「私、私何もできないんだよ!」
女は地面に放り出された自身の脚を思い切り叩いた。何度も何度も何度も。明らかに赤くなった肌は、しかし何の痛みも伝えてくれなかった。
今まさに目の前で友達が、突如現れた怪物に食べられそうになっている。それなのに体を動かすこともできなくて、ただ泣きわめくしかない。
ここがゲームの世界ならなんでもできるんじゃないのか。お金を出せば今すぐ足が動くスキルを身に付けさせてほしい。──そう願って無理矢理自身の脚を腕で引っ張って動かそうとしても、やはり動くことはなかった。「お金があればなんでもできる。ここはそう、マネーダンジョン」──あの言葉は嘘だった。
怪物の口があり得ないほど大きく開かれた。
「ダメ! やめて、お願い!」
そんな悲痛な叫びも空しく、言葉の通わない化物は口を開けたまま迫る。
「来ないで!」
化物の身体が完璧とも思える白く細長いその脚に触れる。
「やめてって!」
バキッバキッと関節が外れるような音を発てて、化物の口がなお大きく開かれる。
「お願いだから!!」
化物の暗闇のなかに、夢にまで出てきた天使のようなその顔が吸い込まれていく。
「ダメェェェェェェ!!!!」
そのとき。女が叫んだ拍子に地面へと転がった情報端末にメッセージが届いた。
『緊急スキル:クラスチェンジミニッツを発動しますか?』
*
赤色のノートパソコンに繋いだヘッドフォンから、大音量でアップテンポな音楽が流れていた。『サマーズショット』──夏に相応しい疾走感溢れる爽やかなナンバーをリピートしながら、
それはブログだった。現役女子大生でありながら、トップアイドルとしてドラマや映画、CM、雑誌に引っ張りだこで、テレビで見ない日はないという
「CM出演数1位」「女性芸能人好感度ランキング1位」「恋人にしたいランキング1位」「生まれ変わりたい顔1位」など、数々のランキングでトップに君臨する、まさにパーフェクトアイドル。
その金木瑠那が間もなく始まる「浦高AFTERSCHOOL」という深夜番組にゲスト出演すると言うことで、改めて瑠那の情報をチェックしようと、過去のブログをさかのぼっていたところだった。
瑠那のブログの特徴は、写真が非常に多いことだった。今の時代、より手軽なコミュニケーションが楽しめるSNSが主流ではあるがアイドルや芸能人のブログは本人の価値も相まっていまだに重要な情報源だった。
そのなかでも瑠那のブログは写真が中心で、写真の合間に短いコメントが入る形だ。それに写真は写真でも、自分の顔が写ったものは極端に少なく、たとえば道端で見つけた猫、車で移動中に見た海、共演者やマネージャーなど何気ない風景写真、スタッフの写真がほとんどで、「人柄がわかる」ブログだった。
何回見たかわからない、その一つ一つの写真をじっくりと眺めながら、美歌は改めて瑠那がこの時代に生まれてきてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいだった。
瑠那がいてくれたからこそ、さらに言えば瑠那を見出だし育ててくれた『浦高』があったからこそ、今、自分はこうして生きていられる。──本気でそう思っていた。
気がつけば美歌は、ヘッドフォンから流れる曲を自然と口ずさんでいた。
一度だけ、浦高のライブに行ったことがある。バリアフリーが行き届いた浦高の学内ライブの特別抽選に当たったからだ。
瑠那ら3年生の卒業ライブも兼ねたそのライブの最前列で、スポットライトとスモークに当てられた瑠那は、涙声で3年間の活動への思いと感謝の想いを伝え、最後にこう叫んだ。
「最後にみんなに言いたいのは、やっぱりこれです。『願えば夢は叶う!』」
それは浦高のキャッチフレーズだった。
今までもちろん知ってはいたが、気にもしていなかったその言葉が、卒業ライブのそのとき、強烈に胸に突き刺さった。
と、同時に涙が止まらなかった。会場から大歓声が送られるなか、美歌は一人ただ手の平で落ちてくるものを抑えながら泣きじゃくった。
悲しかったのではない、寂しかったのでもない、心の内から沸き上がり突き動かすひたすら前向きな情動が次から次へと涙を形成していた。
真っ暗な部屋にアラームが鳴り響いた。番組を見逃さないよう念のためにセットしていたアラームだ。
ヘッドフォンを外してメロディアスなその曲を止めると、急いで枕元に置いたリモコンでテレビの電源をつける。
ちょうどオープニングが始まるところだった。いつもの短い映像が流れて、司会のお笑い芸人二人があいさつし、かわいくポーズを決めた浦高メンバーが紹介されていく。
「浦高AFTERSCHOOL」は、深夜23時45分から放送される30分の番組だ。浦高の番組だが、浦高の人気とともに視聴率が上がり、自然体のメンバーたちの姿や体当たりでぶつかる企画も好評で、ファンの枠を超えて人気番組となっていた。
今日の企画は『浦高卒業生に聞いてみよう!』と、シンプルな内容だった。
何人かの浦高卒業生で芸能活動を続けている先輩方がゲスト席に座っており、その中にキレイとカワイイを合わせた笑顔をカメラに向ける金木瑠那の姿があった。
腰までの長い波打つような金髪を今日は毛先をゆるくカールさせている。
ファンの人なら当然知っているのだが、浦高はどんどん新規勢を取り込んでいるグループのため、司会から改めて自己紹介を促される。
過去と現在の映像とともに、それぞれ恥ずかしながら当時のキャッチフレーズも披露しながら、自己紹介をしていく。やはり、人気のせいか、瑠那が一番最後のようだ。
瑠那のファンでもあると同時に、浦高の大ファンでもある美歌はそれぞれのゲストの映像を懐かしんだり、挟まれるトークにうなずきながら、瑠那の番を待っていた。
いよいよ瑠那の顔がアップで映される。椅子からゆっくりと立ち上がった瑠那がこちらを見つめて口を開く──そこでCMに入ってしまった。
テレビとはよく人の心理を突いている。美歌は、ベッドサイドのテーブルに置いたパソコンに目を向けながらそう思った。きっと大勢の瑠那ファンが心の中で舌打ちをしたことだろう。
「バイト探しはバイタール」「リュディアなら一分から仮想通貨」「すべての若者を応援」──たった一分ほどの短いCMと言えども見たい番組が待っていれば、その何倍も何十倍も体感時間は長くなる。
CMを聞き流しながらブログを読むと、すぐに一画面分を読み終えてしまった。スクロールするためにマウスを触る。……が、画面が動かない。
「あ、あれ?」
何度かマウスを動かすものの画面は変わらなかった。マウスが壊れたかとタッチパネルで操作に切り替えるものの、同じことだった。
(パソコン壊れちゃったのかな? まだ買ってからそんなに時間が経っていないのに……)
しかしそこでもっと大きな異変に気がつき、美歌の背に悪寒が走った。
テレビの画面が一切動いていない。ヘッドフォンからも音楽が聞こえてこない。それに、いくら深夜だといってもあまりにも静かすぎる。まるで、空間丸ごとミュートにしたみたいに。
突然、大音量が鳴り響いた。反射的に両手で耳をふさいだ美歌は、それが自分の後ろから鳴っていることに気づいた。そちらの方向を見ると、スマホが振動し、眩いほどの光を発している。
美歌は、恐る恐る上半身をひねりながらスマホを手にした。その画面には無機質なゴシック体のアルファベットが並ぶ。
『Welcome to money dungeon!!』
それを読み終えたとき、白い光が部屋中に広がっていく。
「な、なに!?」
部屋のあちこちに亀裂が入る。それはまるで電波障害が起こったテレビ画面のノイズのように。そして、白で統一された壁は茶色い壁に、瑠那のポスターは獅子が描かれた旗に──そのほか6畳ほどの空間を構成していた全ての物が超高速でまさに見る見るうちに別の何かに置き換わっていく。
スマホの光が消えた。全てが終わったとき、脚を伸ばしたまま唖然と口を開けるしかなかった美歌の目の前には、ヨーロッパの宮殿のようなレッドカーペットが敷かれた大広間が広がっていた。