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第20話 聖域

 助手席のドアミラーの端に何かが光り、源次郎は咄嗟に運転席側のドアの外を見た。そこは河北潟の葦が生える水辺ではなく、休耕田を再利用した太陽光発電パネルが何列も設置された砂地だった。


(水じゃない、土だ!)


 源次郎はシフトレバーを下ろすと右足で思い切りブレーキを踏み、黒い革のハンドルを上半身の力いっぱいに込めて握り続けた。後輪が空回りする。


(ま、マジですか!)


 助手席側のフロントドアに、シルバーグレーの捜査車両のバンパーが遠慮なく突っ込みボンネットが大きく跳ね上がった。タクシーはその勢いに押されて太陽光発電パネルの何枚かを吹き飛ばし、ドアミラーが捥げ、ピラーが粉々に砕け散った。エアバッグが源次郎を押し潰すと助手席側のエアバッグも飛び出し、その衝撃で芽来は後部座席のシートに吹き飛んだ。


 周囲で一斉に赤色灯が回り河北潟干拓地を赤く染めた。ばらばらとパトカーから飛び出してくる警察官がタクシーの後部座席のドアをこじ開けると気を失った芽来を車外に引き摺り出した。


「確保、確保ーーーーーー!」


 シルバーグレーの捜査車両を大破させた張本人が源次郎の肩を揺さぶった。


「しまじろー!大丈夫か!」

「井浦さん」

「死ぬな!死ぬなーーーーーーー!」

「い、うら、さん」

「なんだ!」

「む、無茶しないで下さい」


 井浦は通算二台の石川県警捜査車両を廃車にした。





 石川県警捜査一課の一角、愛想の無い小部屋に黒いTシャツと黒いスウエットパンツに着替えためぐむがギシギシと鳴るパイプ椅子に座っていた。細い手首には手錠が掛けられている。部屋の片隅では警察官がノートパソコンを開き二人の会話を丁寧に拾い上げキーボードに打ち込んでいた。


 化粧を落とした恵は女装していた時の可愛らしい面影はあるものの、夜が明け陽が高くなる頃には顎に髭が生え始めた。当然、胸の膨らみはなく正真正銘の男性である事は明らかだった。目線はグレーのスチールデスクに落としたまま微動だにしない。

 井浦は泥だらけになったコートを脱ぎ、濃灰色のスーツに黒いワイシャツ、濃紺のネクタイをやや緩めて足を組みパイプ椅子にふんぞり返っていた。


「名前は」

「めぐむ、けい、めぐ」

「三つもあるのかそりゃ結構なこった」

「年齢は」

「分かりません」

「現住所は」

「ありません」

「家族構成」

「みんな死にました」

「そうか、気の毒だな」


 どこまでが真実でどこまでが空想の世界なのか定かでは無いが、めぐむが無戸籍である事、父親と母親が大野牧場近くの蓮根栽培の泥の中から発見された事は揺るぎない事実だった。


 父親が屍蝋化死体になるに至った理由は性的暴行が事の発端だった。


 恵が6歳か7歳(推定年齢)の頃から一年以上の間、山下五雄は実の息子である恵に性的暴行を加えていた。セックスを強要されそれに耐えかねた恵は自宅にあった包丁を持ち出し行為の最中に振り回したという。


※斜め上45度の陰茎、下腹部中心の殺傷痕は低身長ならば可能と推測


然し乍ら多量の出血でも絶命に至らず、山下五雄から日常的にドメスティックバイオレンスを受けていた大野和恵がコタツのコードで首を絞め殺害を試み、近所の沼地(現在の蓮根栽培地)に遺棄した。


「出ました!」


 恵の供述を裏付ける証拠として大野牧場牛舎二階のリフォームされたリビングの壁と床を剥がした結果、血液のルミノール反応が検出された。


 山下五雄殺害後、殺人が露呈する事を恐れた大野和恵は息子の呼び名を変え、周囲には「遠縁の親戚に預けた」とふれまわり幼い息子を牧場の二階に閉じ込めて育てた。昼間は屋内でテレビのビデオを見るように言い付け、夜間のみ牧場敷地内の暗闇で遊ぶ事を許した。また、無戸籍ゆえ小学校中学校の義務教育を受けておらず、体調を崩した時は医者にかかる事も無く市販薬で治療した。


 そして今から六年前、芽来という少女が突然大野牧場に現れた。それは身長や腕力が母親を上回った恵だった。これまでのネグレクトに対する鬱憤と怒りで恵は母親に殴る蹴るの暴行を加え、幼い頃にをなぞるようにその皮膚にタバコの火を度々押し付けた。


 ようやく手に入れた自由。


 ところが、蓮根栽培の泥水から山下五雄の死体が発見されたと知った大野和恵は自首する事を決意した。恵は「警察署に出頭する」と言い家を出た母親の首を発作的にコタツのコードで締め、をなぞり蓮根栽培の畑に遺棄した。






 恵はを墓に埋めたにも関わらずそれは何度も掘り返され、更に芽来の周囲を嗅ぎ回る不穏な動きに苛立ちを隠せなかった。誰かが自分の素性を明かそうとしている。そこで脳裏に浮かんだのは下弦の月の夜、大野牧場に停車していた一台のタクシー、北陸交通株式会社の101号車だった。


「邪魔だったのよ」


 恵は精神鑑定に回される事となった。





「この疫病神!」


 右肩や肘、膝に怪我を負った源次郎は佐々木咲に泣きつかれ、井浦は佐々木咲に疫病神と怒鳴られマンションから叩き出された。





ぴーちちちち




 長閑のどかな河北潟干拓地に井浦結と島畑源次郎の姿があった。源次郎は畦道に腰を下ろすと白と黄色の菊の花を蓮根栽培の沼地に手向けた。そして線香に火を点け、薫る煙に目を細めながら静かに手を合わせた。


「井浦さん」

「なんだしまじろー」

「彼にとってこの場所はお墓なのかもしれませんね」

「墓ぁ?」


井浦は口に咥えていたタバコの吸い殻を革の靴で踏み潰した。


「父親も母親も、まぁ僕も埋葬されるところでしたが」

「とんでもねぇな」

「ある意味、神聖な場所だったのではないかと」

「そうかぁ?」


「子どもの頃の自分をここに埋葬して、女の子の芽来さんとして人生をやり直したかったんじゃないかな、と、僕はそう思いました」


「まぁ、あいつは不憫だな」

「はい」



ぴーちちちち


 源次郎はヨイショと立ち上るとジーンズのポケットに手を入れ、路肩に停めた黒い捜査車両へ向かって歩き出した。


「井浦さん、あの覆面パト捜査車両、どうしたんですか」

「県警の前に落ちてた」

「へぇ」


 背伸びをする形の良い肩甲骨、井浦はその背中に向かって声を掛けた。


「なぁ、しまじろー」

「はい」

「俺と同じ墓に入らないか?」

「はぁ」

「考えておいてくれ」

「それは咲さんに相談してみないと分かりません」

「ちっ」





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