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第44話 アイドルだから

「──つまり、あんたは美歌自身に何か恨みを持っているわけではないっていうのか?」


 狭い部屋だった。さすがにぎゅうぎゅう詰めとまではいかないにしても、互いの息遣いは感じられるほどの物置のような部屋で、有門は静かにうなずく車田の顔を見て、次いで真剣な表情で聞き入っていた美歌の顔へと目を移した。


 まだあどけなさの残るその顔は、じっと見られていることにも気づかずに車田を凝視していた。


 あの戦闘のあと、酒場の二階のベッドで目を覚ました美歌は、現実のこの世界で車田から話を聞くことを求めた。


 ダンジョンの中とはいえ、命がけで自分を守ろうとしたことに衝撃を受けたのか、今回ばかりは車田も了承せざるをえず、この日この時間、この場所に決定したのだ。


 日時が年末、それも31日にまでに延びたのは、美歌と車田のスケジュールの問題だけではなく、その話の場に有門も入ることを希望したからだった。


 「話をする」――と約束したとはいえ、何が起こるか危険性がないわけではない。共に話を聞くことは譲れない条件だった。


 ただ、そうは言ってもただでさえ忙しい年末、しかも注目の新人アイドルが一般人の男性二人と密室で会うことは、瑠那を含め美歌の所属する事務所が簡単にOKを出すわけにはいかない。


 有門は、ドアの先で待機しているマネージャーに聞かれないように独り言ほどの小さな声で続く言葉を口にした。


「そんな話信じられるかよ。あんたの過去は今、聞いて大変だなとは思うが、美歌はあくまでも被害者だ。そうだろ? トラックを運転していたのがあんたの親父で、事故のせいで仕事がなくなって、ギャンブルにはまって……言い方は悪いがよく聞く話だ。それで、美歌を攻撃しようというのは、やっぱりただの逆恨みなんじゃないのか?」


 有門の指摘を車田は否定しようとしなかった。コクリ、と静かにうなずくと前傾姿勢になり両の掌を合わせる。


「申し訳なかった。ゲームの中だとはいえ、俺は……いや、いい。俺はもうこのゲームから降りるし、齋藤美歌、もうあんたを付け回すようなことはしない。加害者の俺がこんなことを言える立場ではないが、忘れてほしい」


 それだけ言うと、車田は一度両手を握り締め、立ち上がった。長椅子の下に置いた黒いバッグを乱暴に掴むが、その先の行動を美歌の発した言葉が止めた。


「そんなんじゃないですよね。そんな簡単な、忘れてくれなんて簡単なことじゃない。それだけのことがあったんじゃないんですか?」


 訴えかけるような大きな瞳が、車田を立ち尽くさせた。逃れるのは簡単なはずだった。何も言わずにさっさとこの場から立ち去ればいい。だが、どうしても、まるでその瞳に縛られているかのように、車田は美歌の目から逃れることはできなかった。


「有門さんは、よくある話だと言いました。たしかに、起こったことを並べるとそう受け取ってしまうかもしれない。でも、本当はそうじゃないですよね」


 こんな状況にも関わらず美歌は微笑みを見せた。実に柔らかく、自然で穏やかな微笑みを。


「私だってそうですよ。みんなの前で歌ったり踊ったりすることが好きだったある女の子が車に引かれて足が動けなくなり、一度夢を諦めた。よくある話じゃないですか。私は、そのあとたまたまこのダンジョンに招かれて、瑠那さんに会って今ここにいるけど、それだって出来事を並べるだけなら面白くもないただの話になってしまう。だけど――本当は、違う。私にとっては事故にあったことも、夢を諦めたことも、ダンジョンに来たことも、瑠那さんに会ったたことも、有門さんに会ったことも、そしてもちろん車田さんにあったことだって大きな出来事でした。車田さんだって、きっとそうですよね。忘れられるくらいの出来事なんだったら、誰かを傷つけてやろうなんて思わないんじゃないですか?」


 微笑みを消すと、改めて美歌は車田を見つめた。


 無造作の前髪が邪魔をして見えにくいが、その常闇のような漆黒の瞳が揺れ動いているのは見て取れる。その動きが、怒りに由来するものなのか、悲しみに由来するものなのか、それともまた別の感情なのかまではわからないにしても、車田の心に自分の声が届いていることだけはハッキリとわかった。


「車田さん、教えてください。どこかから持ってきたような言葉じゃなくて、私は車田さんの本当の声が聴きたいんです」


「俺は!……俺は――」


 唇が噛み締められる。その隙間から荒い息遣いが漏れ出てきた。瞳は美歌から離れどこか遠くを彷徨うように動いた。


 顔が、拳が、脚が、目でわかるほどに震える。はっと大きく口を開けて息を吸い込むと、閉ざされた口が慟哭となって解き放たれた。


「――俺は、裏切られ続けてきたんだ! 親父は確かに加害者だった。事故を起こして美歌の足を……もしかすると命まで奪ってしまっていたかもしれない! だけど、親父は必死に働いていたんだ! 睡眠を削って、体力を削って……遊んでいたわけじゃない、必死に会社の言いなりになって働いていたのに! あいつらは親父一人の責任にして裏切ったんだ!」


 手に持ったバッグが冷たいコンクリートの床に投げ捨てられる。外にいるマネージャーに聞かれてしまうかもしれない、なんていうことは溢れ出る感情を、衝動を言葉にして紡ごうとしている車田の脳裏にはもはや残っていなかった。


「それからだ。親父を採用してくれるところなんてどこにもなかった。親父が持っているものなんて運転免許しかない。そんな男を誰が雇うんだ? ギャンブルもやって酒もやって……親父は自分で命を絶ったんだ。真面目だったから、そうだ真面目だったのに……。親父が死んだとき、母さんはもうどこかへ蒸発していた。あとは──もう」


 肩で息をしていた。吐き出したことで疲れ切ったのか、車田は長椅子に座り込んでさっきと同じように前屈みで両手を合わせて、どこか遠くを眺めていた。


 美歌も大きく息を吐きだすと、何か言おうとする有門へ目配せし、息が整えるのを待った。


「一人で生きてきた――ずっと。たぶん、もう諦めてたんだ。だって、その方が楽だろう。だけど、そんなときにあのダンジョンに招かれた。ダンジョンをくぐってモンスターを狩れば、簡単にお金を稼げるんだ。最初は楽しかった。お金持ちになって諦めたものも買って、楽しく生きられるかもしれないと思ったんだ。そんなときだ。ファーストダンジョンをクリアしたプレイヤーとして、齋藤美歌の名前を見つけたのは」


 胸がキリリと小さな悲鳴を上げた。思わず美歌は片手を胸に当てたが、じっと車田の話に耳を傾ける。


「そして、すぐだ。『車椅子の女子高生、アイドルデビュー』を知ったのは。怒りが、こう沸き上がった。どうしてもその怒りが消えないんだ。そんなときにダンジョンであの男が近づいてきて言った。『ひどい格差ですよね』と」


 美歌は思い出していた。黒フードの下の男の顔が、醜く歪んでいたのを。


「言われて気づいたんだ。俺は何もしていない、何もできなかったのに、周りが俺を裏切ってきたって。会社が裏切り、親父が裏切り、母さんが裏切り、周りが裏切り、そして今度はダンジョンさえも裏切ったんだ。そう思ったらもう、怒りが止めようがなかった」


 長い長いため息が狭い室内にこもった。息苦しさを感じているのは、きっと美歌だけではないだろう。


 隣にいる有門も自分を守るように腕を組んで、深く何かを考えているようだった。


 ふと、車田の顔が上がる。その瞳にはほんの少しだけ色が宿っているように見えた。


「すまなかった。本当に。暴力だけじゃない、ひどい暴言も吐いた。忘れ、られないよな」


「忘れられないよ。傷ついたんだから。でも――」


 美歌の顔が綻ぶ。いつものように。


 だが、一つだけ違うのは涙がプラスされていたことだ。一筋の涙が頬を伝い、床へとポタポタ流れ落ちていく。


「真実が……分かってよかった。知らないままでいたら……ただモヤモヤしたままで終わって、本当に……忘れてしまってたかもしれない。だから……ありがとう」


「ありがとうって、何のありがとうだよ!」


 たまらず有門が突っ込む。冷たい突っ込みではなく、温かい突っ込みだった。


「……そうだね、たしかに。でも……どっちがどっちなのか、もう気持ちがよくわからないよ!」


 そのとき。ノック音もせずにドアが勢いよく開いた。きっちりと紺のスーツを着込んだ葵が部屋の中に足を踏み入れる。


「こら! 何があったか知らないけど、うちのエース泣かせたらダメでしょ! ほら、もう美歌ちゃん行くよー!!」


「あっ、いや、すみません! だけど──」


「だけどじゃない! 後で泣かせた責任取ってもらうから! いくよ、もうリハ始まっちゃう!」


「あっ、ちょ──」


 問答無用に車椅子を押されて美歌は部屋を出ていってしまった。その背中に向かって、車田が質問を投げ掛ける。


「美歌! なんで、あのとき俺を助けてくれたんだ?」


 パッと振り返った笑顔にもう涙はなかった。


「だって……私、アイドルだから!」

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