──それは、中学校に入学してすぐのある晴れた日のこと。幼稚園のときからずっと続けてきたダンスと歌のレッスンの帰り道、ふと前方を歩く家族連れが気になった。
お母さんと思われる女性は、まだ生まれて半年といった赤ちゃんを胸に抱き、その横を赤い帽子を被った男の子が歩いていた。気になったのは、その男の子の方で、車が次々と通り過ぎているというのに、車道側に寄り、あちらこちらによそ見をしたり、ふらふらしながら歩いているのがちょっと怖かった。それもその手にはボールを持っている。
と、急に強風が吹いて男の子がよろけた拍子にボールが手からこぼれ落ちて車道に勢いよく飛んでいく。
危ない! と美歌は体を強張らせたが、飛ばされていったのはボールだけで、しかも運よく車をすり抜けて反対側の歩道へと到着していた。
だが、次の瞬間に美歌は走り出していた。ヒラヒラと風にもてあそばれて舞う赤い帽子の先に、車道に飛び込む男の子。女性の悲鳴が上がった。
目を開けると、真っ白な部屋に美歌は横になっていた。衝動的に起き上がろうとしたそのときだ。自分の脚が動かないことに初めて気がついたのは。
*
「あっ……」
スライムもそんな反応するのか、と美歌は内面少しうんざりしていた。脚が動かなくなってから、車椅子での生活が始まってから、家族や友人や密かに思いを寄せていた人までみんながみんな一様に「なんと言ったらいいのやら」という顔をする。
その最初の反応は仕方のないものかもしれないけど、自分自身がどうしようもないことで可哀想にというくくられ方をする度に、剥がれたばかりのかさぶたをちょんとつつかれるような感覚が走った。
「でも……そうか、だからあのとき……ってことは、珍しい……バード? いや、そう、まず……」
急に後ろを向いたかと思うと、ごにょごにょとひとり言を呟くスラッグ。丸みを帯びたその背中に、どうでもいいが気持ちよさそうという感想を美歌は抱いた。
(あれ、クッションにしたら熟睡できるかな?)
「わかった! 美歌さん、僕わかったよ!」
また急に振り返ると、スラッグは、裂けてしまうんじゃないかと思うほど、うれしそうに口を大きく開いた。
「な、何がわかったんですか?」
「ノープロブレム! 歩けなくても全然OKなんだ! 魔法スキルを中心に覚えていけばいいからね! それに、これあげる!」
言うなり、スラッグの口から何かが吐き出された。体積的にそんなものをどこに入れていたのか、さっきバラバラになったはずじゃと美歌は一瞬思ったが、そもそも突飛な場所にいることを思い出して構造とか仕組みとかについて考えるのはやめた。
「これ……」
それよりも、目の前に出されたそれは、美歌の所有しているタイプと同じようなチェック柄のオレンジの布が張られた車椅子だった。吐き出したにも関わらず粘液はどこにもついていない。
「これに乗れば僕と一緒に歩けるよね! 大丈夫! こう見えてダンジョンはバリアフリーなんだ! たぶん、そうに違いない!」
うん、テキトーだよね。そう心の中で突っ込む間にもスラッグはピョンピョン跳ねながら説明を続ける。
「いや~車椅子のギフテッドは初めてだなぁ。あっ、そうそう、ここではプレイヤーの連絡とか、重要事項のお知らせとかに情報端末を渡してるんだ。このダンジョンだけで使えるもので──ああ、ごめん、まず乗ってから話そう」
「あっ、はい」
美歌はスラッグをクッション代わりになんとか体を持ち上げて車椅子へと移動することに成功した。慣れた感覚に心が少しだけ落ち着く。
「よし、次にその情報端末を」
またもや口から出されたスマホに似た形状の手の平サイズの情報端末を手にする。つかむと、それは瞬時に小さめな美歌の手にも収まる大きさへ変化した。
「すごい!」
「でしょ。できる限り不便を感じさせないように配慮されているんだ。指紋認証したら、もうその端末──エレクトフォンって言うんだけど、エレクトフォンは君専用になるんだ」
「へ~ありがとう…………」
そこで美歌は自分がゲームに参加しそうになっていることに気が付いた。車椅子に乗れても、便利なスマホみたいなものがあったとしても、そもそもゲームに興味はないのだ。
「あの! それよりどうやって帰るんですか? さっきも言いましたけど、私、ゲームに参加するつもりは全くないんです」
こういう誘いにはキッパリと断ることが肝心。今までの経験上それはわかりきったことだった。だが、それは人間相手のこと。
スラッグは愉快そうな笑顔のまま、車椅子の後ろに回ると下から跳ねるようにして前方へと進ませる。
「えっ、あっ、ちょっと!」
「まあまあ。戻ろうと思えばいつでも戻れるし、1日の時間も限られてるからさ、初心者だと1日は体感的には1時間しかないから、すぐに終わっちゃうよ! 何事も体験、体験!」
「ほ、ほんとに1時間だけなんですか!?」
「うん! 僕はウソをつけないからね! 信じて!」
信じるという言葉をこんなにも軽々しく言われたのは初めてだった。それだけにそんなに身構えなくてもいいのかなと思ってしまう。──もちろん「浦高AFTERSCHOOL」は録画しているから、後で見ることだってできる……不本意だけど。
美歌は、その小さな胸の膨らみの下に手を当てると、大きく息を吐き出した。
「わかった。参加してみる。そのダンジョンっていうやつに」
「そうこなくっちゃ! じゃあ、まず、酒場に行ってプレイヤー登録しないとね!」
「さ、酒場? 私まだ未成年なんだけど!」
「そうやって呼んでるだけ! さ、入りまーす」
「えっ、ちょっ、待っ……」
赤い絨毯の上を滑るように加速していく車椅子の、その勢いに乗ったまま美歌は一番手前の鉄扉へと近付いていく。……ぶつかる、と思ったが扉は美歌を迎え入れるように左右に開いた。
するすると減速して止まった所はちょうどカウンターの真ん前。 英字で書かれたラベルの貼られた酒瓶が乱雑に並ぶ奥には、焦げた茶色の毛で覆われた巨大なぬいぐるみがあった。表面の毛は触れるとちょっと痛そうなごわごわしている毛。
ぴょんっと横の脚の長いイスに飛び乗ると、スラッグはそのぬいぐるみに向かって「マスター、新しいプレイヤーを連れてきたよ!」とはしゃいだ声を出した。
(え……マスター……?)
目の前で「おう」と低音のバスが聞こえたと思ったら、ぬいぐるみがゆっくりと振り返る。鋭い眼光が睨み付けるように美歌を見下ろした。
「え、あ、その……」
毛むくじゃらの中に三日月を横にしたような2つの細長い瞳が埋まっていた。高い鼻はピクピクと微かに動き、 自分の顔ごと持ってかれそうな大きな口の中には丹念に磨かれた鋭利な刃先のような白い歯が並んでいた。
「おーう、これはまた可愛いらしい嬢ちゃんじゃねえか。この前来たばかりの新人もかなりのべっぴんさんだったけど。ん? どうしたい? 俺の顔が怖いかい? 大丈夫、俺はウルフガイ! 悪いウェアウルフじゃねえぜ!」
ウルフガイはこれまた大きな手を前に出して何やらポーズを決めた。