもあるんですけど、髪型に悩んでいて。瑠那さんはショートの髪型が似合うって言ってくれましたけど……」
笑顔を向けると瑠那もまた笑顔を返してくれた。何気ないやり取りが緊張することなく交わされるのは、不思議な気持ちになる。
半年前まではテレビやパソコンやスマホの画面越しにしか見ることのできなかった遠い存在と、こうして話しているのだから当然といえば当然だった。
「そう! ショート好き! だけど髪伸ばした美歌ちゃんも見てみたいな~っていう……うーん、決められない!」
快活な笑い声が真冬の空の中へとこだましていく。
二人の笑い声を止めたのは、クラクションを鳴らしたピンク色の軽自動車だった。
車は二人の横に止まると、運転席からピンクのコートに身を包んだ空閑葵が現れ出た。アッシュ系のメッシュを取り入れたポニーテールが穏やかな陽光に照らされる。キリッとした口元を緩めると、葵は二人と簡単な挨拶を交わした。
「お疲れ様~」
「お疲れ様です! 葵さん!」
「久しぶりの二人きりのランチ楽しかった~? たくさん食べたあとは、お仕事、お仕事ってね♪」
言いながら葵は、車の後ろへと回りトランクを開け、簡易スロープを引き出す。車椅子でそのまま乗り込めるようにつくられた車椅子仕様車両。瑠那は慣れた手つきで美歌の背を押すと、一緒に車内へと入っていく。
「さあ、行くよー! 今日は長いからね!」
葵のかけ声とともにエンジンが始動し、カーステレオからウィスパーボイスの二人の曲が弾けた。それも爆音で。
慌てて両耳を掌で押さえると、指の間から流れ込む曲とそれに合わせてハミングする葵のかなり音程のずれた歌声に耳を傾けながら窓の外へと目を向ける。
昨夜うっすらと積もった雪はすでに消えていて。代わりに春の陽気を思わせる太陽が、水に濡れたコンクリートを照らし、眩しく輝いていた。
(半年……まだ、半年)
瑠那と出会ってアイドルとしてデビューし、トーク会、ライブを経て、新年からは有料のメッセージアプリも始まった。毎回毎回頭を悩ませて送るメッセージにファンから返信がかえってくるのは嬉しいが……。
(これから、どうなっていくんだろう)
髪型が決まらないように美歌の心の向かい先も定まっていなかった。ランチのときの瑠那の言葉も頭をもたげる。
(いやいやダメダメ!)
気持ちを集中させようと隣の瑠那に気づかれぬようにそっと息をつくと、耳から手を離す。
狭い車内に充満する自分たちの音が、自然とアイドルの心構えをつくっていく。
脳裏にふと、あの「ダンジョン」の景色が浮かんだ。
*
「ありがとう!」「かわいいね!」「元気?」──握手を交わすほんの短い時間に声が掛けられていく。その一つ一つの声をしっかりと受け止めようと、美歌はのぞき込むように、あるいは見上げるようにして一人一人の瞳を見つめて返事をした。
同じ握手でも人によって反応は様々。しっかり目を見て手を差し伸べてくれる人もいれば、うつむきかげんに恐る恐る手を出す人、片手の人、両手の人、暖かい手、冷たい手、柔らかい手、ゴツゴツした手、強く握る、弱く握る──個性がそこに表れていた。その個性に触れるのが、個性を垣間見れるのが、美歌にとっては握手会の楽しみの大きな一つになっていた。──のだが。
そのファンが乱入してきたのは、自分と同じく足が不自由な女性が握手を求めてきたときだった。青いキャップを被ったその男は、女性を突き飛ばすように押し退けて前へと進み、美歌の前に手を出した。困惑して目があちこちを泳ぐ。
「えっ、えっと……」
「久しぶり、美歌ちゃん! メッセージ見てくれた?」
ざわざわとしていたレーンが急にミュートをかけたように静まり返る。
女性を押し退けたことなどまるで意に介していない、というよりも女性の存在が映っていなかったかのように振る舞う男に、そして床に倒れこんだ女性に困惑の目を向けたまま美歌は動けないでいた。
「順番を守ってください。一度下がって」
事態を見ていた係員がさっと美歌と男の前に立ち塞がり、男を後ろへ下げようとする。
別の係員は女性に肩を貸して車椅子に座らせようとしていた。ファンの女性の唖然とした表情が美歌の目に飛び込んでくる。
空気を裂くような怒鳴り声が、美歌の視線を無理やりに移動させた。
「痛いだろ!! 離せ、こらぁ!! おれは今、美歌ちゃんと話してんだよ! 離せ、おら! 離せ!!」
衝撃音がした。ハッと気がついたときには、大きな背中が目の前にあった。次の瞬間。顔面に痛みが走る。
目を開いたときには天井が上にあった。男が暴れて係員を乱暴に突き飛ばしたのだ。
それからいろんな音が聞こえた。罵声と怒声、慌ただしく走り回る足音、そして誰かの泣き声――。
侵襲してくる音の嵐に曝されながら、美歌は右腕で目を覆い、ぐっと唇を噛みしめていることしかできなかった。
「美歌! 大丈夫!?」
葵の声が駆けつけてくれた。慣れた声にようやく腕を降ろした美歌の耳に、つんざくような声が叩き付けられる。
「うるさいよお前ら! どうせ美歌もおれのこと覚えてないんだろ!! 毎日メッセージ送ってるのに! もう、死ねよ!」
涙で濡れた瞳が大きく見開かれる。滲んだ天井を見上げて胸の動悸が激しくなる。
(違う、私は――)
「お前が死ね!」「もう出てけよ!」
ざわめきが一段と大きくなる。何かが殴られた音まで発せられた。
(もうやめて。こんなの、違う。違うよ――)
「お前ら全員死ね! 自分で起き上がれないやつが、アイドル気取ってんじゃねえよ!!」
(違う、違う、違う。私は、私は――)
息がうまくできなかった。息を吸おうとするも酸素が十分に入ってこない。ぐちゃぐちゃな意識とあいまって美歌の意識は急激に薄れてゆく。
「美歌ちゃん!! ちょっ! 早くそいつを外に出して! えっと、救急車! 救急車!!」