源次郎の脇には汗が滲み始めた。これまでなりを潜めていた芽来がなぜ自分の運転する101号車を指定してタクシーに乗り込み
「あ、あの」
街灯も疎、電信柱の影が等間隔に並び電線が緩やかな弧を描く黒ばかりの景色。河北潟に注ぎ込む浅野川の短い橋に差し掛かった頃、源次郎は無言でタクシーの後部座席に座るゴシックロリータのドレスを身に纏った少女に声を掛けた。素朴な疑問だった。
「なんでしょうか」
「お客さまと僕、何処かで会いました、か?」
橋の繋ぎ目で大きく車体が弾んで急な下り坂を滑り降りた。一時停止の標識でブレーキペダルを踏む。T字路に立つ青い看板には、右矢印が国道8号線、左矢印が内灘方面と表示され、ヘッドライトに白く映し出された。ウインカーを左に上げると方向指示器がリズムを刻んで源次郎を河北潟干拓地へと誘う。喉の奥が詰まった。
「会ったわ」
「え」
「月が半分の夜、私の牧場で会ったわ」
確かに。屍蝋化死体が蓮根畑で発見された直後に井浦に指示されこの場所に来た。井浦がうさぎの糞と格闘しながらタバコに火を付けた直後、暗闇から現れた三つ編みおさげの女性が芽来だったのだ。
「あぁ、あの時の。勝手に牧場の敷地内に入ってすみませんでした」
「いいえ」
「でも、あんな暗い所で怖くないんですか」
「私の家だから怖くないわ」
「そうですよね!」
「ええ」
対向車線には誰が使うと言うのか、桜並木が途切れる場所に緑色の電話ボックスが白々しく暗闇に浮かび上がっていた。ここはいつ通っても気味がわるい。目の前の白い車線の傍らには河北潟から這い上がったミシシッピアカミミガメが無惨な死を遂げている。
(帰りは内灘の大通りから帰ろう)
「でも、懐中電灯も持たずに何をしていたんですか」
「見回りをしていたの」
「あぁ、牛さんがいますもんね」
「誰かが
「え?」
「なんだか周りが騒がしくて嫌だったの」
プププ プププ プププ
その時、右耳のワイヤレスホンが鳴った。携帯電話の着信表示画面を見ると井浦の名前が表示されていた。
プププ プププ プププ
井浦が発した携帯電話の着信音が源次郎の右耳で鳴り響いている。低いエンジン音、四本のタイヤが路面を擦り小石を弾く。この狭い車内ではワイヤレスホンの音が外に漏れているのではないかと内心、気を揉んだ。
「運転手さん」
「は、はい」
「電話、じゃないの」
「は、はい」
「出なくていいの」
やはり聞こえていた。
「お得意さんです。電話に出ても宜しいですか?」
「手短にね」
「はい」
右耳のワイヤレスホンのボタンを押す。
「はい、島畑です」
「おう、俺だ」
「はい」
いつもより静かな声が返って来た。
「これからは返事だけで良い、良く聞け」
「はい」
「お前の車に乗っているのは芽来じゃねぇ、
「はい」
「大野牧場の消えたガキがそいつだ」
「はい」
「その先をまがっ・・・・」
そこで突然井浦の声が途絶え無音の世界が広がった。助手席を見ると赤い爪が源次郎の携帯電話の液晶画面に触れ、芽来の顔が真横にあった。
「ヒッ!」
「手短に、と言ったでしょう」
(あ、これ、は)
そこで源次郎は首に違和感を感じて左手で喉元に触れた。ゴクリ、喉仏がぎこちなく上下する。何かが後部座席からプラスチックの安全板の隙間を通り、ヘッドレストと源次郎の首を絡めて後部座席へと続いている。
(これは、コード、かな)
ツルツルとした手触りで形状は平たく幅は細め、真ん中に浅い窪みを感じた。家電製品の白いコードが源次郎の首に巻かれていた。ルームミラーを覗くと暗い後部座席に芽来の十字架のピアスが光りを弾き、前方から流れて消える白い街灯に真っ赤な口紅が浮かんだ。
「その先で右に曲がって」
「はい」
101号車は河北潟干拓地の直線道路へとウインカーを下ろした。
ウインカーの音が途絶えたタクシーは、緩い上り坂から続く橋の凹凸でガコンと車体を跳ね上げた。源次郎の喉仏のすぐ下に掛けられた電源コードがその弾みで首をグッと締め付けた。
「ゲボっごほっ」
「運転には気を付けなさい、逝っちゃうわよ」
「ど、何処にですか」
「あの世よ」
源次郎は緊張で乾き切った口で芽来に問い掛けた。
「蓮根畑の中に行くんじゃ無いですか」
「誰が」
「僕が」
「そうなるわね」
ぎゅっと首のコードに力が込められる。
「そんな事したら、僕とこのまま河北潟にドボンですよ」
「・・・・・・」
「良いんですか」
車一台すれ違えるか如何かも分からない干拓地と水辺の葦の壁を突っ切る一本道はもやに包まれ、ヘッドライトの白い線が空に向かって伸びていた。時速40kmにも満たない速度でノロノロと前に進むと、助手席側に何本かの
(ーーーーーーあーーー、この先にあるんだよな、蓮根畑)
よそ見をする度に電源コードは襟元を強く締め付けた。
「め、芽来さん」
「なに」
「あなたは
「あぁ、知ってたの」
「はい」
少しばかり力が緩んだのを感じた。
「なぜ、
「特別に私の本当の名前、教えてあげましょうか」
「はい、ぜひ」
芽来の顔が運転席と助手席の間ににゅっと出て源次郎の顔を凝視した。その不気味さに源次郎の身体には鳥肌が立った。
「私は嘘で出来ているの」
「嘘」
「戸籍もなければ保険証もない、マイナンバーカードもない」
「はい」
「この世の中には居ない人間なの」
「はい」
芽来はフロントガラスに広がる干拓地とその一本道を眺めながら話を続けた。その声は何処か悲しげでもあった。
「お父さんが生きていた頃までは
「めぐむ」
「恵まれるの恵と書いて
「だから、芽来さん」
「そうよ」
「でも、お父さんが死んでからお母さんは私の事を
「なぜ」
「色々と誤魔化したかったんだって」
「お母さんが」
「うん」
芽来の体温が少しばかり上昇した。横顔は静かな怒りに満ちていた。ドレスのようなワンピースからは発酵させた牧草の臭いとニコチン臭がした。
「そんなお母さんに腹が立ってタバコを押し付けたんですか」
「なに」
「お母さんの身体には、新しい火傷の痕がありました」
「あなた、そこまで知っているの」
「ええ」
「タクシーの運転手さんなのに」
「成り行き上」
「そうよ、私を嘘にしたお母さんが憎かった」
「お母さんを殺害した理由を教えて下さい」
「だって本当の事を言いたいから警察に行くって」
「はい」
「今まで嘘ばかりだったのに」
「はい」
その時、助手席側の農道で何かが光った。