小さいコンサートホールの照明が一斉に落とされ、一瞬の静寂ののちに歓声が上がった。
間を置かずにピアノの音が歓声を押し退けてホール中に響き渡っていく。月光のようにスポットライトが照らされ、その半円の中を二つの人影が鳴り響くリズムに合わせて登場する。
ライトに照らされてその顔が顕になった途端、その名を叫ぶ者、歓喜の声を上げる者──反応は様々だが、会場中が大歓声に包まれた。
美歌のピックが緩やかに弦を鳴らした。流水のように流れるようなピアノの音色と混ざり合い、ミディアムナンバーのゆったりとしたリズムを刻んでいく。
滑らかに動く指が暗いステージに浮かび上がり、少しずつ美歌の顔を光の下へ映し出していく。観客の目にハッキリと顔が照らし出されると同時に、ピアノとギター二色の音が止まった。
一拍の後にドラムが滑り込み、瑠那の歌声が弾けた。ライトは瑠那を照らし、再びギターの音が掻き鳴らされて、ステージ全体がライトアップされる。
手拍子とコールがしなやかに踊る瑠那へ、繊細に時に大胆に音を紡ぐ美歌へ、そしてウィスパーボイスの歌声へ送られる。
美歌や瑠那からは見えはしないが、二人の動きを追いながら共に口ずさみ、大粒の涙を流す者もいた。熱狂の渦が、今このひととき、同じ空間、時間を共有する全ての人を呑み込んでいく。
白を基調に各所にライトグレーを配置したドレス風の衣装が、瑠那の明るいブロンドを際立たせ、まるで雪景色の中を力強く飛ぶ蝶のようにくるくると舞う。長い腕を上げ、振り下ろし、観客を魅了する。絶やすことのない微笑は、衣装と相まってクールに映えた。
孤高の蝶を支えるのが、温もりさえ感じる美歌の音だ。柔らかなライトグレーの袖から伸びた白手が、弦を弾き、穏やかな空気感を創り上げ、瑠那と後ろの音、そして会場中に一体感を演出する。観客に向けられる透き通った大きな瞳は、緊張を内包しながらも真っ直ぐに輝く。
舞うごとに、弾くごとに、囁くごとに、手拍子もコールも大きく膨らんでいく。そして、感情豊かなギターの旋律の直後──曲の終わりに向かって勢いは加速し、最後の一音とともに弾けた。
万感の拍手が発生した。その拍手に包まれながら、瑠那は後ろへと下がり、美歌は一人両手で車椅子を動かしながらステージ前へと進んだ。
「みなさん」
ホワイトピンクのヘッドセットのマイク位置を調整しながら声を震わせた。思った以上に自分の声が震えていることをマイクを通した声で実感する。
「伝えたい、聞きたいことが、どうしてもあります」
演奏が終わった途端に指先が震えて止まらない。観客にとってはきっとただのMCなのだろうが、美歌にとっては大勢の前で自分の思いを告白するようなものだった。だけどこれだけは、聞いておかなければならなかった。
「私、私は──」
沸いた拍手を遮るように、声を発する。緊張はきっと伝わるだろう。唐突な切り出しに困惑するファンもいるかもしれない。それでも──。
「私は、アイドルになれませんでした」
急に拍手が鳴り止み、耳が痛くなるほど静まり返ってしまう。自分の荒い呼吸の音すら、マイクが拾って伝わってしまいそうなほど。
「アイドルになれなくて、ここに立ちました。手は震えているし、声も、ほら、震えています。顔も強張って上手く笑えなくて。瑠那さんみたいにアイドルとして、この場に立つことができなかったんです」
引き続く静寂は、ほんの数分前の膨張した音が幻だったかのように、押し寄せてきた。沈黙。集まってくれた一人一人の沈黙の声に、美歌の小さな声は押し潰されそうになる。
「──私……ただの、高校生で。外にも……ずっと出ていなかったし……ネットニュースでいろいろ書かれて──」
(足も普通じゃないし)
「──すみません。本当に……あの──」
「謝らないで!!!!」
声が上がった。沈黙していた観客席から、一人の泣きそうな声が上がった。それを皮切りに次々と声が上がっていく。
「頑張って!」「負けるな!」「諦めないで!」「美歌ぁぁ!!!」
息を呑む。伝えようと思った言葉がどこかへ飛んでいく。その代わりに、美歌の言葉を想いを声を埋めるように会場から多色の声が、コールのように沸き上がっていく。それはやがて一つのコールへと集約されて、美歌の耳へ届いた。
「美歌! 美歌!! 美歌!!!」
スポットライトは美歌の涙を映した。両手で留めきれないほどの溢れんばかりの涙を。掌の隙間から一粒滴り落ちていく。透明なその涙がステージへと届く頃、美歌の肩を心地のいい手が触れた。
「みんな、ありがとう! 大丈夫! みんなの思いはちゃんと美歌ちゃんに届いたと思うから! ねぇ、美歌ちゃん!!」
コクコクとうなずくことしかできない美歌の髪の毛をくしゃっと優しく撫でると、瑠那は大きな笑顔をみせる。
「大丈夫だって! もう、みんなコールやめてあげて! じゃないと美歌ちゃんずっと泣いちゃうよ~」
笑い声が起こる中、マイクを外して瑠那は耳元で囁く。
「よかったね。美歌ちゃん」
*
ライブの余韻が耳奥に残っていた。ゆらゆらと揺れる車内の中でも、まだ鳴り止むことのない音が聴こえてくる。
「改めて、どうだった?」
ハンドルをしっかりと握りながら、ウィスパーボイスのマネージャーである空閑葵は涼しげな目をバックミラー越しに美歌へと投げかけた。
「えと、やっぱり、ホッとしました」
運転席の背に向けてふーっと息を吐く。ヘッドレストに取り付けられたリアルな三毛猫のカバーが、何食わぬ顔で見つめてくる。
おそらくは運転する葵の趣味なのだろう。車椅子を載せるために事務所で新しく用意されたと言っているものの、個人の趣味が色濃く現れていて、ほぼ葵専用と化していると見て間違いなかった。
全体的にピンクに彩られた軽自動車。座席には『猫』が鎮座し、ドリンクホルダーも猫、フロントガラスの周りには猫のぬいぐるみと猫尽くしだった。
「そっか。よかったね。美歌ちゃんのMC、裏で聞いていてけっこうドキドキしたんだから。でも、まあ、ある意味では私も安心したかな?」
「安心、ですか?」
「うん」
と一度言葉を切って、空閑はドリンクホルダーに入れたカプチーノを口へと運ぶ。釣られたのか美歌も両手に収めていたホットレモネードを一口飲む。甘くて、温かかった。
「瑠那って結構大胆っていうかさ、思い切りのいいタイプだから、美歌ちゃんついていけるのかなぁとかって思ってたんだよね。だけど、さっきの話聞いてて、あっ、この子も同じタイプなんだって思ったわけ」
「えっ、でも私全然自分に自信ないですよ? 自信ないからあんなこと言ってしまったわけですし──」
「う~ん、それは違うんじゃないかなぁって思うけど。だってさ、本当に自信なかったらあの大勢の前で『アイドルになれませんでした!』なんて言えないと思わない? そういうタイプの子はきっと、誰にも相談できずに心の中でずっとしまい込んでいって、みんなの期待に応えようとし過ぎて潰れていってしまうんじゃないかと思うんだよね~。美歌ちゃんはそういう意味ではちゃんと自分のことわかってるし、『これ以上無理!』ってなったら誰かに助けを求められると思うんだよね」
「……それって自信があるってことなんですか?」
ぎゅっとレモネードのペットボトルを握った手が温かい。さすがに12月ともなっているからか、窓はうっすらと白く曇っていた。きっと外は手がかじかむくらいには寒いのだろう。
「自信があるってこと。自分に自信がないと人にも頼れないし、頼ってもらえないよ。瑠那は美歌ちゃんに結構頼ってるところあると思うな」
「そんなっ、私なんて全然。むしろいつも瑠那さんに頼ってばっかりで、もっと、もっと早く追いつけるように頑張らないと、って毎日思ってます……全然成長できてないんですけど……」
「あら? なんでか落ち込んじゃった?」
「いえ──」
美歌は、大きくため息を吐いて片手で髪の毛を何度かいじる。目を瞑ると、耳奥に残る余韻がライブの記憶を甦らせた。瑠那の歌声にダンス。ギターの音。たくさんの涙。そして、何よりも集まってくれた観客みんなのコールと一体感──。
(いろんなことがあったけど、あの空気感だけは忘れたくない)
「──葵さん」
「うん?」
「いろいろあったんですが、私、やっぱり、楽しかった」
「うん」
「とても、楽しかったんです。みんなとたった一秒かもしれないけど、繋がれたような気がして──」
「うん!」
「だから、私。もっと、もっと歌をうたいたい。演奏したい! みんなと一緒に声を上げたい!!」
「いいね~美歌ちゃん! ストレートで!! 私も全力でアシストするよ!」
アクセルを踏み込むとスピードが上がった。見慣れた景色が白いベールに包まれて、美歌の目にはどこまでも幻想的に見えた。