通知音が鳴った。それに気づくものの確認する気力もないまま放置を続ける。
目の前の鏡を見れば、ヘアメイクを整えた自分の顔が映った。髪を真ん中に分けて、毛先を外ハネにしている。アイラインも入れてまつ毛もぐっと上げた。オレンジ色の明るいチークは無理矢理気分を上げているようで、鏡に映る顔が別人のような気がしてしまう。
『私はショート好きだよ!』
前に瑠那から誉められたことを思い出すも、すぐに別の言葉に打ち消されてしまう。
『どれだけお前のファンがいるのか知らないが、俺にとっては目障りなんだよ!!』
『世間はただ、珍しいから、面白いから、お前を取り上げているだけじゃないのか? 体が不自由なのに頑張っててすごい、そんなイメージで売れただけなのに、何がそんなに楽しいんだ!』
(……私は、ただ……)
首を思い切り横に振る。ダメだ。泣いたら、せっかく整えてもらったメイクが台無しになってしまう。
(今は、ライブに集中しないと! 私達を待ってるお客さんが! ……お客さんが……)
「……私を見てくれる人なんて、本当にいるのかな……?」
「美歌ちゃん!」
ノック音のあとすぐにドアが開いて瑠那がひょっこりと顔を出す。美歌は慌てて笑顔を作って鏡から視線を外した。
「準備どうかと思って来たんだけど……大丈夫?」
「大丈夫です! すみません、遅くなってしまって。ちょっとまだ緊張してて。上手く弾けるのか、歌えるのかって」
「……本当にそれだけ?」
「そうです! 大丈夫! 大丈夫……です」
瑠那の足音が近付いてきて、ぐいっと顔を横へと向けさせられた。ブルーの瞳に自分の顔が映ってしまうほど近くに瑠那の顔があった。
「本当に大丈夫なら、何度も大丈夫なんて言わない。それに、私の顔を見てくれないのはどうして?」
ピシャリと指摘されて何も言えなかった。何も言葉が浮かばずに吸い込まれそうな瞳をじっと見つめてしまう。何度か瞬くと、瑠那の顔が離れていった。
「まだ、車田とかいう男の言葉を気にしているの?」
「……それは……」
「また視線がずれた。ふふっ、美歌ちゃんってやっぱりわかりやすいよね」
そう笑うと、瑠那は近くにあった椅子を手繰り寄せてそっと隣に座った。
「なんだろう。上手く伝わるかわからないんだけど、こういうことってやっぱり、どうしてもあると思うんだ。もちろん、傷つくし嫌だけどさ」
美歌は下を向いたままじっと耳を傾けていた。ずっと画面を通してしか聴くことのできなかった声が同じ空間に木霊していく。元気で明るくて、いつもいつも勇気付けられてきた声。
だけど、今ばかりはそう簡単に前を向けそうにはなかった。
「私も、浦高のときはこの顔のせいで人気出なかったし、今でも批判? 悪口? みたいなね、言われることはいっぱいある。『ハーフ顔が受け付けない』って、そんなこと私にどうしろっていうのってね、思うけど。それと反対にハーフだから好きって言うのも、違うんじゃないかなって。もっと、なんだろう。内面っていうか、姿勢っていうか、そういうところ見てくれたら嬉しいし、頑張ろうって思えるかもしれない」
深くうなずいた。もちろんそうだから。だけど、それはきっと──。
「もちろん、これはわがままだよ」
言い切るその柔らかな声にふと、顔を上げる。目の前の鏡には、自嘲でも諦めでもないスッキリとした笑顔が映っている。
「アイドルなんだから、見た目で選ばれるし、キャラも注目される。どうしたらみんなにとって可愛くなれるのか、みんなに注目されるのか、苦しいけど考えなきゃいけないときもある。何気ない言葉に傷つくし、無理矢理自分を頑張らせなきゃいけないときだってある。それが、現実。──だけどね」
その笑顔が目の前に広がった。手を伸ばせば届く距離に。夢にまで出てきた笑顔が。
「それでも、心の底から応援してくれる人は絶対絶対いるんだよ。だって、私がそうだもん。私は素の齋藤美歌を見て、齋藤美歌の声を聞いて、それで好きになったんだもん。美歌ちゃんもそうでしょ?」
「はい……」
限界点を超えて、小さな雨が静かに音もなく垂れ落ちた。
「……だけど……私は瑠那さんじゃないんです。瑠那さんみたいに綺麗じゃないし、カッコいい立ち居振舞いができるわけじゃないし、おしゃべりも上手じゃないし、上手く笑えないし、歌だってギターだってまだまだ、まだまだ下手くそだし、瑠那さんみたいに強くないんです。瑠那さんもいっぱい頑張って頑張ってここまで来たことは知ってるけど、私はもう──。私はだって、ただ好きなだけなんです。歌うのが、弾くのが。それだけで。打算とかそんなの何もなくて、ただ、ただ自由に音を奏でたいだけだったのに」
そこで言葉を切った。溢れる涙を手の甲で何度も何度も拭うが、その先からすぐに熱い涙がこぼれ落ちていく。
「私には覚悟なんてなかった。アイドルがどんなに大変か知っていたのに、自分のこととして見れていなかった。そんな私がこれ以上アイドルなんて──」
続けられない。そう口にしようとときだった。ノック音もなしに控室のドアがゆっくりと開けられる。
「だったら、今、その決意をしたらいいのよ。美歌」
そこに立っていたのは、美歌の母、齋藤伊織だった。
「──お母さん、どうして?」
「どうしてって、ライブに誘ってくれたのそっちでしょ? それにメッセージ送ったのに返信も既読もつかないしで、マネージャーさんに断って来たのよ」
言いながらドアを後ろ手に閉めると、伊織は垂れた前髪を指先で直す。
「急にすみません、瑠那さん」
「いえ、あの──」
何か言おうとする瑠那を微笑みで制すると、伊織は美歌へと厳しい視線を向けた。
「最初にアイドルになりたいって言われたとき、覚悟が必要と伝えたわよね」
「……うん、でも……こんな風になるなんて」
「思って、なかった?」
何も言い返すことができなかった。微かにうなずくと、そのままうなだれる。
「そう。やっぱり見通しが甘かったってことね」
一つ一つの言葉が重く聞こえた。瑠那から誘われて、アイドルになることを打ち明けたあの日。父親も含めて三人でじっくり話したあの日。振り返ってみれば、心はずっと浮わついていた。ステージに立って歌い、弾く──その自分しか想像していなかった。現実なんてものは、まるで見えていなかった。
「だけど、それは当たり前のことだと思うの」
意外な母の言葉に耳を疑った。上目遣いに見上げれば、口元が綻んでいる。
「だって、まだ15歳だし、初めての仕事だし、それもアイドル! 壁にぶち当たって当たり前だと思う。それで諦めてしまうのはもったいないんじゃない?」
「……でも……私は」
「ずっとやりたかったことなんでしょ? あの事故で諦めてしまったけど、ずっとずっと夢見て、憧れて来たんでしょ? 道が閉ざされたわけじゃないんだから、アイドルになるって決めたあの日みたいに、真っ直ぐ前を向いて進めば、それがきっと力になる。たとえ今、嫌う人がいたとしても、ひたむきに取り組み続ければいつかきっと理解してくれるはず。アイドルなら、誰かを変えられるくらいを目指さないと」
穏やかな茶色がかった黒い瞳が自然とぶつかる。気がつけば、顔を上げていた。
『お前の声を聞かせろよ』『私と一緒に新しい音を創ろう!』──そうだ、私には一緒に歩いて応援してくれる人がいる。こんな私を応援してくれる人がいる。
「美歌ちゃん」
「はい」
瑠那が手を差し出した。
「一緒に行こう!」
「──はい!!」
車椅子を動かそうとする美歌の額がぱちんとデコピンされた。
「でも、その前に化粧直してもらわないとね!」
瑠那が悪戯っぽく笑った。