「エラさん!? どうしたんだ!」
全く違う生物のようになってしまったエラさん。俺は叫んで、エラさんに声をかけるが――そんなことは無駄だというように、エラさんだった何かは大きく姿勢を下げた。
頭部にも出現した一角を、俺に向けて――加速。
何をしようとしているのか理解した俺は、思わず横に飛び退いた。瞬間、何かが通り過ぎていった。直後にドン、という音が聞こえる。壁が割り砕かれ、さっきまで穏やかに話していたテーブルとイスは粉々に破壊されていた。
正気を失ったエラさんは、ぐるりと首だけを回転させて俺を見据える。「……」その挙動は、正直に言うなら化け物じみていて……もう既に俺の知るエラさんではないということを告げているようだった。
そのまま、首の回転に合わせるように身体が動き俺の方へと向き直る。
どくん、どくん、と心臓の鼓動が早くなっていることが理解できた。逃げろ、と全身が警報を鳴らしている。でも、逃げることはできない。
彼女をこのまま放置することなんてできなかったし、何より俺はそこまで冷静じゃなかった。散らかったキャンパスみたく、色々な思考がドバドバと流れ込んで混ざり合って、ただただ混沌とするだけ。
妙にゴテゴテとしてしまった腕を地面に突き刺したかと思えば――両腕を一気に引き上げる。地響きと共に床がめくりあがって壁のように俺の視界を覆った。「不味い――」そう思った時には時既に遅し。
ドン――という衝撃が身体に走った。
思いっきり吹き飛ばされる俺、視界がメチャクチャに揺れ動いて、前後不覚に陥ってしまう。身体中の至るところに衝撃が走り、何が起きたか理解できない。
分かるのは、視界を封じられたことを良いことにぶちかましを喰らってしまったことだ。
「ぐはっ!」
壁を一枚ぶち破って、俺は廊下の壁に叩きつけられる。
モヒカンの攻撃とは比較にならない一撃だ。俺の身体にも明確な痛みが走った。エラさんのステータスはオールE。俺のBと比べると何段も離れていたはず。
巻き上がる粉塵の中から現れる彼女に視線を合わせて、俺は魔眼に意識を集中させた。
【ステータス】
・筋力:B
・耐久:C
・敏捷:B
・魔力:D
・技量:E
・幸運:E
凄まじい程にステータスが向上している。俺は何とか立ち上がって姿勢を正す。「エラさん、正気に戻ってくれ!」と、声はかけるが届いているとは思えなかった。
唸り声と共に、迫る彼女。
そのまま、俺は身体を掴まれ壁へと叩きつけられる。みしみし、衝撃と共に骨が軋む音が耳を打った。
「ぐ、うぅ!」
苦しい。
圧力が胸にかかって、息がどんどんとできなくなっていく。酸素が失われていくからだろうか、視界が揺らいでいく。
「え、エラさん……約束したじゃないか、やりたいことが……できる、ようにって!」
「……」
必死に語りかける。
でも、俺の言葉は何の意味もなさない。その代わりというように、俺の身体に掛けられた圧力だけが強まるばかりだ。このまま行けば、俺は彼女に殺されてしまうのだろう。
それでも、良いような気がした。
彼女を傷つけてまで、俺は生きたいと思わない。だったら、ここで殺される方がいくらかマシだ。
「大魔王様! 何をしてるんだ!」
薄れ行く意識の中で、そんな声が俺の脳内に響いた。
すっと、さっきまで苦しかった息が楽になる。重力に従って、地面に落ちる俺。霞んだ視界に映るのは召使いと、彼女を狙って飛翔するエラさんの後ろ姿だった。
このままだと――召使いが攻撃される。
事実を認識した途端、俺の身体は動いていた。もう、動かない。動けないと思っていた足が、嘘みたく軽くなって駆け出す。そして、俺は召使いへ飛びかかろうとするエラさんの横腹を蹴り抜いた。
こんな動き、自分でも出来るとは思わなかった。
でも実際に動けた、動けてしまった。
サッカーボールみたいに飛んで行ったエラさん。吹き飛んだ先は、ついさっきまで過ごしていた寝室だ。「大丈夫か、召使い!」「ああ、もちろん。でも、エラがB.U.Gになるとは」
召使いが、何やら訳知り顔で聞いたことのない名称を出す。
バグ、彼女は確かにそういった。
「B.U.Gだって? エラさんの身に何が起こったんだ!」
「彼女の身体が変異をするのは見ただろう。それがB.U.Gだ。50年前、この世界を突如として終わらせた要因の一つさ!」
「何だって!?」
召使いの言葉は理解できなかった。より正確には、彼女の言葉のそれぞれは理解できる。でも、それが意味するところを理解したくなかった。この世界が終わった? それも50年前に!?
そんなの理解できるわけがない。
「理解しがたいのは分かる。でも、これは事実だ。この世界は終末だ。それも最悪のね! そして、その最悪な世界をさらに最悪にしてるのが――今まさにエラを蝕んだB.U.Gさ!」
その言葉と共に、寝室からエラさんが復帰。ダメージなんて微塵も感じさせない身のこなしで、再び俺たちの前に立ちはだかった。「彼女を蝕んだのはビートルタイプか」
召使いはいつもの調子を崩さずに冷静に分析した。
意味が分からない。でも、召使いがB.U.Gとやらに詳しいのなら――!
「彼女を戻すにはどうしたらいい?」
「大魔王様、それは」
「あるんだろ? 戻す方法が」
迫るエラさんの攻撃をどうにか受け止めて、俺は召使いを問いただした。「いや」いやだって?
何を言おうとしているんだ、召使いは「戻す方法は……」方法は、あるんだろう?
「今のところ、ない。正気を失うまでに浸蝕された彼女を助けるなら――殺して楽にするしかない」
「……嘘だろ?」
「大魔王様に嘘は吐かないさ」
身体から力が抜ける。
その隙を突くように、エラさんの振り払いが脇腹を穿つ。痛い、いたい。でも、今はそんな痛みなんてどうでもよかった。吹き飛ぶ身体、思考も吹き飛んでしまうような、衝撃が走った。
方法が、ない。
そんなの、あんまりだ。
「大魔王様! ショックなのは分かるけど、今は――いや、仕方ないか。私がお相手しよう。行儀の悪い客人にはお帰り頂くのも召使いの役割だからね」
俺の前に立った召使いが、シルクハットを押さえてそう言った。
彼女の周囲に魔力が迸る。
でも「召使い」俺は彼女を制止して、立ち上がった。
「俺が」
一歩前に出て、俺は深呼吸。「俺が……」
二歩、歩んで続く言葉をひねり出そうとする。「俺が…………」
三歩――召使いの前に立って、俺はエラさんを……エラさんだったものを見据えた。
「俺が、蹴りをつける。つけたいんだ。いいか?」
「――大魔王様の意思決定であれば、それを尊重しない理由がない」
召使いはくるりと杖を回転させた。
俺は彼女の返答を受けて、真っ直ぐとB.U.Gを見据えた。拳を握りしめて、ふぅー、と息を整える。
「ギギャアア!」
言葉にも鳴らない雄叫びと共に、加速する。
合わせて、俺も両足に力を込めて加速した。拳に思いっきり力を込めて――ぶちかましに対して、渾身の打撃で対抗。衝撃が、右手に伝わる。
「あああ!」
両足で地面を踏みしめて、俺は叫んだ。
そのまま、振り抜いてB.U.Gを吹き飛ばす。ごろん、ごろんと廊下を転がっていくB.U.G。しかし、四肢を使って自身を制動。キキーッと、ブレーキさながらの音を響かせた。
どん、どん、どん。
一歩踏み出す度に相手の速度は跳ね上がっていく。
俺は全神経を尖らせた。
相手が間合いに入る、その瞬間に合わせて。
待つこと一秒。
B.U.Gが、俺の間合いに入った。「今だぁっ!」両手で一角を掴む。ズズズッ! 突進が止まらず、そのまま身体が奥へ奥へと運ばれていく。
でも、それがどうした!
俺は両足に力を込める。完全に停止する必要はない。ちょっとでも、引っかかればいい。落ちる速度。
角に力がかかる。俺を、押し込もうと全身の力を入れているのだろう。
「ふき、とべぇ!!!」
俺は両手で握った角を一本釣りするような形で身体を下から上へと振り払った。相手の押し込む力を利用する形で、放り投げる――だけではない。手を離さずに、俺が狙うのは地面への激突。
「はぁああ!」
ぐしゃり。
俺の狙い通り、B.U.Gは思いっきり地面に激突した。
角から手を離せば、ばたりと、そのまま地面に伏す。「はぁ……はぁ……!」俺は膝に手をついて、息を吸い込んだ。
視界が涙で滲む。
「大魔王様! トドメを!」
「トドメだって?」
「B.U.Gの回復力を舐めちゃいけない。彼女はまだ生きているんだ!」
「……」
俺は息を吸い込んで、B.U.Gを見た。
確かに死んではいない。致命傷になったはずなのに、それでも回復するだって?
でも、トドメを刺すって……どうやって。「大魔王様、これを」そんな俺の疑問に答えるように、俺に持っていた杖を投げ渡す召使い。
彼女のジェスチャーに合わせて、杖を引き抜けば――刀身が露出。「それで、首を切り落とすんだ」
「……」
俺は思わず、吐きそうになった。
何を言っているのか、分かるのか。「迷う必要はない。自我を失ったB.U.Gになった時点で、エラは死んでいるんだから。大魔王様が殺すわけじゃない」なんて召使いは言う。
理屈としてはそうかもしれない。
でも、見た目はエラさんのままなんだぞ!
「ずっとB.U.Gとして彷徨い生きる方がエラにとっても辛い。大魔王様ができないなら、私がしよう」
シルクハットを押さえる彼女の表情は、分からない。
――彼女に任せたい。
でも、それはダメなような気がした。彼女を、エラさんをここまで連れてきたのは俺なんだ。彼女がこうなったのも、俺に責任がある。
だから、せめて――自分のしたことに責任は持ちたかった。
俺は倒れ込んだB.U.Gを見据えた。
変わり果てた風貌のB.U.G……エラさんに向かって、俺は剣の切っ先を合わせた。振り上げる。
剣の切っ先がガクガクと揺れ動いた。
呼吸が荒くなる。
「ああ、うあああ!」
俺は力一杯叫んで――握りしめた剣を、振り下ろした。
ざくり。
あの時の感触を、多分……俺は一生忘れることはない。
◆
「大魔王様、そろそろ朝食を食べられてはどうだろうか?」
「なぁ、召使い」
魔王城の執務室。
俺のために与えられた部屋、魔王の玉座に座って、俺は天井を見つめたまま側にいる召使いに問いかけた。「どうかしたのかな?」
あんなことが合ったというのに、召使いの調子は全く変わらなかった。
「平気そうだな、お前は」
「そうだね。エラは私にとってそう重要な存在でもなかったから」
「お前……!」
その言葉に俺は視線を召使いに移した。「――というのもあるけれど、本質的にはあんなの今の世界じゃ珍しいことじゃないんだ」俺の怒りを受け流して、淡々と続けた。
「大魔王様、改めて現況を説明させて欲しい」
「……」
そんな言葉、聞く力もなかった。
俺は俺の手でエラさんを殺した。こんな俺が生きるために、あの人を手に掛けた。その事実が許しがたい。
「大魔王様が一度死んでからすぐに、終末が訪れた」
俺の都合なんて知ったこっちゃないと言わんばかりに召使いは言葉を重ねる。「突然、多くの生物がB.U.Gに侵された。魔物も、人も、動物も、植物も見境なくB.U.Gは広がった」
現況の説明とやらは、続けられた。
「この終末に対して、人々は余りにも無力だった。ガレア王国の有力者たちは一部聖騎士たちと共に空へと逃げた。あるいは、レイヴンポートを仕切るレイヴン家は先進技術を利用して地下にシェルターを作って、30年を地中でぬくぬくと過ごした」
彼女の口から語られるのは、俺が知るはずもないエターナル・ライフの姿だった。
「殆どの都市が機能不全に陥って、多くの人が犠牲になった。かつてガレア王国が信奉していた法だとか、秩序だとかは全部破壊されてしまった」
召使いが俺の前に立って、俺の顔を覗き込んだ。
「エラの身に起きたことは、彼女が特別だから起きたわけじゃない。大魔王様、私は大魔王様と共に、この終わってしまった世界をどうにかしたいんだ」
俺の肩を掴んで、召使いがいった。
大魔王が死んでから……50年?
その言葉が、俺の中で何度も何度も反すうされた。
「もう二度と、エラの身に起きたような悲劇を起こさないためにも!」
召使いの言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。終末、B.U.G、変異。
……まさか。
まさか、まさか、まさか!
俺は召使いの肩を掴み返した。「大魔王を倒した勇者の名前は!」俺は尋ねた。「今じゃ、その名を呼ぶ人も少ないけれど、私は覚えているよ。勇者レオ」今、初めて俺の知っているネームドキャラの名前があった。
ああ、そうだ。そのまさかなんだ。
そうだ、そうだった。エターナル・ライフの世界での一日は現実世界の144分ほどに相当する。もし、そのまま時が進んでいたのなら?
サ終した5年間も――エターナル・ライフの世界があったなら?
ここはエターナル・ライフの今の姿なんだ。俺たちが離れざるを得なかった、大魔王を倒してハッピーエンドで終わった。その後の姿。
「なぁ、召使い。B.U.Gを、どうにかできるのか?」
「誰も、それを成そうとしなかった。自分たちが生き残ることに必死でね。だから、試して見る価値はある」
「……」
エラさんの身に起きたような悲劇を、もう二度と起こしたくはない。
それに、俺が大好きだったエターナル・ライフの世界が意味の分からない変異と身内揉めで終末世界になったなんてことも……許せなかった。
何より、どうして俺がこの世界に来たのか。そして、どうすれば元の日本に帰られるのか。それだって、まだ分からなかった。「分かった」何より、俺が何もしなければ……エラさんは報われない。
彼女を殺してしまった俺。
生きる理由は見当たらないけど、死ぬべきではない理由が……また増えてしまった。
「俺に何ができるかは分からない。でも、俺の好きだったエターナル・ライフを、取り戻したい。もう、誰もエラさんみたいにならないような世界に」
「大魔王様ならできるとも。そのために、私も全力で支えるんだから!」
両手を広げて、召使いは高らかに宣言する。「始めよう、この終末が普通となってしまった世界をひっくり返す大事業を!」
意気揚々と、言葉を話して――召使いは力強く俺を見据えた。
「さぁ、終末事変の始まりだ!」
召使いによって、俺たちの作戦名が決まった。
――終末事変。
召使いはそう呼ぶけれど、俺は別の呼び名で始めようと思う。
玉座から立ち上がって、俺は胸に手を当てた。
エラさんが、そうしていたように。
サ終によって、引き起こされたゲーム世界の終末。これは俺たちがそれを解決するまでの作戦だ。
だから、俺はこの作戦をこう呼ぶ。
サ終末事変と。
【序章:大魔王、君臨す――了】