人類初の笑い死にをするとこだった。これでもかと肩が震え、目には涙が溢れ、息を吸って吐くという単純で重要な行為が出来ない。同時に下の方も緩くなり、まさかのお漏らしの恐怖に耐えられず、女子トイレに駆け込んだ。
いつもの昼の休憩時間だった。
「槇原課長のお弁当って奥さんが作ってるんすか?」
新入社員の蓬田は話を聞かない。この質問は今日で3回目だ。そうだよ、夕飯の残り物だよと口を挟みたくなる。
「うん、そう。大体夕飯の残り物だけどね」
なんの疑いもなく毎回同じ回答をする槇原課長も槇原課長だ。こっちはこっちで言ったことを覚えてない。へぇ、いっすね、とスマホをいじりながら菓子パンを頬張る蓬田。
不毛な会話が終了し、私もお弁当を食べようかと思ったその時。
ブホッと大きな音が小さなオフィスに響き渡った。
「おなら出ちゃった」
隣の島の営業部長の白木だ。家じゃないんだから、という誰かの小さな声のつっこみが入り、また静かな昼休憩再開だったのだが。
見てしまった。一番奥の席の山本常務がファイルを頭に乗せて、一瞬屈んだところを。
え?ファイルで頭守ったよね?白木のおならを爆発と勘違いした?えー笑える。あとで荒木さんにラインしなきゃ。
荒木さんは先月退職した先輩だ。この職場で唯一まともな会話ができた先輩だった。
一旦忘れて弁当を食べようと箸を持ったのだが、フッと鼻で笑ったのを皮切りに笑いの栓が外れた。弁当箱に髪が付くほど頭をもたれ、クックックックと背中を丸めて笑いをこらえる。爆発と間違えられるおならって。命の危険感じてたよ、常務。
こらえればこらえるほどに笑いの波が身体中を駆け巡る。ブルブルと音が聞こえるほど震えが止まらず、涙でコンタクトがずれる。
大声で笑えたらどれほど楽になれるだろう。無理だ。誰も笑ってない。この静かで笑いのない職場では無理。私のキャラ的にも無理。
勤続10年、真面目に大人しく仕事以外の会話はしないで働いてきた。だから誰も私に私用の話はしてこない。汚い雑居ビルの1部屋。社員10人足らずの小さな金属の加工会社。未だに自分が発注してる金属が何に使われてるのかも知らないけど、ときめきもやりがいも何もないけど、日々淡々と過ごす毎日を私は気に入っている。
今、声を出して笑ったならば、きっと白木のおならで爆笑してると思われるだろう。三上さんっておならとかがツボなんだって思われる。言葉では言わなくてもきっとずっと思われる。
この笑いを止められるほどの悲しい出来事を思い出そうとするも、私にそんな過去はない。数年前に死んだ祖父のお葬式とか、小学生の時に死んだ犬のチロの事とか、去年フラれた郵便局で働く男の事とか。不幸と言われる出来事を思い出してみるが、一向に笑いは止まらない。
幸せに生きた自分を初めて呪った。もしも今、笑いを止める薬があったら10万出してもいいとか、そんな事を本気で考えてる自分にも笑えてくる。もうこうなったら資材発注リストを見ても笑える。
次にもうひと波、笑いが押し寄せたら、絶対に漏らす。人生の第ピンチを迎えているというのに、まだ笑ってるとはどういう事か。
ハンカチで顔を覆い、逃げるようにオフィスを出て、廊下の先のビルの共有トイレに駆け込む。
便座に座り、笑いながら用を足す。そうだ、荒木さんに報告。
【お疲れ様です。さっき面白かったんですけど、白木がおならして、そしたら常務が爆発と勘違いして頭にファイル乗せたんですwww】
ラインはすぐに既読になり、返信が来た。
【ん?】
ん?って。興奮して打った文章が伝わってなかったのかと思い、もっと詳細に事の説明をした。またすぐに既読になり、すぐに返事が来た。
【なんか相変わらずだねーこっちは毎日研修で頭パンクしそうwww】
いや、なんか伝わってない。もっと詳細なメッセージを送ろうと指を動かし、やめた。
薄暗い共有トイレの便座に座りながら感じたこの温度差。先月までこんな会話をクスクス笑い合ってた荒木さんはもういない。
さっきまで震えるほど、呼吸が苦しくなるほどこらえていた笑いは、一瞬で消え去った。
毎日同じ事と同じ人との日々に辟易していた荒木さんは、グラフィックだか何だかの学校に通い、知らない広告会社に転職をした。
【研修終わった頃、飲みにでも行こうよ!】
やりがいのあるキラキラした毎日が嫌でも目に浮かぶ。
【了解です!】
きっと会うことはもうない。
白木のおならが笑えるのも、常務が怯えるのを笑えるのも、ここにいるからなのだ。退屈な同じ毎日を繰り返すことを幸せと勘違いしている私を、荒木さんはきっと呆れている。
一人取り残されたようで、なんだか泣きそうになりながら、オフィスへ戻る。
時計を見るともう13時だ。食べなかった弁当箱に蓋をしていると、横からスッとメロンパンを差し出された。蓬田だ。
「あとでお腹空いたら食べてください」
「え?あー、ありがと」
なんのこっちゃと思いながらメロンパンを受け取る。何か言いたげな蓬田は、なかなか席に戻ろうとせず、遠くを見ている。
なんなのかと周りを見渡すと、うだつの上がらないオッサンどもが全員こちらを見ている。
「あの、なんかあったら言ってください。なんか、嫌な事とか、なんか、すいません」
なんか、なんかと口ごもりながら小さな声で蓬田が言う。
「いや、なんもないけど・・」
貰ったメロンパンを手に取りながらハッとした。あ、そうか。泣いてると思われたんだ。むしろ笑ってたと白状しなきゃと蓬田とオッサンどもを見渡す。
この感じきっと。泣いたと思った私が出て行ったあと、話したんだろうな。どうした?急ぎの仕事頼み過ぎちゃった?プライベートでなんかあったんでしょ。荒木さん辞めちゃったからさ。1人だもんね、女の子。おじさんには相談できないよな。
そんできっと。蓬田、お前聞いてやれよ。えー俺っすか?その甘いパンあげろよ。とかなんとか。
30手前の女の涙とか、みんな困っただろうな。焦っただろうな。でも何とかしてあげなきゃって思ってくれたんだろうな。
クックックック。突如笑いがこみ上げる。もういっか。思いっきり笑うか。
アーハッハッハッハ!
蓬田もオッサン達も引いている。気でも狂ったかと心配しているんだろう。大笑いする私の声が響き渡るなか、誰かが「三上さん、情緒どうなってんのよ」と茶化しだし、みんなも一斉に笑い出した。もう構わない。私は今、猛烈に幸せを感じている。誰かや何かと比べるのは勿体ないほど幸せを感じている。
「もう13時過ぎてるから働いてー」
山本常務がパンパンと手を叩く。元はと言えばお前のせいだよと心で毒づきながら、メロンパンをひとかじりした。美味しい。
しかし。あー面白かった。
あとで荒木さんに報告しよっと。