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第18話 月夜①

  源次郎が左後ろを振り返ると若い女性が前屈みになって運転席を覗いていた。座席右下のレバーを下ろすと軽い音がして後部座席のドアが開いた。車内に一気に流れ込む片町の喧騒、その若い女性は一言も発しないまま黒い革の座席に腰掛けた。ぎしっ。源次郎は名前を確認せず「あちゃー、失敗した」と頭を掻いたが念の為にタクシーに乗り込んで来た客の名前を確認した。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「あ、予約した田中です」

「はい、お待ちしておりました」

「遅くなってごめんなさい」

「いえ、大丈夫です。行き先は、どちらになりますか」

「津幡方面で」


 深夜帯料金で津幡町といえば距離は17km、乗車運賃10,000円超しの美味しい仕事だ。しかも泥酔客ではない。源次郎はレバーを上げて後部座席のドアをパタンと閉めた。「今日の稼ぎは70,000円超しですよ、咲さん!」心の中は羽根が生えたように軽く浮き足立ち、ウインカーを右に下ろしてぐるりとハンドルを右に切り、そして左に戻した。


「あのーお客さま、僕、お客様をお送りした事ありましたか?」


 何気ない会話。若い女性の声はか細く消え入るようだった。


「いえ、一度見かけたんです。101号車、101みたいだなって」

「ディニー映画、お好きなんですか」

「はい。小さい頃、ずっといましたから。」

「ディニーランドは行かれた事はありますか?」

「いえ、一度も」

「あぁ、そうなんですね」

「あまり家の外にので、いつか行ってみたいです」

「楽しいですよ、ディニーシーがお勧めです」

「そうですか」


 源次郎は何気なくルームミラーでその面差しを見た。確かにどこかで会った事がある。金沢駅、夜の片町、いやそんな場所ではない。俯き加減の顔の表情は読み取れなかった。眉の真下で一直線にカットされた前髪、細い三つ編みを両肩に垂らしその先を黒いリボンで結んでいる。更に目線を下へと移動させる。黒いブラウスの大きな襟はフリルで縁取られ、レースやリボンがふんだんに使われた深い葡萄色のワンピース、足元は暗くて見えない。


(鳥籠、鳥籠だ!)


 それは先日、井浦が源次郎の為にとゴシックロリータの店で買い求めたワンピースと同じデザインだった。目を凝らして見るとスカートの裾にはリボンが何本も垂れ下がっている。人気の商品だがその店には色違いの二着しか入荷しなかったと言い、井浦が購入したワンピースの色は黒色。


(これはその色違い)


 ふと鼻に付く臭い。ニコチンだ。この女性は煙草を吸う。それだけではない、嗅いだ覚えのある異臭、これは何だったか。源次郎は大きく息を吸って嗅覚に問い掛けた。これは。これは。


(発酵させた牧草、牛舎の臭いだ)


 プププ プププ プププ


 その時、右耳のワイヤレスホンが鳴った。携帯電話の着信表示画面を見ると井浦の名前が表示されている。


「お客さま、ちょっと、無線を入れます」

「はい」


 源次郎は手元の無線を握り、右上の薄汚れた赤いボタンを押した。現在、源次郎のタクシーは(実車、赤色表示)となっている。


「101、どうぞ」

「はい、101号車どうぞ」


 佐々木咲の声だった。


「101号車、です」

「101号車、もう一度どうぞ」

です」

「了解」


 無線機機を左下のフックに掛けた。


「運転手さん」

「はい」

「行き先、変更しても良いですか」

「はい、どちらでしょうか」

「内灘、河北潟の方へ、お願いします」


 源次郎の喉仏がゴクリと上下した。とうとうイタチが現れた。


(芽来、芽来さんですよ、井浦さん!)


 源次郎の運転するタクシーの白いヘッドライトはこれまでとは真逆の暗い田畠の中を照らし続けた。


 源次郎が発信したタクシー業界の隠語、緊急事態を知らせるを受信した佐々木咲は石川県警に連絡を入れた。


「事件ですか、事故ですか」

「事件です、タクシー強盗かもしれません!」

「あなたのお名前は」

「あぁ、もう!北陸交通株式会社配車係の佐々木咲です!井浦を呼んで!」

「は?」

「井浦、捜査一課警部補の井浦結よ!」


 警察には通報した。次は、タクシー部門責任者である佐々木次長に緊急連絡を入れなければならない。然し乍ら携帯電話を握る手が震え、電話帳画面の文字が揺らいで見えた。


(さ、さ、佐々木次長、あった!)


 電話番号を見つけたが、焦る気持ちに目が泳ぎ視点が上手く定まらなかった。


「あぁ、もう!山田!あんたが佐々木次長に電話して!」


 佐々木咲は隣の椅子に呆気に取られて座っている銀縁眼鏡の山田に携帯電話を放り投げた。そしてパソコンの配車モニターを覗き込むとマウスをカチカチとクリックさせてポインターを金沢市中心部から北西に向かって移動させた。


(浅野川、小坂、いない、高柳、いた!)


 危険人物を乗せた101号車は国道8号線の高架橋を潜り抜け、河北潟干拓地の広がる内灘かほく市方面へと直進している。時速は50km以下、田畠を突っ切る信号機の無い道路、源次郎が時間稼ぎをしている事は一目で分かった。


「佐々木さん」

「なに!」

「佐々木次長がこれから来るそうです」

「責任者なんだから当たり前でしょ!他の配車はあんたが担当して!」

「は、はい」


 佐々木次長とは北陸交通株式会社の役員でタクシー部門の責任者だ。角刈りの小男、白いスーツに黒いワイシャツ、趣味の悪い柄のネクタイ、先の尖った赤茶の革靴、金色の指輪がトレードマークで、その重箱の角を突くような性格は現場のドライバーから忌み嫌われている。

 ちなみに佐々木咲と佐々木次長は同じ佐々木姓だが血縁関係には無い。ただし、チワワとマルチーズと呼ばれるだけあって煩い所は瓜二つだった。



 プルルルル プルルル


「はい、北陸交通配車、山田です」


 山田が取り上げた一本の着信は井浦からのものだった。


「おい、チワワ!何があった!」

「源次郎のタクシーから緊急事態の無線があった!」

「なんだと!」

「乗車したのは若い女性、名前は田中、2:30前後、片町八億年ビル前!」

「なんでそこまで分かるんだ!」

「予約配車!101号車ご指名で予約配車だったの!」

「予約ぅ?」

「そう!」

「顧客か!」

「源次郎は覚えがないって言ってた!」


 一瞬の間。


「おい、チワワ、その客の名前をもう一度教えろ」

「田中」

「田中、田中だと?」

「そう言った」

「クソっ!」


 そこで井浦の電話は一方的に切れ、佐々木咲が「なんなのもう!」と折り返してみたが応答は無かった。その時、社屋の駐車場に複数の車のブレーキ音、一階のアルミのドアが激しく閉まる音がして二階へと足音が駆け上がって来た。その慌ただしさに事務所で売上の精算をしていたドライバーたちは電卓を机から落として驚いた。


「な、なんだ?」

「ありゃ佐々木次長じゃねぇか」

「なんかあったのか」

「事故か、ありゃ警察じゃねえか」


 白いスーツの佐々木次長と三人の警察官が、電話の着信音が鳴り響く配車室へと傾れ込みその扉を勢いよく閉めた。3:45北陸交通株式会社の敷地内には二台の捜査車両が停車し、赤色灯が周囲を照らした。

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