電話を始めてから三十分くらいが経とうとしている。
「私は小学生の頃、唇の周りがひどく荒れたことがあったの」
小さい頃はどんな子だったのかと僕が質問した後、彼女はそのように切り出した。
「ふーん」
彼女が何かを話すとき、僕は適切なタイミングで、「へー」や「ふーん」とかいった相槌を入れながら聞いていた。この子と電話するのは初めてで、僕たちの会話には、まだ少しだけぎこちなさが残っている。
「二か月くらい経って少しずつ治り始めて、最終的には跡も残らずに完治したんだけど、原因は結局分からなかった。」
「まあ跡が残らなかったのならよかったね」
そうね、と彼女は答えた。
「その間、周りの友達に肌荒れを見られるのが嫌でたまらなかったから、学校では常に口の周りをハンカチで覆って過ごしたわ」
「ヴー」
これは僕の相槌ではなく、ウシガエルの鳴き声だ。
「今の声は何?」
彼女の声はさっきまでより少しだけ大きくなった。驚いているようだ。ウシガエルさ、と僕は教えてあげた。
「ここ2週間くらいアパートのすぐ近くの水辺に住みついてるんだ」
「ねえあなたはさっき中野にアパートを借りてるって言ってたわよね?中野にウシガエルがいる訳がないじゃない」
彼女は僕が住んでいる場所を偽っているのではないかと疑っているようだった。しかし、もちろん僕は嘘をついていない。誰が嘘をついてまで中野に住んでいるなんて言うのだろう?
「たしかに原則的にはウシガエルは田舎の水辺にしか生息しない。でも中野の水辺にも生息することだってある」と僕は言った。言った後で、それが彼女の質問に対する適切な答えになっているのか不安になった。
「原則的ウシガエルが存在するのなら例外的ウシガエルが存在して当然って言いたいの?」
「うん。要するに」
電話口の向こうではしばらく沈黙があった。何かを考えているようだ。
「それで、結局肌荒れはみんなにバレずに済んだの?」
僕はその沈黙に耐え切れず、さっきの話の続きを促した。
「あー、うん、バレずに済んだ。だって給食でさえ、口元をハンカチで隠したまま食べてたからね」
「ずいぶん徹底してたんだ」
「うん。徹底してた。『避難訓練』というあだ名が付いたくらいね。そのあだ名は中学を卒業するまで消えなかったわ」
「ヴー」
僕は笑っていいのか迷った挙句、言葉にならない声を出していた。彼女には、今のも例外的ウシガエルの鳴き声なんだと説明をしておいた。