三宅佳子の恋人、大田啓介は一言で言えば心配性だった。
まあ佳子もそんな啓介のあれやこれやに愛情を感じ、20歳にもなったのに啓介の前では精神年齢が低くなる。
――佳子、ほら、お腹冷やしちゃうよ
佳子が布団をはだけて寝ていると、啓介は必ず佳子のお腹に布団をかけた。
――ほら、お水。お風呂上りだしちゃんと飲んでね
2人でホテルに泊まった時、佳子が風呂からあがると啓介は水を用意して待っていた。
甘やかすだけではなく、厳しい面もあった。
佳子が飲み会で帰りが遅くなり、終電を逃した事がある。その日の夜は冷たい雨が降っており、しかし酔いの中にあった佳子が笑い話として今の状況を伝えると、啓介は夜道は危ないから迎えに行く、といいだしたのだ。
だが佳子は“悪いから”とそれを断わった。
それは気遣いが迷惑だから、というわけではなく、本当に悪いからと思って言った事だ。
それを聞いた啓介は珍しく機嫌を悪くし、その口調が刺々しくなった。
「悪いから、じゃないよ。雨だって凄く冷たいし、傘だって持ってないじゃないか。傘なんてコンビニで買えばいいのかもしれないけど、その間に濡れちゃったらそれが風邪に繋がるかもしれないじゃないか」
普段は怒らない啓介であったが、この時はかなり機嫌が悪く、佳子は慌てて謝りながら啓介の迎えを待つ事にした…そんな事もあった。
啓介は佳子が自分の体を労わらないような真似をする事に対して、ことさらに機嫌を悪くする青年だった。
特に佳子はバイクが好きで、これが啓介の神経をガリガリと掻き毟った事は想像するに難くない。
佳子がツーリングにいくという日など、いまでこそ少し心配そうにするに留まってはいるが、付き合いたての頃などはまるで今生の別れのような形相を浮かべていたものだった。
確かに色々と干渉はある。
世話焼きが過ぎると感じる事もある。
しかし佳子はそんな啓介の振る舞いが佳子への愛情から発露するものだと理解していたし、自身もまた啓介を愛した。
2人とも“まだ”口には出してはいないものの、この人と結婚するのだろうな、とそう思っていたのだ。
◆
啓介が事故で死んだ、と言う報せを警察から聞いた時、佳子は軽く小首をかしげただけだった。
啓介は横断歩道を渡っている時、赤信号を無視してきた車に突っ込まれて即死した。
啓介のスマートフォンは完全に壊れてしまったが、鞄にはいっていた手帳に佳子の連絡先が記載されていた。
文字の羅列が言葉となり、文章へ変じ、そこに含まれる意味を佳子が理解するには数分を要した。
人間は余りにも信じがたい事態に対した時、一時的に言語能力を失調するのだ。
はっ、はっ、はっ、と。
佳子は自身が呼吸できなくなっている事に気付いた。
いや、呼吸は出来ている。
何度も何度も息を激しく吸って吐く事により、血中の炭酸ガス濃度が低下したのだ。
血中の炭酸ガス濃度が低下すると、当然ながら血液がアルカリ性に偏る。
そうなると身体に様々な不調が顕れるが、佳子の脳中枢はそれに対応すべく炭酸ガスを抑制…つまり呼吸を抑制しようとする。
要するに過呼吸だった。
警察からの報せを聞いたのは職場の休憩室だったが、突然蹲り息苦しそうに喘いでいる佳子をみて、彼女の同僚はあわてて管理職を呼び、そしてその管理職が救急車を呼ぶに至った。
――このまま、死にたい
佳子は苦悶に煙る思考の中でそんな事を思った。
これが夢でも何でもない事は、佳子が今感じている苦しみが証明している。
しかし、佳子は呼吸困難による苦しみで死にたいわけではなく、恋人を喪った悲しみで死にたいのだ。
とはいえ過呼吸で死亡する事は稀といっていい。
佳子は願い虚しく死ぬ事はできなかった。
朧気な意識の中、啓介との出会いの思い出が浮かんでは消えて行く。
佳子は思い出と共に自分自身も消してしまいたかった。
◆
2人の出会いは都内にあるK大学の『キリトリ』と言う名の写真サークルだった。
佳子はバイクが好きだったのでツーリングのサークルとどちらにしようか悩んだのだが、結局写真サークルを選んだ。
佳子は写真が好きなのだ。
擬似的にでも現実を切り取れるカメラという代物で、好きだとおもったもの、綺麗だとおもったもの、そういうものを沢山撮影して集めたい…佳子はそう思っていた。
なぜなら不幸というものはいつだって突然に訪れるからだ。そう、突然なのだ。
不幸というものは対処、対策する余裕など与えてくれない。
佳子がまだ幼かった時分、病気と事故で父親と母親を立て続けに亡くし、児相を経て児童擁護施設へ入所した事がそれを証明している…と、佳子自身は思っている。
であるなら、好きなモノ、綺麗なモノを集めていつか突然訪れるだろう不幸に備えなければ。
写真サークルに入った佳子はいっそ強迫的とも言える思いで撮影に励んだ。
バイクという趣味もカメラとの相性が良く、佳子の画像データの容量はもりもりと膨れ上がっていった。
この時まだ啓介は同じサークルの生徒という存在でしかなかった。
2人が互いに互いの存在をしっかりと視界に入れる切っ掛けとなったのは、ある時行われたサークルでの飲み会だった。
それはサークルメンバーの写真が小さいコンテストで賞をとった事を祝うための飲み会で、その頃には佳子もサークルメンバーの面々に相応の仲間意識を抱いていたために、メンバーの受賞が自分の事のように嬉しく思い…結句、自身のアルコール許容量を超えての飲酒に至り……
◆
佳子の喉の奥から生暖かく、生臭い液体が大量にこみ上げてきたときは既に遅かった。
聞くに堪えない汚声と共に、佳子はその液体を盛大に隣に座っていた青年の膝にぶちまけてしまった。
悲鳴、絶叫、狼狽、心配…そんな声が四方から同時にあがり、ゲロシャワーを膝に浴びた青年はどこかしょぼくれた様子で佳子の口回りをお絞りで拭きとり、水を飲ませ、他の女子にトイレに連れて行くよう頼んだ。
そして自分はといえば無残な姿となったパンツを見ながら、それでも無駄な抵抗をしようとゲロを拭取っていく。
トイレに連行されていく佳子は、やらかしてしまったという悔恨の念と酔いでグチャグチャになった脳みそのままに青年…啓介を見た。
申し訳ないという気持ちもあったが、なにより激怒していないか心配だったからだ。
だがその心配は杞憂だった。
啓介は心配そうな様子で佳子を見つめているだけだった。
そのまなざしは佳子に既にこの世にいない在りし日の父親の事を想わせるものだった。
◆
翌日からの佳子の啓介に対しての謝罪攻勢は熾烈を極めた。
隙あれば謝罪し、隙がなくとも謝罪をする。
謝罪こそが三宅佳子の代名詞であった。
そして、クリーニング代の相場の三倍にもなる額の金銭をところかまわず渡そうとしたところで啓介は陥落し、佳子に対して条件をつけて謝罪を受け入れる事を伝えたのだ。
別に条件などなくてもいいし、先日はごめんねの一言で啓介としては構わなかったのだが、それじゃあ気が済まないと佳子が粘った結果である。
もとより同じ趣味を持つ者同士で、啓介という人間の人格は佳子も“やらかし”の後日に友人達から聞いていた。
少しも怒らず、むしろ佳子の事を心配する様子は女子達から好評だったようだ。
そういう事情もあり2人の距離は加速度的に縮まっていった。
◆
2人が友人関係から逸脱した関係となって、暫く後、2人は繋がっていない部分を繋げる意思を固めた。
既に心は繋がっている。
であるならば後は…。
だが、ここでまた佳子はやらかした。
それは彼女に経験が無かったからなのか、それとも思いの深さが口を滑らせたのか、あるいはその両方か。
「せ、責任とってくださいね!」
責任。
その言葉が持つ意味、そして重大性は場面ごとで変わってくるが、少なくともこの場においてのその言葉が含有する重大性は尋常なものではない。
「……取ります」
だが啓介は怯まずに責任を取る、と宣言した。
そして2人は名実共に繋がる事になる。
後日、佳子の家庭環境を知った啓介は、佳子を抱き締めて“これからは何があっても僕が佳子を守るからね”と囁いた。
◆
――約束、守ってくれなかったね
過呼吸による呼吸困難から復帰し、佳子が一番に思った事はそれであった。
啓介は責任を取らなかった。
取れなくなってしまった。
佳子の事を守れなくなってしまった。
佳子は覗き込んでいた。
深い深い、諦念の海を。
そして思いを馳せる。
これから先の人生、一体自分は何を喪うのだろう、と。
親はいない。喪った。
愛する恋人はいない。喪った。
友人か?
五体の自由か?
あるいは自身の命か?
佳子はもはや残りの何を喪っても構わなかった。
啓介と2人で取った写真を除いては、だが。
後追いで自殺をする事はしたくなかった。
なぜなら、自殺をしたら地獄に落ちる、と何かの本…もしくは番組かなにかで見たからだ。
――啓介は凄くいい人だった。優しい人だった。自殺したら彼に逢えなくなっちゃうかもしれないから
◆
それからの佳子は惰性と自棄を燃料に、命よ早く燃え尽きろといわんばかりに日々の生活を暮らしていた。
呼吸して心臓が動いている事を“生きている”と言うのかどうか。佳子を見れば理解出来る事だった。
酒を痛飲し、バイクを飛ばし。
大学は行ったりいかなかったり。
バイトも行かなくなって蓄えは瞬く間に消えていった。
最初は彼女に同情してなにかと支えてくれていた友人達も、既に彼女から離れて久しい。
家賃の滞納は2ヶ月に及び、管理会社からはあと1ヶ月滞納したら出て行ってもらうと通達されている。
――バイク、売ればもう少しもつかな
佳子はなにか靄が掛かったような頭でそう考えた。
佳子とて家から追い出されたいわけではない。
ただ、自暴自棄というか、行動する気力、生きる気力が絶望的にないのだ。
これは重篤な鬱の症状だが、それすらも佳子にとってはどうでもよかった。
食料はなぜか宅配で届いたりしていたが、それもいつまでも続くものではあるまい。
どの道金銭を必要とする場面は来る。
バイクを手放すのは遅かれ早かれの話だった。
だがどうせ手放すなら、と最後にバイクを走らせる事にした。ただの気まぐれだ。
ちらりと棚においてある真新しいヘルメットを見遣る。
それは啓介用に、と買ったものだった。
啓介はバイクを怖がり、結局後ろに乗ってはくれなかったが。
佳子はヘルメットに向けて透き通った笑みを投げかける。
表情では笑って心では泣く、この時の佳子以上にそんな笑みを浮かべる事が上手な者はどこにもいないだろう。
◆
佳子は“まだ幸せだった時”よくつかっていたツーリングコースを選んだ。
首都高速1号羽田線を経て芝浦ジャンクション、そして台場方面へ。佳子は制限速度超過でぶっ飛ばした。
速度を出せば出すほどに、随分と先にいってしまった啓介の背中が見えるかもしれない…そんな荒唐無稽な考えに、その時の佳子は全身全霊を委ねていた。
どこまでが夢で、どこからが現なのか。
ここ最近ではそんな境界すらともすれば曖昧となる佳子がそんな運転をすれば末路は知れている。
天王洲Sカーブはただでさえ事故多発地帯である。
そこで命を落としたライダーは1人や2人ではない。
充分にスピードが乗った佳子の愛車は曲がりきるための臨界点をとうに過ぎており、側壁がみるみると佳子の視界に広がっていった。
佳子の口元には淡い笑みが浮かんでいる。
◆
死のうとしたわけじゃない
ただ、少し運転を誤っただけ
だから自殺じゃない
だから啓介に逢わせてください、神様
――佳子、ほら、怪我をしちゃうよ
死に瀕した事で凝縮した時の中、佳子の耳に心の底から聞きたかった声。
あっと佳子が声をあげ、そしてどこか遠い衝突音。
暖かい何か…佳子の記憶にある啓介の腕の温かさが体を包み込んだ。
暗転していく意識。
佳子は“あの声”がもう一度聞きたくて暗転に抗おうとしたが、目元を優しく撫でる感触がして…そのまま意識を失った。
佳子はその感触を知っている。
お泊りデートの時、いつまでたっても寝ようとしない佳子を──
――そろそろ寝ないと。明日に響いちゃうよ、おやすみ……
そう言って目元にあてがわれた啓介の掌の感触。
◆
佳子が目を覚ましたとき、そこは知らない天井だった。
周囲には人影。
「おい!目が覚めたか!?」
サークルの部長である岩倉隆史の声だ。
「よかったぁ…」
「怪我はないけれど、意識が戻らないってきいて、わ、わ、私…」
そこには自分から離れていったはずの友人達がいた。
離れていったというのは佳子の勘違いだったのだ。
正常な思考力を失っていた当時の佳子は、周囲の者達に酷く攻撃的になっており、理由も知っているサークルメンバー達は少し離れた所から彼女を見守っていたのだ。
これは言葉だけの意味ではなく、実際に生活の支援までもをしていた。でなければバイトをやめた収入源0の小娘がいつまでも食いつないでいけるはずがなかった。
貯金があったといってもタカが知れている。
彼女に食料を手配していたのはサークルメンバーだったのだ。
あの時、死に瀕した時に聞こえてきた声。
そして自身を抱き締めた腕の感触、その温もり。
それらが佳子に明瞭な意識、思考力を取り戻した。
「……ごめんなさい、私……」
項垂れる佳子に友人らは笑みを投げかける。
「いいのいいの!」
「バイクはもうグチャグチャみたいだけど…よっちゃんが無傷で本当によかったよう…」
そう、佳子は無傷だった。
怪我1つ負っていない。
運が良かったのだ。
世界中を探せばそういう話は山ほどある。
だが、佳子は自分が運により助かったわけではない事を知っている。
“これからは何があっても僕が佳子を守るからね”
あの時、啓介が佳子に誓った約束が頭を過ぎった。
同時にぽろり、ぽろり、と涙が零れる。
「ちょっと!どうしたの?どこか痛むの?お、お医者さん!!ナースコール!!早く押して!!」
友人の一人が大慌てで医者を呼ぼうとするのを制止し、佳子はこれからの事を考えた。
――ちゃんと、しなきゃなぁ。啓介は“約束”を守ってくれた。だったら私も自分をもっと大切にしないといけない、よね
一先ずは滞納した家賃の支払い、そして不義理をしたバイト先への謝罪、あとは…
重なる問題を数え、項垂れ、しかし自業自得だと顔をあげる。
まあこの辺の金銭的問題は、後日訪れた啓介の両親からの支援などもありすっかり片付くのだがそれはまた別の話だ。
――私、もう少しこっちで頑張るね。約束を守ってくれてありがとう…責任は、私がいつかそっちに行った時にお願いします
佳子が心にそんな事を思い浮かべたとき、病室の窓からひゅるりと暖かい春風が入りこみ、佳子の頬を撫でた。
そのどこか覚えのある温もりに、佳子は再び俯いた。
涙を見せて友人達が心配させないように、と。