水曜日の片町は定休日。殆どの飲食店や飲み屋はシャッターを降ろし、雨風を避けるアーケード街を行き交う姿は疎だ。こんな夜はイヤフォンで音楽を聴きながら、路地裏から出てくるサラリーマンをスクランブル交差点の角で待つしかない。バス停の白線ギリギリに並ぶタクシーの長い行列は微動だにしなかった。
源次郎の運転するタクシーが歩道の垣根に停車した時、濡れた垣根を乗り越えて後部座席の窓ガラスを叩く人物が居た。こんな狭苦しい場所から乗り込むなんて物好きな客だと手元のハンドルを下げた。軽い音がして後部座席の扉が開き黒い革の座席がぎしっと音を立て、車体が左に傾いた。
「お客さま、どちらまででしょうか」
源次郎が最高の接客スマイルで左後ろを振り向くと、その人物は携帯電話のカメラを向けて連写した。カシャカシャとレンズが立て続けにその笑顔を切り取った。
「え、ちょっ、何するんですか」
「おまえとならなんでも出来る」
「は?」
フラッシュに目が眩んだ源次郎が目を擦ると、鼻息が掛かる距離にいつもの細い鼈甲の眼鏡があった。
「井浦さん」
「おう、源次郎、探したぞ」
「探したって、この行列をずっと歩いて来たんですか?」
「そうだ。おかげでびしょ濡れだ」
「ちょ、それ脱いでくださいよ!」
井浦は渋々ベージュのトレンチコートの袖を抜くと、腰を浮かして長い裾を掴み上げた。そしてカメラの画像フォルダを指でスライドするとニヤニヤと口元を緩め、その一枚を源次郎に見せた。
「ほら、見てみろ。この顔なんて最高じゃねぇか」
「やめてくださいよ!」
「おまえ、いつもこんな顔で客、乗せてんのか、やばいぞ」
「なにが」
「これ、待ち受け画像にするわ」
「はぁ、お好きにどうぞ」
嬉々とした表情の井浦をルームミラーで見ながら源次郎は接客トークを続けた。
「お客さま、どちらまででしょうか」
井浦は「石川県警まで向かってくれ」と助手席のヘッドレストにしがみついた。チラチラと横目で源次郎の横顔を窺い見る。視線が痛い。タクシーはウィンカーを右に下ろして走行車線へと進んだ。
「水曜で雨じゃ商売上がったりだな」
「そうですよ、井浦さんが乗ってくれて助かりました」
「貸切で山代の温泉でも行くか?」
「片道45km、運賃20,000円超え、良いですね!」
「泊まりな」
「遠慮します」
井浦は暗い車内でスーツの胸元を探ると数枚の写真を取り出した。タクシーは赤信号で停車した。
「それ、なんですか」
「コンビニエンスストアでプリントアウトして来た」
「事件の」
「そうだ。どこかで車、停めろ」
「はい」
源次郎は金沢駅西口の片側三車線大通りの路肩でハザードランプを点滅させた。白いLEDライトの街灯の下でタクシー車内のルームライトを灯す。井浦がその数枚の写真を源次郎に手渡した。
「この集合写真は?」
「片町のガールズバーで撮られたものだ」
「この中に芽来ちゃんが写っているんですか?」
「おう」
「どの女の子ですか」
「こいつだ」
井浦が指差した先には、ベルベッドの黒いリボンをツインテールで結び、焦茶のチョココルネパンのような渦を巻いた肩までの髪、首にも黒いリボンを巻き、背中の大きく開いた服を着ている若い女性の
「この服は」
「あぁ、ゴシゴシとか言ってたな」
「ゴシックロリータ」
「それだ、それ」
「後ろ姿しかないんですか?」
「キラキラは写真が嫌だとか言ってカメラを向けると逃げるらしい」
「逃げる」
「おう」
「容姿に自信がないとか」
「いや、どいつに聞いても美人だと言った」
「ゴシックロリータを着た美少女」
「おう」
もう一枚の写真には見慣れた建物が写っていた。
「大野牧場」
「そうだ」
「新しい感じですね」
「十九年前に大野牧場で撮影された物だ。奥能登にある大野和恵の親戚の戸棚からひょっこり出て来やがった」
「2005/10/10」
「ごくごく平凡な三人家族」
「幸せそうですね」
「源次郎、三人だ」
「はい、三人ですね」
井浦がもう一枚の写真を指差した。
「これが二十五年前に死んだ大野和恵の旦那の写真だ」
「え」
「大野和恵の旦那、大野達也は1998年に死んでいる」
そこには痩せ型で目尻の垂れた優しげな男性が黒い紋付袴で白無垢の花嫁衣装を纏った大野和恵と写っていた。源次郎は二枚の写真を手に、もう一度2005/10/10の三人家族の写真とを見比べた。
「この男性は」
「大野達也じゃねぇ。」
「じゃ、この男性は誰なんですか」
「大野和恵の婆さんは、この男が誰だか聞いていたみたいだが、婆さんは天寿を全うしてあの世だそうだ」
「そうですか、親戚の人は」
「この頃から疎遠だった親戚筋は知らねぇと言ってる」
「知らない」
「今、県警ではこの男の聞き込みを行なっている」
十九年前に大野牧場の牛舎前で撮影された三人家族の写真。
大野和恵の隣に並ぶ男性は角刈りで、黒く真一文字の太い眉、頬骨と鼻筋が目立つ面立ち、全体的に見て骨太筋肉質、白いタンクトップに紺色の作業服を腰で結え黒い長靴を履いている。そしてその腕には水色のロンパースを着た、一歳から二歳の男児と思しき子どもを抱いていた。