◆
浜田涼子は都内在住のアラサーOLだ。
彼氏はおらず、もちろん不倫もしていない。
好きな食べ物はエイトイレブンで売っている330円のバニラブリュレ。
そんな彼女が住んでいるのは古い15階建てのマンションなのだが、これが本当に何の変哲もない、ただのオンボロマンションだ。
例えば隣の住人が謎めいた美男子だとか、マンション内でちょっとした事件が起きたりだとかそんなことはなく、本当に何の面白みもないただのオンボロマンションに過ぎなかった。
少なくともこれまでは。
しかしその日は違ったのだ。
・
・
・
その日の前夜、涼子は奇妙な夢を見た。
帰り道、夜も更けている。
涼子は一人、重い足取りで自宅マンションへ向かって歩いていた。
これはいつもの光景だ。
仕事が遅くなり終電を逃してしまった時、涼子は大抵タクシーで帰るのだが、家の近くに直接送ってもらうのではなく、最寄りのコンビニまで送ってもらうことにしている。
寝る前のささやかな一杯とちょっとした夜食のために。
その帰りなのだろう、夢の中の涼子は手にコンビニの袋を持っていた。
やがてマンションが見えてくる。
夜の闇に妙に溶け込んだ黒々としたマンションは、どこか威圧的に見えた。
エントランスをくぐりエレベーターのボタンを押す。
12階だ。
しかしボタンが点灯しない。
涼子は苛立った様子で何度も何度もボタンを押す。
それでも点灯しないので、大きくため息をついて13階を押した。13階まで行って、そこから階段で12階で降りるつもりだった。
今度は点灯した。
しかし色がおかしい。
薄いオレンジ色ではなく赤い色なのだ。
故障しているのかなと思いつつ、涼子は首をかしげエレベーターの壁に背を預ける。上昇の際にかかるGも辛いほどに疲れていた。
エレベーターは2階、3階、4階……と上昇していき、やがて12階を通り過ぎ13階へ到着した。
エレベーターを出ると涼子は思わず両腕をさする。
寒かったのだ。季節は7月も半ばで夜でも気温は30度手前の熱帯夜となっている。風は少し出ているが、そんなものは焼け石に水で、ただつったっているだけでじんわりと汗が滲んでくるようなそんな夜だった。
──でも寒い
深夜になって急に気温が低下したのだろうか。いやいやそんなことはないだろうと思いながら涼子は下り階段へと向かった。
階段の電灯は不規則に明滅しており、涼子は来年には引っ越したいななどとつぶやきながら自室である1205号へと向かう。
すぐに何かがおかしいことに気づいた。
一目瞭然だ、自室以外の全てのドアが半開きとなっている。
いくつかのドアは開いたり閉まったりしており、それを見た涼子の腕にぶわりと鳥肌が立った。
ドアが開き、そして閉じる。
この一連の挙動がまるで誰か、いや何かが手招きしているようにも見えた。
1205室は通路の半ばあたり。距離にすれば数メートルだ。大したことはない。しかし涼子は「行きたくない」──そう思った。
階段を引き返そうとする。
──足が、動かない!?
涼子の足はまるで地面に固定されたかのように梃子でも動かない。
それどころか前へ前へと進もうとする。
嫌だ、と思いながらも涼子の脚は一歩また一歩と先へ進んでしまう。
そして──……
◆
「うわ!」
叫びながら涼子は飛び起きた。
枕元ではスマホのアラームが鳴っている。
音はバイシクル。デフォルトで用意されているアラーム音で、木琴をテンポよく連打しているような音だ。最初はお気に入りの曲をセットしていたのだが、毎朝その曲で起こされるたび、少しずつ好きだった曲が嫌いになっていくことに気づき、デフォルトのアラーム音に変えたのだ。
思い出せないが、何かものすごく嫌な夢を見たような気がする。顔を顰めながらベッドを出て洗面所へと向かった。
──今日も午前様かな
ため息を一つ、二つ。嫌は嫌だが、それでも一日は始まる。涼子は朝から三つ目のため息をつきながら出勤の準備を始めた。
・
・
・
なんだかなあ、などと思いながら、涼子は疲れた目でオフィスを見渡す。
雑然としたデスク、デスク、デスク!
飲みかけのペットボトルが置かれていたり、床には資料が2、3枚落ちていたりする。お世辞にも整理整頓された綺麗なオフィスというわけではない。しかし涼子はなんとなく心が慰められたような気がした。
──私は疲れている。職場だって疲れている
不幸な境遇にある者は、同じ様な境遇の者に同調することがある。涼子もそんな心境にあった。ただ、 "同じ様な境遇の者"の位置に雑然とした職場を置いたのは、それだけ涼子が疲れ切っていたからなのだろう。
涼子は目についた資料を拾ったり、よっこらしょっとババア臭い掛け声を出しながらゴミを捨てたりした。
ところで人間あまりに疲れると奇妙なことをするものだ。例えば壁に話しかけたり、ブツブツと独り言を言ったり。
朝早くからの出勤、そして連日連夜の長時間残業で涼子はとてもとても疲れていた。ゆえに精神がやや不安定になっていたのだろう。
傍から見ればイカれてるとしか思えないような、いびつな形の精神の積み木を一つ一つ積み上げ、結果として──……
「ありゃ、誰がこんなところを蹴ったんでしょうねえ」
そんなことを言いながら涼子はオフィスの壁を雑巾で拭いていた。
オフィスを出て左手の自動販売機、そのすぐ横の壁にべったりと靴の跡がついている。
時刻は午前0時を回ったところである。
同僚たちはすでに帰宅していた。
涼子は1人きりでこんな時間になぜか掃除をしていたのだ。それもただ単に掃除をしているというわけではなく、まるで誰かの世話をしているような様子にも見える。
そんなこんなで涼子が掃除を始めて早30分、ようやく正気に戻ったのか涼子は慌てたようにスマホを取り出し時間を確認した。
時刻は午前1時前。
ハア、と大きなため息を一つついて、のろのろ死にかけた亀のような速度でオフィスへと戻り、PCをシャットダウンした。
そしてカバンに手を伸ばし、背を丸めてオフィスを出て行く。
足取りは重い。
幸いにも涼子の自宅は会社からそう遠くなく、タクシーを使ったとしてもそこまで痛い出費にはならない。
とはいえ出費は出費だ。
本来ならもう少し早く会社を出ることができていた。しかしこの日はふとした気の迷いから掃除を始めてしまい、終電を逃してしまったのだ。
タクシーを捕まえ、家の近くのコンビニまで送ってもらう。
コンビニで買ったのは丸・ハイボール濃いめとそうめん、そして缶詰の鯖の水煮とバニラ・ブリュレ。
涼子なりに考えた深夜でもセーフそうな夜食である。
本当はもっとがっつり食べたいのだが、深夜にそんなものを食べる度胸はない。
酒も酒で、ハイボールなら余計な糖分などはないからむしろ健康的だろうという狂った考えの元購入している。バニラブリュレは特別疲れた日のご褒美だ。
そんなこんなでコンビニから帰路を歩いていると、やがて黒々とした15階建てのマンションが見えてきた。
ひゅっと涼子の喉が鳴る。
マンションは夜の闇に妙に映えており、なんだか威圧感があったのだ。
だからといって帰らないというわけにはいかない。涼子は2、3回唇を噛んでマンションのエントランスをくぐった。
エレベーターは13階に止まっている。
ボタンを押し、待ってる間涼子は何かが引っかかるような、何か大切なものを忘れているようなそんな気がしていた。しかし思い出せないなら大したことじゃないんだろうと割り切ったところで甲高い電子音と共にエレベーターが1階に到着した。
乗り込んで12階のボタンを押す。
──あれ?
12階のボタンが点灯しないのだ。
──早く一杯やりたいのに
涼子はコンビニ袋に目を落とし、苛立ちながら二度、三度とボタンを押す。
しかし点灯しない。
うんざりした気分で涼子は13階のボタンを押した。
13階から階段で1階分降りようと思ったのだ。
人差し指がボタンに触れる瞬間、今朝見た夢を思い出した。
──これって……
目だけを動かし、ちっと階数表示を睨みつけるように見上げる。
6、7、8……涼子は何か追い詰められたような気分で9、10、11階のボタンを押した。
しかしボタンは点灯しない。
心の中はもう13階へ行きたくない思いでいっぱいだった。ちょっとした悪夢を怖がってまるで子供みたいだと思わなくもなかったが、そんな常識的な考えは非常識に対する恐怖に上書きされた。
やがてエレベーターは13階につき、涼子は恐る恐る足を踏み出す。
寒気か怖気か、涼子本人にも判然としないが、強い冷えを覚えた。腕を見るとまるで何かの卵のようにブツブツと鳥肌が立っている。
涼子はその場で少し考え、階段へ向かわずに再びエレベーターへ戻り、1階のボタンを押した。論理だった考えや根拠があったわけではないが、今はとにかくこのマンションから出ていきたかった。
──ネカフェか適当なホテルで一泊しよう
そんなことを思いながらエレベーターが動くのを待つ。
しかし動かない。
見れば1階のボタンが点灯していなかった。
涼子は目を見開き、他のボタンも押す。どれもこれも点灯しない。
ここから出て行くためには階段を使うしかない。
呼吸が荒くなり脂汗がにじむ。涼子は震えながら階段を降り、12階へたどり着いたところで足が止まった。
鳥肌は収まらず、口元はひくついていびつな笑みを形に作っている。恐怖心が極まると人間は笑うのだ。今自分が置かれている状況は何かの冗談なのだ、冗談だから笑わなければいけない、そんな思いが笑みを作らせる。
涼子は笑いたくて仕方がなかった。
今自分が置かれている状況が夢であってほしいという思いでいっぱいだった。
2日連続で同じ夢を見て、そして子供みたいに怖がっている──話の種くらいにはなるだろう。
だが現実は非情で、涼子の視界には半開きになったいくつかのドアがパタパタとまるで手招きするかのように揺れていた。
・
・
・
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。
涼子は必死で足を動かそうとするが、地面に縫い付けられたかのように動かない。骨が折れても構うものかとばかりに力を込め、その場から離れようとするがそれでも足は動かない。
──なんでよ!?
それどころか前へ前へと進もうとするのだ。
この先に進めば、あの手招きに応じれば、もう二度と帰って来れなくなるような気がする。
夢と同じだ、そう思った瞬間、スーツのポケットにしまっていたスマホがけたたましく鳴り響いた。
途端、前へ進もうとする足は止まり、涼子の腕いっぱいに広がっていた鳥肌もいつの間にか収まっている。
先ほどまで感じていた身も心も冷え込むような寒気も感じなかった。
涼子は半ば忘我の内にありながら、いまだ鳴り響くスマホを見つめていた。
ディスプレイには "会社" とだけ表示されている。
恐る恐る指を伸ばし着信のアイコンにフリックし、スマホを耳に当ててか細い声で「はい」と答えると、数秒間無言が続き、やがてぷつりと通話が切れた。