それからさらに数時間後、有門は5本目となる缶コーヒーを飲み干した。
木枯らしが吹く会場の外はさすがに寒く、軽く足踏みをしたり、体を小刻みに揺すったりしながら時間が過ぎるのを待っていた。
「楽屋に来てください」──なんて言葉をさすがに現役のアイドルの口から聞いてしまったからには、その約束を反故にするわけにはいかない。それも美歌ならなおさらだ。
何度か空耳かもとも疑ったが、真っ直ぐに見つめてきたあの大きな目を思い出すと、間違いじゃないと思う。
(……そろそろ行くか)
もう30分前に握手会は、何事もなく無事に終了していた。握手会を終えてスタッフと打ち合わせや挨拶を交わして、楽屋に戻って、だいたいこれくらいの時間に行けばちょうどいいだろう。
再び、しーんと静まり返った会場へと戻る。中はすっかり片付けられていて、間違えて別の場所へ来たかもと思ってしまうほどだった。
(たしか、あそこの隅に二人がいて──)
長机が置かれていたその奥にドアが見える。
(あそこから行けばいいのか? いや、そもそも、楽屋ってどこにあるんだ?)
迷っていると、ドアから快活そうな印象の女性が顔を出した。キョロキョロと見回し、有門を見つけると笑顔を見せて手招きをする。
「あなた、有門くんね! こっちこっち!!」
「……はあ」
ドアへ入ると、すかさず名刺が突き出された。
「空閑……葵、マネージャーさん?」
人の良さそうな笑顔が向けられる。
「そ。元々は瑠那のマネージャーだったんだけど、今は美歌ちゃんも含めて、ウィスパーボイスのマネージャーをやってる。有門くん、二人からは友人だと聞いているけど、仕事は何してるの?」
ぐいぐいと容赦なく痛いところを突いてくる辺り、瑠那と相性が良さそうだ。有門は、聞こえないように短く息を吐いた。
「フリーターです。年はちょうど
「ふーん、スーツ姿だから就活帰りとか? まっ! どこで知り合ったのかは知らないけど、二人をよろしくね~」
そう早口で言うとヒールの音を鳴らしながら、空閑は足早に楽屋へと向かう。その後ろを有門も急いで追いかけていった。
(……おいおい、そんなテキトーでいいのかよ)
簡易なつくりのドアの前で立ち止まると、空閑が急に振り向いた。
「あっそうそう! 美歌ちゃんはとにかく緊張しすぎておかしくなってるから、和ませてあげてほしいな」
「ん? それはどういう──」
「まっ! いいからいいから、はいどうぞ!」
開いたドアの先には、現実世界の金木瑠那と齊藤美歌のくつろいだ姿があった。二人掛けのソファにお互いもたれ掛かるように姿勢を崩して座っていた。というよりも、半分ほど寝転がっていた。
「あ、ああああ有門さん!!」
慌てて姿勢を正す美歌とは相対的に瑠那は、横になった姿勢のままで有門を睨み付けた。
(さっきの笑顔はどこに行ったのか……)
「空閑さん! 入ってくるときは、ノックお願いしますよ~」
「いや、ごめんごめん、今まで女の子同士だったしさ~。それに、美歌ちゃんどんな反応するかなって」
手の平をヒラヒラさせながらにへらと笑う。明らかにわざとだった。
「うん、なかなかいい反応だった! ドッキリもいいかもしれないね! 瑠那が仕掛人で!」
「やめてください! 瑠那さんに騙されてると思うだけで泣きそうになる……ん……です……」
美歌は本当に涙声になりながら、顔を両手で覆う。何かのきっかけでそこから一滴、涙が流れてきそうだった。
「わわっと! それじゃあ、有門くん連れてきたから! 有門くん後はよろしくね!!」
「なっ、ちょっ!!」
呼び止める間もなくドアは乱暴に閉められる。残るは、何とも言えない湿った静寂さだけ。
また、ため息を出すと、有門は鏡台の前に置かれた丸椅子に腰掛けて、美歌の方へ視線を向けた。震える肩にそっと腕を回して、瑠那が美歌の華奢な体を抱き締める。
「…………ごめんなさい…………」
絞り出すような声に微笑すると、手を頭に乗せてお気に入りのぬいぐるみをいたわるように、柔らかく撫でる。
「何も謝ることないよ、美歌ちゃん。頑張ったよ。もう神経すり減らしてヘトヘトなんだからさ、もっと私に甘えていいんだよ? 私ならもう慣れてるから」
「そうだ。瑠那は何年もアイドルやってんだろ? ファン対応もバッチリだ。甘えろ、甘えろ」
冷たい視線が飛んでくる。
「そうだけどさ~部外者には言われたくないんだけど、有門」
「部外者のわりにはよく入れてくれたな」
「それは、美歌ちゃんがどうしてもって。私なら絶対、入れないけどね! だいたいトーク会のとき、あれ、なんだったの? 痛かったんだけど!」
「ああ、あの素敵な笑顔がなぜか憎たらしくなって」
「憎たらしくなって──!? って美歌ちゃん!?」