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第9話 ディナー

 昨日、源次郎が運転する101号車は井浦の大野牧場見聞に同行し、その車内は発酵した牧草と牛の糞尿、おまけにうさぎのうんこと悪臭が充満していて他の乗客を車内に乗せる事など出来ない状態だった。いわゆる運行停止、営業終了、半日の売り上げは19,980円と新人ドライバー並みの売り上げで、源次郎は肩を落とした。

 佐々木咲は病欠の配車係の埋め合わせで昼勤務となり、夕方、夜勤社員が出勤すると連絡事項の引き継ぎをしてその席を立った。そこで源次郎と佐々木咲は手を繋ぎ、街灯が灯り始める賑やかな街を楽しみながら帰宅の途についた。


「こんな時間に二人で家に帰るなんて久しぶりだねーーーー」

「そうですね」

「源次郎はいつもはこれから稼ぎ時、いざ片町へ、だもんね」

「咲さんの配車センターは入電で大忙し」

「うふふ」

「えへへ」


 街路樹の下で佐々木咲が少し背伸びをして軽く口付ける。


 普段は気怠い三階の部屋に向かう階段も一段跳び、源次郎の腕にはフランスパンとチェダーチーズ、赤ワインの瓶が紙袋の中でチャプチャプと揺れていた。


「それにしても、この臭い、消臭剤で取れるの!?」

「うーん、クリーニングですね」

「じゃ、替えの制服出しとくね」

「ありがとうございます」


 二人の左手の薬指にはプラチナの指輪、ただし、源次郎の薬指には二人分のプラチナの指輪が光っている。


「今夜なに作ろうか?」

「僕は、咲さんが作る物ならなんでも大好物です」

「もうっ、源次郎ったら!」


 蜂蜜に塗れた甘ったるい雰囲気。ところが、二階の踊り場に辿り着くと28.0㎝前後の縦長の足跡が付着していた。周囲には短く裁断された藁クズが落ちている。それを発見した佐々木咲はキッ!と上階を睨むと階段を駆け上がって行った。


「おぉ、咲さん、若い」


 次の瞬間、ギャンギャンとチワワが吠え出した。


「あ、あ、ああああ、あんた何で此処にいるのよ!?」

「仕事が終わったんだ。帰って来て何が悪い」

「ここはあんたのセカンドハウスじゃないの!」

「テメェのもんでもないだろ!」


 源次郎が手のひらの上で鍵を弄びながら階段を上って来ると、マンションの玄関扉の前には膝を立てて、体育座りをしている井浦の姿があった。


「よう、しまじろー」

「井浦さん、何か分かったんですね」

「分かったような、そうでも無いような」


 源次郎は流れるような動きで玄関の鍵穴にシリンダー錠を差し込み、井浦は立ち上がると尻の埃を払ってベージュのトレンチコートを脱ぐと佐々木咲に手渡した。


「なに、普通に部屋に上がってんのよ!」

「おまえ、入らないのか?」


 佐々木咲の鼻先でバタンと扉が締められ、ご立腹の彼女はパンプスを脱ぐと足裏でガンガンガンと扉を蹴りまくった。すると「やめて下さいよぉ」と呑気な顔の源次郎が顔を出し、佐々木咲は般若になってドスドスと部屋に上がった。水音が半透明のドアを叩く。咲が、首をぐぐぐぐぐと右に回すとシャワールームから鼻歌が聞こえて来た。井浦だ。温度調節のボタンを勢いよくピピピピピピと34℃まで下げた。


「うわっ、なんじゃこりゃ!しまじろー、水じゃねぇか!」


 源次郎は呆れた顔でピピピピピピとボタンを押し、シャワーの湯の温度を44℃まで上げた。佐々木咲はその背中を色白のカモシカのような脚で蹴り上げた。


「ぐほっ」



シャアアアアーーーー



 濡れた髪を適当に乾かした源次郎は、キッチンに立ってミネストローネの湯気が上がる鍋をお玉杓子でくるくると回していた。その隣では、到底似つかわしく無い、水玉模様のパジャマを着た井浦が、小皿でスープの味見をしている。


「どうですか、味」

「美味いよ、しまじろーの作った料理なら何でも美味い」

「それじゃ駄目ですよ、貸してみて下さい」

「ほれ」


 井浦は源次郎の口元に小皿を付けるとそっとスープを流し込んだ。ゴクリと上下する喉仏。


「なんだか三々九度みたいだな」

「なんですか、それ」


 その背後に立った佐々木咲は、手に持っていたフェイスタオルで、二人の背中をバシバシと叩いた。


「ムキーーーーーー!」

「なんですか」「なんだよ」

「源次郎、何しれっとしているのよ!井浦!出禁にするわよ!」

「おっぺけペーーーー」

「こんなのが警部補とか、石川県警も終わりね!」

「ぷっぷぷーーーーー」

「咲さんと井浦さんは本当に仲良しですね」


 その晩は三人でミネストローネとフランスパン、チェダーチーズをつまみに赤ワインのボトルを開けた。


「さて、と」

「此処からが本題ですね」


 佐々木咲が空いた皿をキッチンまで運んでリビングテーブルの上をダスターで拭いた。


 源次郎は運ばれて来た平皿やグラスを泡だらけのスポンジで丁寧に洗い、シンクの中で濯いだ。流れ落ちる雫。


それを井浦が布巾で手早く拭いて食器棚に片付ける。


 絶妙のコンビネーションで夕食の片付けを終えた三人はテーブルを囲んで座った。


「井浦さん、コーヒー要りますか?」

「いや、いい」

「チワワ、お前、飲むか?」

「いらない」

「いらないそうだ」

「分かりました」


 テーブルの下を覗き込んだ井浦が源次郎に向き直った。


「おい、あれどこだ」

「あれ?」

「あれだよ、あれ」

「なに、思い出せないの、老化現象ね!ジジィはとっととお家にお帰り!」

「ウルセェ!」

「ハウス!」

「あれって何ですか?」

「あれだよ、あれ。蓮根畑男の画像とか、諸々だ」


 佐々木咲は「ああぁ、あれね!」と自分の頭をペチペチと叩くと四つん這いでクローゼットへと向かった。クローゼットの奥をゴソゴソと探り、ガサガサと半透明の青いゴミ袋を取り出すと、中に入っていた書類や証拠写真は皺くちゃになっていた。


「この、くそチワワ!丁寧に扱えや!」

「うるさい!」


 そしてリビングテーブルの上に広げられるパステルカラーの”かほく潟マップ”、屍蝋化死体と大野和恵の遺体画像、頸部画像、凶器のこたつのコード、復顔写真。そこに井浦は赤い油性マジックで大きく丸を書き込んだ。


「大野牧場」


 その次に出たのは二枚のタイヤ痕の画像、二枚の車検証のコピーだった。


「これは?」

「大野和恵は軽トラックと、軽自動車二台を所有していた」

「二台」


「一台は押収されていたスズキ社のキャリィ、シルバーで年式は2015年、中古で内灘のガソリンスタンドで購入」

「大野和恵が使用していたのは」

「この軽トラックだ」


「もう一台はダイハツ社、キャスト、白、新車で購入、去年の春だ」

「芽来さんが乗っていたのは」

「これかもしんねぇ、あのジジィの証言が正しければな」

「じゃあ、車のナンバーは」

「ガッチリ抑えた」

「これで解決ですね」


 井浦は正座を崩すと胡座をかいて腕組みをした。そして天井を仰いだ。


「それが、居ねぇ」

「居ない?」

「そんな女は居ない」


 石川県警に戻った井浦は捜査本部に足を運んだ。そこでパイプ椅子にふんぞり返っていた警視正に、「証拠は無いのか!物証は!クソが!」と怒鳴られ、井浦はドーベルマンの如く噛み付き返した。そして大野牧場に通っていたという女性、芽来めぐの存在を示唆した。


「よし、調べてみよう」

「頼むわ」

「なんだ、その口の利き方は!」

「ウルセェ、部下をクソ呼ばわりする奴に言われたかないわ!」

「クソが!」


 そこで芽来めぐが成人前である18歳もしくは19歳と仮定して、捜査本部の指示で各警察の署員が石川県内十四ヶ所の自動車教習所、過去四年間分の受講生名簿のデータを洗いざらい調べた。大野和恵が能登地方出身者だという事も判明しており、輪島、能登中央、七尾、太陽自動車学校については重点的に過去十間年分の記録を確認したがその名前は見つからなかった。


芽来めぐは居なかった」

「教習所に通ってはいなかったという事ですか?」

「そうだ」

「大野牧場の敷地内で、和恵に車の運転を教えてもらっていた?」

「あぁ、なるほどね」

「それで、東蚊爪ひがしかがつめの免許センターで直接免許を取得したかもしれんと思って問い合わせた」

「問い合わせた」

「そんなキラキラネームは登録されていない」

「それじゃ、運転免許証も交付されていない」

「あぁ」

「じゃあ、芽来めぐちゃんは無免許って事かぁ」


 佐々木咲が呟くと、井浦はその手を握った。


「チワワ、お前、すげえな!」

「なにがよ」

「警察犬の面接でも受けて来い!」

「そんな面接あるの?」

「知らん!」


 井浦は「検問だ!」と携帯電話の向こうに怒鳴り付けながら慌ただしく水玉のパジャマを脱ぎ、発酵した牧草の臭いが染み付いたスーツに袖を通した。


「じゃ、またな!」

「もう来るな!」

「おやすみなさい」


 ガツガツガツと階段の床を蹴り革靴の音は階段を降りていった。ベージュのトレンチコートは木製のハンガーに掛かったままだ。


「行っちゃいましたね」

「そうね」

「無免許、そうですよね」

「市役所とか警察ってどうしてあんなに頭がガチガチなのよ」

「咲さんは冴えてますね」

「普通そう思うでしょ」



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