スマホの振動を慌てて止めると、いつものクラシック音楽と誰かのいびきや寝息が静かに店内を包み込んでいた。むくり、と起き上がるもぶるっと体が震える。
毛布を掛けて寝ていたとはいえ、冬に近づく季節だからなのか、妙に寒い。空調が効きすぎているせいも、あるかもしれないが。
有門は寝起きでボサボサの髪の毛を掻くと、大きなあくびを一つして、目の前にあるパソコンの電源ボタンを押した。無機質な起動音が鳴る。
「さて、と」
パソコンが完全に立ち上がる前にトイレを済ませると、飲み放題のドリンクコーナーから温かいホットコーヒを片手に狭い「自室」へと戻った。
元々デカい体格が邪魔をして満足に手足を伸ばして寝ることも叶わないほどの狭さだが、有門はこのスペースが気に入っていた。というよりも、慣れてしまった。住めば都ということわざは、まさにこういうときに使うものだと思う。
起動したパソコンで朝御飯のうどんを注文すると、日課のネットニュースをチェックする。あれから──あの二人とダンジョン探索を始めてから、毎朝欠かすことのない習慣になった。
『金木瑠那の新ユニット、オンライントーク会1万人』『異色のユニット「ウィスパーボイス」』『車椅子の女子高生デビュー』
その記事に載っているのは、紛れもなく共にダンジョンを潜った仲間たちだった。トップアイドルの金木瑠那が突然、二人組のガールズユニットを発表した。それだけでもビッグニュースになるのだが、組んだ相手が無名の、それも現役高校生の車椅子の少女だったことが、さらに大きな注目を呼び、デビュー前のトーク会にも関わらず、全国から1万人が訪れるほどの人気を獲得していた。
二人の現実世界での存在を知ったのは、有門が自主的に調べたからではない。
軽いノック音にマウスを動かす手を止め、簡易扉を開けると、いつもの温かいうどんがいつもの店員の笑顔とともに手渡される。
さっそくそれを啜りながら、有門は振動したスマホの画面を開いた。予想通り、妹──有門優子からメッセージが送られてきていた。
「今日のウィスパーボイスのリアルトーク会! 絶対行ってきてよ! 私の代わりに美歌ちゃんに応援メッセージ送ってきて!!」
それに了解の意味のスタンプを送ると、有門は深い溜め息を吐き出し、打ち消すようにうどんを喉奥へと啜った。
(行くしかないか……現実では会いたくなかったんだが)
有門の妹は美歌と同じように足が悪く移動に困難が伴う。代わりに行ってきてという願いを叶えるために、しぶしぶ有門は自分でCDを購入してトーク券を入手した。二度と聞くことはないだろうと思った複数のCDは、すでに妹へと郵送済みだ。
少しスマホでゲームをしたあと、身支度を済ませると、有門は就活用にとクリーニング仕立ての綺麗な状態に保っていたスーツに身を包んだ。
*
果たして、そこには金木瑠那と齊藤美歌の姿があった。何時間も待たされてようやく顔が見える距離まで近付いてこれたのだ。
会場は無駄な熱気に包まれていた。少なくとも、有門にはそう映った。何が悲しくて少ない日給とダンジョンで得たお金を不意にしてこんなところにいなければいけないのか。何でわざわざ知り合いと握手するために並ばなければいけないのか。
「あー!」
突然、後ろから大声が上がった。ビクッと肩を震わせてしまうほどの。
「緊張する……いよいよ、瑠那ちゃんと……」
そうか、緊張するもんなのか。
「……正直」
また後ろから呟きが漏れ聞こえる。暇指数がもう最大限までに達していたからか、有門は自然とその一人言に耳を傾けてしまう。
「瑠那はもう見飽きたんだよね。ここは、大型新人の齊藤美歌がどんな子なのか……」
なるほど、美歌への期待か。
一人約10秒ほどの短い間隔で、どんどん列は前に進んでいった。肩をくるりと回すと、小気味いい音が鳴る。
瑠那とも美歌とも握手以上に何度も言葉を交わし、どころかいろんな接触までしている身としては、何の感慨も沸かなかった。わずかに思うことといえば、自分があの有門だとわかってしまった際にどう誤魔化すかということくらいだった。
「またね~バイバイ!」「あ、ありがとうございました!」
自分の前の高校生らしき女の子の握手が終わり、いよいよ有門へと仲良く横に並んだ瑠那と美歌、二人の視線が向けられる。
『あ、有門?』『有門……さん?』──きっと心の中ではそう思っているだろう。さすがに張り付いた笑顔は崩さないが、瞳の奥にほんの少し動揺の灯がともった気がした。つまり、バレたのだ。
仕方ないので有門は、自身最高級の笑顔を向けながら、差し出された手を力強く握った。もちろん、手前の瑠那に対してだが。目の前に広がる笑顔がさらに明るくなる。逆に痛がっている証拠だ。
そして、美歌の前に移動すると柔らかく握手をするとともに妹から頼まれた伝言を伝える。
「美歌さん、うちの妹が『大好きです。いっつも応援してます!』と伝えてくれと」
「! あ、ありがとうございます!! あの、お礼を妹さんに伝えてもらえますか?」
「はい、もちろん。頑張ってください!」
そうして係員から引き剥がされる瞬間、美歌は有門だけに聴こえるようにそっと小声で言った。
「……あとで、楽屋に来てください」