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今年小学校4年生となる恩田 まなみは「消えたい」と願った。
「死にたい」ではなく、「消えたい」である。
これらは似てはいるが異なるモノなのだ。
まず根源が違う。
前者の根源は「辛い」から来るのに対して、後者は「しんどい」から来る。
では「しんどさ」とは一体どのようなものなのか。
それは概ねこの様なものであった。
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──あーあ
インフルエンザで一週間ほど学校休んだまなみは、最初こそ同級生から心配されたりして嬉しかったのだが、すぐに元の日常に戻ってしまった為に内心で酷く落胆している。
特に思いを寄せる "たくちゃん" がちょっと可愛いだけの "れいこ" と仲良くしているのを見ると、胸がぎゅっぎゅっとしてしまうのだ。
──あーあ
まなみは再び胸中でしょぼくれ散らし、机に目を落とした。
クラスで虐められているというわけではなく、件の "たくちゃん" に嫌われているというわけでもないのだが、まなみはなんだかしんどい。
病気で一週間も休んだというのに、病み上がりだというのにいつも通りのクラス、いつも通りの皆だ。
最初は「大丈夫?」なんて言ってくれていた友達も、1日2日と経つにつれて余り構ってくれなくなる。
しんどい、しんどい、しんどい。
まなみの心がこんなにもよわよわになっているのは、病み上がりのせいというのもあるのだろうか。
もしかして、とまなみは思う。
──みんな、私がいてもいなくてもどうでもいいんだ
そんな事を思った瞬間、指に小さな痛みが走った。
見てみると、小指の先には「ささくれ」が。
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鬱々としたまなみの日々はそれからも続いた。
"れいこ" は "たくちゃん" に纏わりつき、なにかと話しかけたり肩に手をあてたりしている。
"たくちゃん" もまんざらでもなさそうだ。
対して、まなみは "たくちゃん" に話しかける度胸などないし、毎日鬱々鬱々鬱々としている。
──私が最初に好きになったのに
そんな事を思うまなみだが、結局の所彼女は傷つきたくないだけなのだ。
"たくちゃん"への恋心が実る事よりも、自分の心が傷つかない事を優先している。
子供の恋だろうと大人の恋だろうと、そんなものは決して実らない。
そして"たくちゃん" にしたって、毎日鬱々と暗いまなみなんかより、可愛くて明るくてちやほやしてくれる "れいこ" と仲良くする方が楽しいに決まっており、まなみの恋愛戦線は完全に崩壊、大惨敗の憂き目と相なってしまった。
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ある日の夜、まなみはお風呂に浸かりながら暗い表情でなんとなく手を見る。
右手の小指のささくれが少し長くなっていた。
ささくれなんてものは放っておいたって然程実害はない。
目に入れば目障りだというくらいだろうか。
余程気になるならハサミでちょっと切ってやればいい。
勿論引っ張ってはだめだ。
ぴりり、ぴり、とささくれを引っ張れば、皮膚が剥けて痛い上に血もでる。もしかしたら痕になってしまうかもしれないし、物凄く運が悪いとそこからばい菌が入ってしまうかもしれない。
まなみもそのくらいは分かっていたのだが、この時のまなみはお風呂の熱気でぼんやりしていたのか、もしくは別の理由か、そのささくれをひっぱってみたくなってしまった。
先をつまみ、ゆっくりと下にひいていく。
頭の中には "たくちゃん" と "れいこ"、そしてすぐに自分に構ってくれなくなった同級生の皆の姿。
ぴり、ぴりりとささくれをむいていくまなみの胸中は、翌日の登校に対する億劫さで大部分が占められていた。
──やだなあ、なんだか行きたくない
皆がみんなまなみを避けている、少なくとも彼女はそう感じていた。まなみが始終暗いので、あえて関わりにいこうとはしないだけなのだが彼女はまだ幼く、自分を客観視できない。
ぴり、ぴり、ぴり。
ささくれが剥けていく。
まなみの小さい指に引っ張られ、剥けていく。
まなみは「わっ」と声を出した。
気付いてみれば、ささくれは小指の爪の根本から肘あたりまでむけており、皮膚で出来た細い糸が逆の手の指先に摘ままれていた。
まなみは「どうしよう」という思いと同時に、不思議な心地も覚えた。
全然痛くないし、心がちょっぴり軽くなっているのだ。
試しに、という思いでもう少しだけささくれをひっぱってみる。
ぴりぴりと、まなみは右脇あたりまで皮を剥いてしまった。
やはり痛くない。
それどころか、心はさっきよりも楽だ。
明日学校に行きたくないという気持ちが大分薄れている。
──夢なのかな?
まなみはそんな事を思いながら、ささくれを、いや、元ささくれであった皮膚の糸を引く、引く、引く……。
皮が剝ける度に心が軽くなっていく。
"たくちゃん" や "れいこ" の事で思い悩んでいたのが馬鹿みたいだった。
まなみは本当にしんどくてしんどくて、なんだか消えちゃいたくて仕方がなかったのだ。
でもささくれをむいていくとそんな重苦しい気持ちが消えていく。
──でも、まだ少し苦しいかも
もっと楽になりたい、という思いがまなみの中に湧き、まなみは皮を剥き続けた。
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「ねえ、まなみ!いつまでお風呂入ってるの?」
まなみの母、ゆかりが居間で大声をあげた。
娘のまなみがもう3時間もずっとお風呂にはいっているのだ。
──元々お風呂が長い子だったけど
ゆかりはそんな事を思い、浴室に向かう。
幾らなんでも3時間は長すぎる。
脱衣所にはまなみが脱いだ下着や衣服があり、シャワーの音が聴こえてくる。
「まなみ、開けるわよ?」
ゆかりは一言断わり、浴室の扉を開けるとそこには──……
「な、なに、これ」
浴槽に何かが浮いていた。
肌色の紐の様な、糸の様な何かだ。
沢山の糸が浴槽にぷかぷかと浮いている。
はっきり言って気味が悪い。
だが "確認" しなければならない。
何を確認しなければいけないのか、ゆかりにも分からない。
しかし確認しなければいけない……そんな思いがゆかりの中にあった。
「まなみ……?」
ゆかりの声は震えている。
応えは無い。