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第3話 しんどい君

 ◆


 出勤!!!!


 新戸 功しんど いさおは酷く憂鬱な気分で家をでる。


 ここ最近の忙しさときたらなかった。


 功は白猫ニャマトの配達員として働いており、通販サイトの普及によって、彼の仕事量は天井知らずで増加していたのだ。


 通勤路でふと道の端に目を遣ると、瓶に数輪の花が活けてある様子が目に留まる。恐らくはここで誰かが亡くなったのだろう、事故か…それとも。


 だが、功が注目したのは瓶だ。


 瓶が倒れてしまっているのだ。花瓶だろうが、花はない。どこかへ飛んでいってしまったか。


 功はそれを元に戻し、きょろりと辺りを見回して適当な花だか草だかをむしって瓶に差す。そして軽く手を合わせてその場を立ち去った。


 これは別に今日この時に限った話ではなく、数日おきにやっている事でもある。


 元々舗装が荒い道なので、ちょっとしたことで瓶が倒れてしまうのだろう、功は目についた時は必ず戻してやっていた。


 彼自身としては特に思う所はない。善行を積んでいる気は功にはなかったし、ただ、何となく嫌だっただけだ。深い理由などはなかった。


 功はトボトボと歩みを進める。


 会社という名の生きる糧を得る為の、あるいは過労の挙句に野垂れ死ぬ為の場所へ向かって。


 季節は冬の入り。


 天気は良く、お日様は空でぴかぴかと輝き、功の影も地面にくっきりと映り込んでいた。


 功は気付かない。


 本来一つしか浮かばない筈の功の影が、何重にも、何重にもぶれている事に。


 ◆


 その日、功は忙しかった。


 とにかく忙しい。


 朝早くから夜遅くまで彼のスケジュールは配達で埋め尽くされている。


 功が朝一番に配送センターに到着すると、彼を待ち受けるのは山のような荷物の海。


 魔界ならぬ、魔海である。


 予想はしていてもこの余りの惨状に、功の体がふらりと揺れる。


 しかし、ふわり。


 功の体は何かに抱き留められたかのように宙空に静止し、ゆっくり元の位置へと戻る。


 まあこの辺も功は気付かない。


 当初は功も奇妙に感じたが、いまでは何とも思わない。


 慣れというものは良くも悪くも人を鈍くするのだ。


 功は過酷な労働環境のせいで随分と鈍くなってしまった。


 ・

 ・

 ・


 この配送センターでは余りの過酷さのため、定期的に自殺者が出ており、センターの各所にはお札などが貼ってある。


 朝、功は出勤すると剥がれかけているお札をみて、それを丁寧に張りなおした。


 このお札はトイレの脇に貼ってあり、札には複雑な字体で何か書かれている。


 鎮魂だかなんだかその程度しか功には読み取れないのだが、毎日必ず剥がれかけているこのお札を丁寧に貼りなおす事が功の日課となっていた。


 当初(このセンターに怨霊だか死霊だかがポコポコ湧き出る様になって、慌てた本社が祓い屋を呼び、センターのあちこちにベタベタとお札を貼りまくった時)は他の職員らもマメにぺたぺたと貼り直していたのだが、やがてセンターの心霊騒動が収まってからはすっかりそのマメさも忘れ去られてしまった。


 功を除いては。


 会社に対する忠誠心か、あるいは仕事への誠実さか…それとも他の何かか。


 そういったモノの末路が自殺なんて悲しすぎるではないかと功は思ったのだ。


 今の功は狂った出勤ペースのおかげでぼんやりにぶちんなマインドと化してしまっており、同情心だかなんだかは霞んだ思考の果てに消えて、このお札の貼り直しも半ばルーチンワークと化してしまってはいるが…。


 そしてこの日、功が配達前の大を済ませようと気張っていると突然電気が消え、トイレは暗闇に包まれた。


 しかし功は慌てない。


 "コレ"はよくある事だからだ。


 それに電気が消えた以上に功を危惧させるものがあった。


 それは…


 ──アァ…


 功は慨嘆した。


 紙がないのだ。正確にはあと10センチくらいしかない。


 この配送センターには忌むべき点が山ほどあるのだが、その一つにトイレットペーパーがなくなりかけていても取り替えないというものがある。


 まあ "忌むべき点" のほとんどは心の余裕の無さが原因であり、ではその心に余裕をなくしているものは何かと考えていくと、結局の所は酷い労働環境なのだが、ともかくも皆がみんなペーパーを替えないのだ。


 功もそれは承知していた筈だが、酷く疲れていると事前の確認を忘れてしまうことがままある。


 だが功が重苦しい溜息を吐き出すなり、ガタン、バタンと音が鳴る。


 功は不意に視線を感じて扉の上方を見ると、青白い顔色のナニカがこちらを見下ろしていた。


 覗きではない。


 そもそもそのナニカには目がないのだ。


 真っ暗な眼窩でこちらを見下ろすナニカ…


 功がアッと間の抜けた声をあげると、電気はすぐについた。ころりと足元に何かが転がっている。


 それはトイレットペーパーだった。


「ア……」


 功はぼんやりとそれを見つめ、拾い、新しく取り換える。


 自身が見たものがなにか、功はもはやそんなことはどうでもよかった。全く興味がないというよりは、理解しようとするだけのリソースを割く事を脳が拒んでいるのだ。


 功はそのナニカを何度か見ており、都度助けられている。


 ナニカが何か考えた事もあるのだが、幽霊か何かだろうが詳しくは知らない以上の事は功には分からない。


 そして、分からないものをそれ以上考えるだけの余裕は功にはなかった。


 彼の頭の中は山のような荷物をいかにして配達するか、その一点に集中しているし、全く取れない疲れで朝から半鬱病のような感じとなっている。過労の崖の縁に立つ功、あとひと押しで奈落に落ちるであろうことは明々にて白々だと言わざるを得ない。


 功は深く息をつくとウォシュレットのボタンを押し、尻を洗浄する。


  死ぬ程忙しい一日が始まるが、しかし功には逃げ場がない。


 ここ最近の功はその逃げ場をどうにかして作ることが出来ないかという思いがちらちらと頭をよぎっていた。


  そう、逃げ場がなくとも作ることは出来るのだ。


  例えば、電車に飛び込むなどすれば。


 功はここしばらく、この手の想像を良くしていた。


 そうすると、少し気持ちが楽になる気がするのだ。


 辛い、苦しい、そんな気持ちを幻想の自分に押し付け、死なせる。


 自分を知る者は少なからず悲しむだろう、自分が死んだ事を惜しんで悲しんでくれるだろう。


 それは歪な承認欲求の満たし方ではある。


 しかし今の功にはそんな形でしか心の慰めを得る事が出来なかった。


 承認欲求に限らず、歪が更なる歪を呼び込むということは往々にしてある。


 歪な環境にある功が何らかの形で心を慰めようとするならば、その形も歪なものになるというのは自明の理であった。


 ◆


 功は忙しい。


 ただひたすら忙しい。


 段ボール箱、封筒、小包が積み上げられ、それらはすべてその日のうちに届けなければならない。


 一つ一つの荷物を軽トラックに丁寧に積み込むと。彼の車は荷物でぎっしりと埋まり、まるで動く倉庫のようだ。


 荷物と荷物の間から血涙を流す女がこちらを見ている。功と女の視線が合い、二人は暫時見つめ合う。これもまた "常連" だ。


 まだ心がまともであった頃の功は、その血涙を見て恐怖よりも先に憐憫と嫌悪を覚えたものだ。


 憐憫というのは、流す涙すら枯れて血を流さざるを得ない程に追い詰められてしまった誰かに対しての憐憫である。


 嫌悪とは、事情もよく知らないというのに上から目線で憐れむ自分への嫌悪感だ。


 1秒か2秒か、10秒か20秒か、死者とゾンビの視線が暫時交わる。


 功はある事に気付いた。


 荷物の積み込みは当然配送順を考慮して積み込まねばならないのだが、血涙女のすぐ左の荷物はもっと手前に積み込まねばならなかったのだ。


 朝からの疲れで功は積み込み順を誤ってしまったが、血涙女のおかげで窮地に一生を得た形となる。


「ア……」


 功は"ありがとう"と口に出そうとするも、言えなかった。言葉も出せないほどに疲れ切っていた。肉体ではなく、心でもなく、魂が疲れていた。


 今日の出勤で178連勤目である。これだけ無茶苦茶働くと普通は死ぬか体を壊すのだが、功は何となく持ちこたえている。


 功が特別強靭だから、というわけではない。


 ゆえに当然理由はある。これほどまでにタフなワークをこなせる理由が。


 その理由に、功自身は気付いていない。


 本来の功なら気付けた筈なのだが、気づけない程疲弊してしまった。


 ・

 ・

 ・


 出発してからは市内を縦横無尽に駆け巡る。


 アパート、一軒家、オフィスビルと、配達先は多岐にわたり、彼は一箇所に止まることなく、次々と荷物を届けていく。


 信号待ちや渋滞の中でも、彼の心は次の配達先のことでいっぱいだ。


 信号待ちの時、功はふと助手席に気配を感じた。


 視線をやるとそこには骨と皮だけになったなにかが座っていた。功はそれを無表情でみつめ、ややあってからそろそろ昼食の時間であったことを思い出す。


 これは功の精神が既に不味い所まできている証明なのだが、いまの功は食欲を感じない。


 心が疲れすぎているせいだ。


 だがそれはそれとして、食べねば体力が持たず、もし何も食べる事なく仕事に従事していれば倒れ伏すのは必定といえるだろう。


 骨と皮だけ…飢餓の象徴、そんな存在に功は食事を連想し、事なきを得た。


 ──時間はないけど何か食べておかないとな。おにぎり、パン…コンビニにいくか


 功はそんな事を思い、青信号を待ち、コンビニを探す。


 ◆


 昼食後も功はひたすらに配達を続けた。


 途切れることのない荷物の流れに追われ、彼の身体は限界に近づいていたが、それでも彼は止まらない。


 止まらないというより、止まってはならない。配達ノルマというものがある。


 夕方になり街の灯りがひとつずつ点灯し始める。


 しかし配達はまだまだ終わりそうにない。


 夜空に星が輝き始めても、彼の車のライトはまだ街中を照らし続けている。


 突然、バンと音がした。


「ア……」


 やべえ、だの、轢いたか?だのは口には出さない。


 喋る気力がないほど疲れており、しかし功はそのまま逃げ去るほど無責任な男でもなかった。


 功は停車し、周囲を確認する。


 すると車の下から青白い手が伸び、功の足首を掴むではないか。


 功は屈みこみ、手の主を確認する。


 そこには上半身だけの血塗れの女がいて、功の事を見つめていた。


 功はぼんやりと女を見返す。


 話しかけるべきか、振り払うべきか。


 そんな事を思っているとなんとやや前方でクソガキ共がバイクでかっ飛ばしてきたではないか。


 もし車を止めねば、タイミング的にクソガキ共を轢き殺していたに違いない。


 ふと気付くと、女の手は既に功の足首から外されていた。


 配達は続く…


 ◆


 配送センターへ戻った功はその日の疲れで身体が鉛のように重く感じられた。


 トラックを降りるのも一苦労で、彼の動きはまるでゾンビのようにゆっくりとしている。


 目は虚ろで、自身が生きているのか死んでいるのかさえわからないような状態だった。


 センターの倉庫に入ると、周囲にはまだ明日の配達のための荷物が山積みにされている。


 これを見た功は、深いため息をついた。


 心の底から…大きく大きくため息をついた。功の吐き出す息を科学的に分析した場合、二酸化炭素ではなく希死念慮が検出されるであろう、そんなため息だ。


 ──死ぬか


 功はおもむろにそんな事を思う。


 すると倉庫の隅でささやき声が聞こえた。囁きは次第に大きくなり、時には高くなり、時には低くなる。


 気の触れたリズムが功の三半規管をゆるがせ、功はその場に倒れ込んでしまった。


 暫く経ち、功は慌てて目覚めて時計を見る。


「10分しかたっていない…?その割にはなんだか体が軽いな。まあいいや、取り合えず明日の準備だけしよう。それにしても転職…ちょっと真剣に考えてみるかなぁ…」


 功はぶつぶつ呟く。


 しかし彼は気付いているだろうか?


 超短時間睡眠によって、自身の気力と体力がそこそこ回復しているということに。すくなくとも、独り言を呟ける程度には回復していた。


 ちょっと寝ただけじゃんと思う向きもあるかもしれないが、このような短時間睡眠は極めて効率的に気力と体力を回復させる。


 ムーグルやマップル、ニャイクロソフトやマイキなどの世界的企業でも取り入れられているといえば凄さが分かるだろうか?


 ・

 ・

 ・


 とはいえ、翌日の配達の事を考えると功の心は重くなる。


 辛くなる。


 悲しくなる。


 切なくなる。


 だが生活の為にも仕事は続けなければならない。


 功が明日もがんばるかと肚に力をこめ、倉庫を立ち去ろうとすると、今度は彼をじっと見つめるスーツ姿の男性がいた。


 男性は普通ではない。

 何が普通ではないかというと、皮膚も無ければ肉もない、骨だからだ。


 骨がスーツをきて、功を見ている…

 ぽっかり空いた真っ暗な眼窩で功を見ている…


 だが功は動じない。

 この職場は過酷すぎて、功の精神世界はぐちゃぐちゃのズタボロになっている。


 この職場には確かに人間以外のものがいるのかもしれない、しかしそれが何だというのか。


 やれどもやれども終わらない仕事のほうが余程恐ろしいではないか。


 仕事を辞めるという選択肢は功には思い浮かばない。精々消極的な転職願望を想起するに留まる。


 しんどすぎてばっくれるということが功にはできない。馬鹿にみえるかもしれないが、ブラック企業勤務で心がぶっ壊れた人間は往々にしてこうなる。


 そして限界がきたら自殺するのだ。


 だから功は骨をみても何ともおもわなかったのだが、しかし困ってはいた。


 ──通してくれない


 そう、脇を抜けようにも骨男は切れ味鋭いステップで横へずれ、出ていかせまいとする。


 功は弱り、特に理由はないがあたりを見回した。


 そして、あれ?と思う。

 あの黒いものはなんだ?と。


「あれは…財布だ。しまった、財布を落としていたのか…」


 功は呟き、数歩後方へ戻って財布を拾い、再び前を向くとスーツをきた骨男はいなくなっていた…


 ◆


 功はロッカールームに向かい、作業服を脱ぎ捨てた。


 脱ぎ捨てた作業着が宙に浮き、功のロッカーへと収納されていく。


 それをみた功はこの日初めての笑顔を浮かべた。


「悪いね、助かるよ」


 すると功のロッカーに赤い文字…恐らくは血文字で、


 ──休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め休め


 と文章が紡がれていく。


「休む、か」


 功は呟く。


 休むとは何の事だ?


 功はよくわからず、首を傾げた。


 これはやれやれ系ではなくて、功には休むという単語が本当によくわからなかった。


 引きこもり歴が余りに長い者は人と会話する際、喋り方が分からなくなるという。


 まあ余り関係ないかもしれないが、功もそうだ。

 休んでいなさすぎて休みがよくわからない。


 するとややあって、がん、と音がして血文字が消えた。同時に、何か怒りの精神波が周囲へ放射されたように功には思えた。


「よくわからん…怒るなよ」


 功は呟くが、当然応えはない。


 ・

 ・

 ・


 帰路、功はふらふらトボトボと自宅へ向かって歩を進める。


 謎の失神によって僅かな活力と体力を取り戻したものの、疲れているしくたびれているしへロヘロである事実は変わりない。


 功は体に酷い…とまではいかないが、あえていうなら中途半端な重みを感じるが、疲れがたまっているんだろうとその重みを努めて無視する。


 ちなみにこの重みは例えて言うならば一般的な体格を持つ成人女性がおぶさって、更にその重みをダイレクトに伝えないように気遣ってか壁だかなんだかに手を当てて、体重を分散させているような、そんな重みである。


 家に着くと、功は何も食べずにベッドに倒れ込んだ。


 しかし眠れない。


 疲れすぎて眠れないという事はままある。


 ストレスや疲労によって体内時計が狂ってしまうのだ。


 彼の頭の中は、明日の仕事のこと、荷物の山の事でいっぱいだった。


 そんなこんなで暫く眠れなかった功だが、不意に息苦しくなったとおもったらあっというまに意識を失い、そのまま寝入ってしまう。


 ぐうぐうといびきをかく功を、ベッドの脇に立つ女がみつめていた。


 だが、女の顔は見えない。


 濃い影が女の顔を覆っている。


 明らかに、尋常ではない。


  その尋常ではない女は、寝入った功を見てゆっくりと彼の首から手を離した。


 ◆


 翌朝、功は気分すっきりで目覚めた功は配送センターへ向かった。いつもそうだ、極度の疲労により逆に寝付けなくなると、息苦しくなり気づけば翌朝となっている。これはこれで助かるなとすっとぼけた事を考える功だが、気になる事もないではない。


  ──また首に痣ができているなぁ。まあ良いか、痛みがある訳でもないし…


  健全な肉体にこそ健全な精神が宿るという。それが正しければ、功の精神は健全ではなく、ゆえに知らん間についた痣なんてどうでも良いやと捨ておいてしまう。


 ともあれ、センターに到着した功だが、なにやら通常とは全く異なる状況だった。


 センターの敷地内には労働基準監督局の車両が何台も停まっており、制服を着た監督官たちが建物内外を行き交っている。


 彼らは徹底した査察を行っている様子で、書類を手にした監督官がセンターのスタッフに厳しい質問をしているのが見受けられた。


 一部のスタッフは明らかに動揺しており、彼らの表情からはこの配送センターが著しい重篤な違反を犯していることが伺えるが…


 功はぼんやりとその様子を見ている。


 なぜいきなりこんな事になったのだろうか、と思うが、功には皆目見当がつかない。


 誰かが通報したのだろうか?


 功はそんな事を考えるが、首を振る。


 功が知る限り、この配送センターの職員…自分をふくめて、働いているものは皆生きてるのだか死んでるのかわからない者達ばかりであった。


 労基へ通報するなど、考えもしないほどに皆が精神をヤラれていた。


 ──なら誰が…


 ぽたり、と何かが首へ垂れる感触があった。



 雨だろうか?と功は空を見上げるが、青い空が広がるばかり。


 事実を確かめたいような、確かめたくないような複雑な気持ちで功が首に手を伸ばすと、やはり濡れている。


 ──勘弁してくれよ、鳥の糞なんて…うわ、ぬるぬるしている…


 功は恐る恐る人差し指と中指についたそれを見た。


 鳥の糞ではなかった。


 血だ。


 功はそれを見て、あるモノを連想した。


 怪我だとかそういうものではなく、もっと漠然としたものである。


 それは、これまで功がちらちらと思い浮かべていたものとは正反対のモノであった。


 ふと功はセンターを眺める。


 なぜならセンターはこれまでの功にとって、今しがた連想したモノとは真逆のモノの象徴だからだ。


 死に瀕して生を知り、生を知れば死とは何かを再び顧みたくなるというのは往々にしてある。


 センターは蜂の巣をつついた様な有様で、チープな言い方をすれば大パニックといった風情であった。


「なんだか、馬鹿らしくなっちまったな」


 功は呟き、再び空を見上げた。


 空は青く、どこまでも広がっている。


 まあこの時期の空模様としては極々ありふれたものだ。


 しかし功には何かが違う様に見えた。


 まるで空の青が凝縮し、紙縒りの様な形となり、自分の両目を貫いて脳を破壊するような感覚を覚えた。


 この表現はネガティブなものに思えるかもしれないが、功のイメージの中ではとてもポジティブなものだった。


 なぜかと言えば、その青い紙縒りが貫いたのは言ってみれば "悪い脳" だからである。


  そして功は "悪い脳" が完全に消えてなくなった後、不意に2つの事に気付いた。


  1つは自分が "こう" なってしまう前に色々な事ができたという事。


 もう1つは今からでもその色々な事をできなくはないだろうという事。


 これまでの待遇、労働環境、辞める算段、その他諸々の段取りが泡の様に湧いてきては弾けず、留まる。


「次の仕事はもう少し休みが多いものがいいね」


 誰ともなく功は呟き、シャキッとした足取りでセンターへと向かう。


 勿論タイムカードを押しに行く為ではない。


 ・

 ・

 ・


 功の後を影が滑るように追う。


 影は功のものなのだから当たり前の話だが、よくよく見ると何かがおかしい。


 太陽の位置からして功の影は多重になりえる筈がないのだが…


 功の影はぶれにぶれ、まるで10人20人の人間が同じ位置に立っている様な、そんな不気味な形をしていた。 


 ◆◆◆


 功は霊との親和性が高い。


 彼はいわゆる「取り憑かれ体質」で、霊的な存在にとって魅力的な宿主なのだ。


 だから彼の周囲では時折不可解な現象が起こったりする。


 ちなみに霊が生者に取り憑くと、通常は霊の持つネガティブな精神状態が生者に影響を及ぼす。


 つまり霊の感情や記憶、時には思考までもが宿主の心に浸透し、生者の精神を不安定にさせるのが一般的だ。


 しかし、功の場合は少し異なっていた。


 とり憑くことで霊の精神もまた、功の心理状態に影響されてしまうというのが良くなかった。


 誰にとって良くなかったのか?


 勿論、霊にとってである。


 ・

 ・

 ・


 霊というのは基本的には悪性と思って良い。


 善に対して善で報いてくれる霊など稀だ。


 なにせ、大抵の霊というのは良し悪しを判断できるほどの正気を残していないのだから。


 彼らにあるのはただただ悲しく、辛く、苦しいという思いのみ。


 一秒でも早く楽になりたいという思いで一杯なのだ。



 ある霊はちょっとしたきっかけ…、そう、功の親切心がきっかけで彼に取り憑いた。


 生前は何の変哲もないOLであった彼女は卑劣な轢き逃げによってこの世を去ったのだが、轢かれて暫くは彼女は生きていた。


 もしかしたら轢かれてすぐ救急車を呼ばれていれば彼女は助かったかもしれない。


 だが轢かれた時間が良くなかった…深夜だったのだ。


 その日たまたま残業が長引いてしまった事が災いした。


 痛みでまともに体を動かすこともできない…しかし体の感覚が少しずつなくなっていく。


 その恐怖と苦しみはどれ程のものだったか。


 死後、霊となっても恐怖と苦しみは続き、それらによって生前の記憶や意識はかき消されてしまう。


 この生前の苦しみを僅かにでも和らげる効果を持つものが例えば献花であったりするのだが…。


 事件から暫くたったのと、場所自体が風の煽りなどを受けやすかったりといった様々な理由で彼女の死亡現場は荒れていってしまう。


 こうなると当然鎮魂の効果は無くなり、逆に苦しみが増しもする。


 そして長期間そんな状態に置かれていた彼女は徐々に歪み、ねじくれ、魔を宿す様になるが…ある時、そんな彼女に転機が訪れた。


 男だ。


 一人の男が彼女の死亡現場を簡単にではあるが整える様になったのだ。


 しかし時すでに遅し。


 既に彼女は自我を完全に失い、関わる者すべてに祟りを与える悪霊と化していた。


 結句、彼女は男…功に取り憑く事となるが、そこで更なる地獄を見る。


 ◆


 霊は、彼女は功の精神世界の荒廃ぶりに深い恐怖を感じていた。


 功の内面は無窮の闇に覆われた荒れ地であった。


 地面は冷たく、足の裏の感覚もすぐになくなる。


 凍てついた大地が足の皮膚に噛みついて離さない。


 一歩足を踏み出すたびに足の裏の皮膚が破け、血が出て、肉が引き裂かれる。


 吹き荒ぶ風は冷たく、ひとたび吹けば皮膚が凍り、ふたたび吹けば皮膚が破ける。


 さらに耐えがたいのは音階が滅茶苦茶な、聞いているだけで頭が痛くなり、耳が血が出るような魔曲が延々と鳴り響いている事だ。


 彼女はたまらず功から逃れようと試みるが、無理やり引き戻されてしまう。


 功の極まった取り憑かれ体質が不可視の鎖となり、功に関わってしまった霊を縛鎖してしまうのだ。


 彼女は自分のそれを遥かに超える絶望のハンマーに頭を叩かれ、やがて正気を取り戻す。


 だが冷静になって周囲を見渡せば、自分と同じようにこの場に囚われた他の霊たちがいた。


 日が経つごとに霊は一人増え、二人増え…


 やがてこれらの霊たちの間で無言の同盟が組まれる。


 その目的は、何とかしてこの場所を住みやすくすることだった。


 功の精神が改善されれば、精神世界の荒廃は改善されるはずである。


 そうなれば霊たちにとっても楽になる。


 霊たちは功の心の闇の中で彼を支え、彼が精神的な安定を取り戻すために様々な方法を試みる必要があると考えた。


 功を死なせてはならない…それが霊たちの共通認識だ。


 もし功が死ねばこの精神世界は一体どうなってしまうのか。


 功から逃れることができない霊たちもまたどうなってしまうのか。


 想像するだけでも恐ろしい事だった…

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