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第10話 ピロートーク

 雨音がアルミサッシの窓に打ち付ける。昨夜、井浦が「検問だ!」と階段を駆け降りてから、源次郎と佐々木咲はキッチンで睦み合い、ベッドへと崩れ込んだ。


「あ」

「さ、咲さん」


 熱い吐息、激しい息遣いの余韻がリビングに篭った。


「あ、ふ、ふぅ」

「咲さん、お水飲みますか?」

「う、うん」


 マットレスが軽く軋み、ペタペタと裸足がキッチンへと向かう。冷蔵庫のドアが開閉し、佐々木咲の手に雫が垂れるペットボトルが渡された。透明な水をぽってりとした唇に注ぎ込むと喉がゴクリと上下する。


「はぁ」


 二人の額には汗が滲み、それは濃密な行為を身体の芯から堪能した事を表していた。


「き、気持ち良かった」

「それは良かったです」


 源次郎が佐々木咲の唇を軽く啄む。一度トイレに立った咲は、「眠い、ちょっと寝かせて」とシーツに包まり瞼を閉じてスゥスゥと寝息を立て始めた。「さて、と」ゆっくりとベッドを離れて脱ぎ散らかした二人分の衣類を拾い上げ、それを手際よく畳むとソファの上に置く。


「ふむ」


 黒いボクサーパンツを履いた源次郎が歯を磨こうと青い歯ブラシに歯磨き粉をニュルりと絞ったところで階段を力無く登ってくる革靴の音が聞こえた。振り向くと木製ハンガーにいつものベージュのトレンチコートが掛かったままだ。


 源次郎は井浦がインターフォンを鳴らして玄関扉を蹴りあげる前に鍵を開けてドアノブを下ろした。


「おう、今朝はお出迎え付きか」

「おはようございます」

「疲れてんのかスッキリしてんのかわかんねぇツラだな」


 井浦は革靴を脱ぎ捨てるとリビングで呆然と立ち尽くした。佐々木咲がベッドですやすやと寝息を立てている。


「なんだ、これは」

「佐々木咲さんが僕のベッドで寝ています」

「そんはこたぁ、一目見れば分かる」

「なんでそんな悲しい顔をしているんですか」

「・・・・・・・・・・・」

「まぁ、どうぞ座って下さい」

「おう」

「でも、咲さんが寝ているので静かにお願いしますよ」

「・・・・・・・分かった」

「泣きそうな顔ですよ」

「おう」

「はい」


 コーヒーの芳醇な香りに包まれる雨の朝、濡れたスーツの肩のように井浦の顔は湿っぽかった。コーヒーカップを持つ指先が震えている。目はリビングテーブルに落とされたままだ。源次郎は黒いトレーナーのパーカーをもそもそと被った。


「井浦さん、何か悲しいことでもあったんですか」

「今、まさに悲しいところだ」

「はぁ」

「それで何か分かったんですか」


 井浦の手には一枚の写真があった。


「ダイハツ、キャスト、白、車のナンバーも合致、キラキラ女の軽自動車だ」

「芽来さん、見つかったんですか。」


 ところが軽自動車のボンネットは蛇腹じゃばらのように押しつぶされ、フロントガラスには二つの丸い穴とヒビが入り、エアバッグが飛び出してタイヤの前輪は見事に破裂していた。それは無惨にも電信柱に激しく衝突した後だった。


「これ、は」

「竪町の一方通行で検問中、いきなり方向転換して路地裏に駆け込みやがった」

「逃げた」

「ミニパトが追跡したらこのザマだ」

「運転していたのは芽来さんですか?」

「いや、片町にたむろしてる男二人組、病院に連れてったが軽症だ」

「なんで男の人が」

「一ヶ月前にキラキラ女からんだと」

「一ヶ月前」

「大野和恵が蓮根畑にドボンした頃だな」


 源次郎の喉仏が上下して唾がごくんと飲み込まれた。


「それじゃ、芽来さんが大野和恵を殺したんですか?」

「それは分からん」

「何の為に?一緒に働いていたのに?」

「殺しの動機なんざいくらでもあらぁ」

「そうですが」

「キラキラ女の車は明日、鑑識で調べる。こたつのコードの繊維でも出て来りゃ、署にご同行頂けるんだがな」


「それで芽来さんの居場所は分かったんですか」

「片町でフラフラしているらしい」

「繁華街で、何を」

「若い女が家なし、金なし、深夜の片町、やるこたぁひとつだろうよ」

「あ、そういう系ですか」

「その日暮らしの水商売、援助交際、パパ活、売春」

「そんな」

「そんなもんだ」


「キラキラ女のSNSや自撮り画像を探してたんだが、このご時世にそいつぁ、携帯電話も持っていないんだとよ」

「まさか」

「まぁ、誰かが一枚くらいは撮ってるだろうよ」

「そう、ですね」

「おう」

「でも、芽来さんが見つかって良かったですね」

「蓮根畑のお坊ちゃんは見つかってないがな」

「あぁ、男の子」


 井浦は苦々しい感情をコーヒーと一緒に流し込むとベッドの上の豊満な肉体を一瞥して「ケッ!」と悪態を付き、トレンチコートを羽織った。


「また何か分かったら来る」

「別に来なくても良いですよ」

「じゃあな」

「はい」


 玄関扉を後ろ手に激しい音を立てて閉めると革靴はカツカツと階段を降りて行った。佐々木咲がベッドからむくりと起き上がった。


「あ、起こしちゃいました?」

「ずっと起きてたわよ」

「そうなんですね」

「目覚めの悪いピロートークだわ、くそジジィ」

「まぁまぁ」

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