ダンジョンが三次元的な空間であることには間違いないはずだった。たとえこの世界が仮想空間であろうとも、三次元的な世界であることは疑いようがない。
それなのに、目の前のだだっ広い白色の空間に現れた
「へ、蛇!?」
瑠那が急に情けない声を上げた。蛇、であることにはきっと間違いないのだろう。
「これは──さすがに気持ち悪いな」
眉をしかめると吐き気を催したのか、有門はうぇっと口を開く。美歌に至っては思わず両手で口を押さえてしまっていたから、膝に置いたギターを落としそうになっていた。
その異形の蛇は、二匹いた。二匹の蛇が交差し、不定形に回転する。色は鉛筆で書かれたように薄黒く背景の真っ白が透けて見えた。まるで空間に描かれた絵画のように、存在が曖昧な半物質のような、そんな造形。
「く、来るぞ!」
「…………!!」
2頭の蛇は、空気に溶け込んでいくようにすっと姿を消した。不気味な空気感だけが肌にべとつくように残る。
「どこだ! どこに消えやがった!」
「有門! 上に!!」
「なんだって……!!」
ぐるりと左に回転する。途端に雨風が部屋中を満たした。立っていられないほどの嵐のような風と雨に、紺のスニーカーがつまずく。
「危ない!!」
倒れ込みそうになる足に気がとられ、一瞬判断が遅れたのが致命的だった。パパパッと眼前が光ったと感じたときにはすでに全身を熱が駆け巡っていた。
「っ! 熱っつ!!」
背中に刺した剣を取ろうと後ろへ伸ばしたときに、その違和感を感じた。
(なんだこれ、手が痺れる──)
「雷です! たった今有門さんの体を雷が通過したんです!!」
「! ウソだろ!?」
雷が貫通したなんて笑えない。これがダンジョンでなければ即死の可能性も。
(なんて攻撃をしやがる!!)
強い雨垂れを顔に受けながら、薄目を開けて宙に留まる蛇の姿を見上げた。稲光がそれの周りを飛び交っていた。
「嵐に雷。これはもう自然現象じゃない! こんなのがボスなわけ!?」
「ああ、そうみたいだ。確かにこれは一筋縄ではいかないな」
とてもじゃないが現時点の剣でどうこうできる相手じゃない。そもそも飛び上がったところで届くかどうか。
「瑠那の精霊魔法じゃないと倒せないかもしれねぇな」
「だけど、そんな余裕は──」
「瑠那さん!」
降り頻る大雨の中を美歌の高い声が引き裂いた。金色の髪の毛が雨粒を弾かせながら振り向く。
「お願いします! ここは、私と有門さんが頑張って瑠那さんの時間をつくりますから!!」
「美歌ちゃん──」
強い意志の宿る大きな黒い瞳を確認すると、瑠那は前を向いた。雨に負けることのないブルーの双眸がきゅっと縮んだ。
「わかった! 任せたよ美歌ちゃん!」
「はい!!」
瑠那は背から杖を引き出すと、ダンスのステップを踏むように最後尾へと移動した。美歌の腕に抱かれていたギターが、音を響かせる。その音につられるように美歌のエレクトフォンの画面が光った。
『どの楽譜を選択しますか?』
(今、選べる曲は、『アレグロ』『グラッセ』『ルフティヒ』『シュタルク』の4つだけ……どれもスゴい魔法だけど、この嵐に対抗できるのかな?)
大量に出てきた唾を飲み込む。任せてと言ったものの、いざ向き合うと緊張とプレッシャーがのし掛かった。身体はすでに冷え切っていて指が震えていた。これでは思い通りに動くかどうか。
(こんなときに……しっかりしろ! 自分!!)
手を強く握り、念じるように目を瞑る。この数ヶ月起こった出来事が頭を駆け巡った。突然ダンジョンに飛ばされたこと、瑠那に会えたこと、瑠那とパーティーを組み、ギターを演奏したこと、泣いたこと、デビューしたこと、泣いたこと、握手を──大勢のファンが差し伸べてくれたその手を握り返したこと。
握り締めていた指が弛緩した。パッと目を開くと、大きな背中が雨風をしのぐように立っていた。
「早く、聴かせてくれよ。お前の音を」
雷がまた落ちる。有門の伸ばした腕の先へと。ちょうど垂直に真っ直ぐ上へと伸ばした白銀の剣が、避雷針の代わりになっていた。
「有門さん!」
「言ってるだろ、早くしろ! そんなに長くは持たない」
「!! わかり……ました!」
『選択は決まりましたか?』
「はい!!」
──今の私にできることは音を奏でることだけ。私の中の音を全部ぶつけるだけ。
(それが、きっと、きっと、力になる!)
「ナビ! アレグロをお願いします! ギターとソング両方で!!」
『了解しました。音楽魔法火属性魔法スキル、アレグロ、ギターおよびソングタイプ楽譜を表示します』
五線譜が現れる。ギターとソング両方の音の粒が合わさった楽譜が。
「これって……」
『ソングスキルは楽器との併用が可能です。スキルの同時使用により威力・範囲ともに増大します。わかりやすく言い換えるとするならば、音を重ねることでより素敵な音楽が奏でられる、ということです』
(そっか、これなら!)
大きく息を吸う。もう一度目を閉じて、ギターを構えた。呼吸を整え、音を浮かべて──目を見開いた。
弦が揺れる。と、同時に小さな火が灯った。強風に煽られそうな、大雨に消されそうな小さな灯だ。その灯を繋ぐように即座に次の音が紡がれる。速いテンポで連なる高音域の音は、弱々しいその火を支え励まし音を大きくしていく。
張り巡らした弦が掻き鳴らされた。一斉に。叫ぶように。それを合図に短く息を吸うと、口を大きく開き、流れる音の粒に合わせて声を張り上げた。お腹の底から奮い出したような力強い音が、冷えた空気を震わせ火を炎へと、大きく変えていく。
炎が風を呑み込むように揺らいだ。アレグロのリズムを刻む二つの音がぶつかり、重なり、一つの特大の焔を創り上げる。熱情的な旋律が、激しいリズムが、力任せに押し寄せる無色の風を緋色に染め上げていく。焔は面積を広げ立ち塞がり、有門を美歌を、そして瑠那を守る壁となった。
「今だ!! 瑠那!!!!」
有門があらん限りの声で叫んだ。