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第8話 大野牧場

 牛舎の入り口には(感染予防の為立ち入り禁止)という黄色地に赤い文字の看板、足元には泥落としの麻のマットと、アルコール消毒液が流し込まれたプラスチックの底が浅い四角い箱が置かれていた。消毒液は茶色く濁り、藁が何本も浮いている。


「井浦さん」

「なんだ」

「感染予防って書いてありますよ?」

「そんなもん関係ぇねぇだろ、もう牛も限界だ」

「あぁ」


 事件から一ヶ月は経過していた。闇夜から現れた女性が家畜の世話をしていたにせよ一人では到底追い付かなかったのだろう。紐に繋がれた牛の尻の下には糞尿が溜まり汚水を流すアスファルトの窪みは詰まってしまい機能を果たしていなかった。牛の口元に引っ掛けられた柵の水飲みボウルも底をつき、藁床に横になって動かない個体も見られた。


「こいつら先は長くなさそうだな」

「そうですね」


 牛舎に足を踏み入れた井浦はトレンチコートのポケットからグレーの千鳥格子柄のカルバンクラインのハンカチを取り出すと鼻を押さえた。ムワッと鼻腔の奥深くまで入り込む、発酵した牧草の匂いが身体に纏わりつく。源次郎も濃灰の制服ジャケットの袖で鼻と口を覆った。


「ちょ、ちょっと。何処に行くんですか」

「ここだよ」


 井浦が顎をしゃくった先には、白っぽく乾いた泥の足跡痕が付着する木製の急な階段があった。そこには立ち入り禁止の黄色いテープがだらりと張られている。


「立ち入り禁止ですよ」

「俺は警察だ」


 井浦はスーツの胸ポケットから警察手帳を取り出して源次郎に見せた。焦茶色の革の手帳には水色の背景に紺色の制服、神経質な面立ち、への字になった薄い唇の写真、その男性は、警部補 、制服のエンブレムが図案化された記章がもれなく付いている。源次郎は何度見せられてもこの警察手帳は本物なのだろうかと疑ってしまう。


「こんな時だけまともな警察官になるんですね」

「俺はいつも警察官だ」

「はいはい」


 井浦が階段に足を掛ける。ぎしっ。


「殺害現場かもしれないのに、荒らしても良いんですか?」

「もう鑑識が調べ尽くした」

「そうですか、怒られても知りませんよ」

「おう」


ぎしっ

ぎしっ

ぎしっ

ぎしっ


 その階段は牛舎の脇、古びた洗濯機の横に二階へと続いていた。窓は歪な凸凹のガラスが嵌め込まれ景色が歪んで見える。窓枠も木で作られており、この牛舎が昭和初期から中期に掛けて建てられたのだと物語っている様だった。


「ここは」

「大野家の住まいだったんだろうよ」


 簡易な水廻りにシステムバス、トイレ、短い廊下を挟んで両側に部屋が有った。向かって左側は北向きで寒々しく、物置のようだった。南向きの部屋はリビングルーム兼寝室らしくフローリングにシングルの簡易ベッドが一台、こたつ兼用の真四角のローテーブル、プラスチックの衣装ケースが三個積み重なり、窓枠はアルミサッシに取り替えられていた。窓からは牧草地が見渡せた。


「ここに、大野和恵とあの女性が住んでいたんでしょうか」

「ベッドが一台」

「ううーん」


「井浦さん、このこたつのコードが凶器なんですか?」

「馬鹿言え、最新式のフラットヒーターだよ」


 源次郎がひざまづいてこたつの底を覗くと確かに出っ張りのないヒーターが貼られている。


「これ、膝がぶつからなくて良いですね」

「そうだな」

「こたつ、良いなぁ。買おうかな」

「良いな、二人で入ろう」

「僕と井浦さんじゃ狭すぎますよ」

「それが良いんじゃないか」

「そうですか?」

「そうだ」


 井浦は凶器になったこたつはこの牛舎の一番奥に立て掛けられていたと言う。隠蔽する気などさらさら無かったようだ。換気をしようとアルミサッシの窓に手を掛けると、鑑識が指紋採取したであろうアルミニウムの金属粉が残っていた。


「これでお宝がザクザク出たろうよ」

「お宝、ですか?」

「指紋だよ、複数人の指紋が出りゃ一発だ」

「なら、ここじゃなくて県警本部に行きましょうよ」

「やだ」

「子どもですか」

「今度うちに中署金沢中警察署から異動して来た警視正が気にくわねぇ」

「子どもですか」


 源次郎が窓を開けると、牛舎の糞尿と腐った藁の臭いが室内に流れ込み最悪の状況を作った。よくこんな環境で暮らせたものだ。


「ちょ、く、くせぇ!閉めろ!閉めろ!」

「は、はい」


 ふと目を落とすと、首から薄汚れたタオルをぶら下げ、泥だらけのトレーナーを腕まくりし、デニムのジーンズ、黒い長靴を履いた中年男性が手を振った。



「おおぃ、あんたら何しとんがかね」

「あ、すみません。今、降ります!」

「なんだ」

「農場、の方のようです」

「じゃ、降りてみるか」

「はい」


 井浦と源次郎はその男性の元へと向かった。


「おい、源次郎、電気消せ!」

「あ、ごめんなさい」


ぎし

ぎし

ぎし

ぎし


 井浦と源次郎がぎしぎしと音を立てて木製の階段を降りると、牛舎の扉から一人の男性が訝しげな顔でこちらを見ていた。手には紺色の萎びた作業帽を持ち、不揃いな白髪混じりの髪と無精髭、首には薄汚れたベージュのタオルをぶら下げ、泥だらけになった長袖のトレーナー、軍手、デニムのジーンズ、黒い長靴はぬかるんだ地面に埋もれていた。


(・・・・中肉中背、推定年齢40代後半から50代)

「あんたら、何しとんがかいね」

「あぁ、すみません。大野和恵さんのお宅を拝見していましてね」

「ほうか、警察の人か」

「はい」


 井浦は至極真面目な表情で警察手帳を胸のポケットから取り出し、その男性の目の前に突きつけた。なんとも警察官姿である。


(・・・・いやいや、井浦さん、そんなに目の前で見せなくても)


 案の定、その男性は後ろに一歩下がってそれを繁々と眺めた。


「はぁ、これが本物の警察手帳なんか」

「そうです」

「井浦、井浦さんちゅーんか」

「はい」

「警察ならなんもかんも持って行っとるけど、まだなんか探しとるんか」

「あぁ、女性を」

「女、女け?」

「はい」


 その男性は1km離れた隣の牧場の主人だと言った。大野和恵が亡くなった後、一人の若い女性と牛の世話をしながら牧場を管理していたが、その女性はある日を境に大野牧場に姿を見せなくなり、作業が滞り途方に暮れていたのだと渋い顔をした。


「このままやとここは廃業やな」

「そうですか」


「その方のお名前はご存知ですか?」

「あぁ、めぐちゃんか?」

「はい。めぐ、めぐとはどんな漢字で書かれるのでしょうか?」

「漢字か?春が来るみたいな名前やなぁって言うたら喜んどったわ」


 井浦はメモ帳を取り出すとボールペンを握った。


「どんな?」

芽来めぐ、ふきのとうの芽の”め”で来年の”らい”でめぐ」

「はぁ!?」

「井浦さん、キラキラネームですよ。当て字です」

「はぁ、そうか。キラキラな、キラキラ」


「芽来さんの苗字や年齢、住まいなどはご存知ではありませんか?」


「苗字は知らんが和江さんの遠縁の娘さんだとか言っとったな、歳は、もうすぐ成人式や言うとったし、18歳、19歳それくらいやないか?」

「そうですか」

「はい」

「お住まいは?」

「さぁ、そこまでは。金沢から来とった」

「牧場にはご自身の車で?」

「そうや、軽自動車運転しとった。」

「車の色は、ナンバーは覚えていらっしゃいますか?」

「車の色は白かシルバーみたいな感じや。ナンバーは見とらん」

「そうですか」


「ほんなら、わし、仕事があるさけ」

「ありがとうございました」


 男性は少し離れた倉庫の前に停めてあったトラクターに乗り込むと、泥水を跳ね上げながらブルッンブルンと車体を上下させ、低速でポプラ並木へと姿を消した。静まり返る大野牧場に力無く響く牛の鳴き声。


「井浦さん」

「そうだな、あの夜の女がキラキラネームだ」

「芽来さんですよ、失礼ですね」

「大野和恵の遠縁の娘か、気になるな」

「そうですね」

「鑑識にタイヤ痕を調べてもらうか」

「それで何かわかりますかね」

「蓮根畑のお坊ちゃんの死体と、キラキラネームの若い女、どちらが先に見つかるか楽しみだな」

「また、不謹慎な」

「しまじろー、県警まで頼む」

「かしこまりました、うさぎのウンコは踏まないで下さいよ」

「その前に牛の糞まみれだ」

「うわ、最悪」


 最悪なのはその後だった。大野牧場に滞在している間にすっかり発酵した牧草と糞尿の臭いに塗れた二人がタクシーに乗り込むと、それはまるで密閉されたジップロックの中に閉じ込められたようで眩暈と吐き気を催した。


「井浦さん」

「なんだ」

「この臭いじゃ僕、今夜の仕事は運行停止ですよ」

「運行停止?」

「仕事が出来ないって事です」

「そりゃご愁傷さまなこった、時給換算で俺が雇ってやっても良いぞ」

「仕事はなんですか」

「ふふふ」

「・・・遠慮します」


 助手席に座る井浦は、真剣な眼差しでタクシーを運転する源次郎の横顔に目を細めた。

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