北陸交通株式会社、通称
「はい、北陸交通、田中です」
「おう、一台、石川県警まで回してくれや」
「はい、今からですか。場所は正面玄関でしょうか?」
「いや、県庁の駐車場入り口で待ってる」
パソコンを見た配車係が不思議そうな顔をした。配車センターのパソコン上には、客待ち顔した二台の空車のタクシーが緑色で表示されている。
「お客さま、今、そちらのタクシー待機場にはうちの車が二台おりますが」
「ダメだ」
「はい?」
その男性客は強い口調でそのタクシーには乗らないと言い張った。
「しまじろーを呼べ」
「し、ま?」
「あぁ、101号車のタクシーだ!乗ってんのは島畑って男だろう!」
「少し、お待ち下さい」
銀縁眼鏡を上下させパソコンの画面を切り替えると、確かに101号車のドライバーは島畑源次郎と表示されて居る。
「あ、はい。では101号車がお迎えに行けば宜しいですか?」
「そうだって言ってるだろう!このくそが!」
「も、申し訳ありません」
「何分で来る」
101号車は石川県警まで一直線、3km離れた金沢駅西口タクシープールに待機していた。所要時間まで11分前後。
「金沢駅から向かいます、10分から15分です」
「分かった、じゃ、頼む」
「あ、お客さまのお名前は」
「井浦だ」
「はい、井浦さま。かしこまりました。では少々お待ち下さい」
銀縁眼鏡の男性社員は西日のやや傾きかけた金沢駅西口のタクシープールで休憩しているだろう101号車に無線連絡を入れた。タクシー営業は走ってなんぼの世界、一人でも多くの客を乗せれば月給の手取り額は増える。然し乍ら、八時間勤務は厳守、多くのドライバーは一時間の休憩は金沢駅東口、もしくは西口のタクシープールで北陸新幹線の到着を待ちながら運転席の座席を倒して疲れを癒やす。
源次郎はトイレにも近く、コンビニエンスストアに面したこの待機場を特に好んで利用する。北陸新幹線の到着まであと30分はあった。
ピピー ピピー ピピー ピピー
突然鳴り響く無線の呼び出し音、源次郎は慌てて起き上がり額をルームミラーの角にぶつけた。本社配車センターのパソコンでは源次郎の101号車が金沢駅西口のタクシープールで
(あぁ、井浦さんが言っていた「明日な」はこの事か)
「はい、101どうぞ」
「101、待機中に悪いんだけどプールから外に出られそう?」
「あ、大丈夫です。予約配車ですか?」
「そう、今すぐご指名、行き先は・・・」
「石川県庁駐車場、県警の井浦さんですね」
「そう、知り合いなの!?」
「まぁ、腐れ縁というか」
「口、悪いよねぇ」
「すみませんでした」
その背後で佐々木咲が「井浦からの配車は取るな!」とギャンギャンうるさく吠えていた。
「さて、と。行きますか」
源次郎は運転席のシートを元の位置に戻すと、駐車スペース一台前の他社タクシーに退いて貰い、アクセルを緩やかに踏んだ。行き先は河北潟だろう。赤信号で停車した口元は期待で楽しげに緩んでいた。
河北潟の周囲には開拓された砂地や田畠がどこまでも続き、見渡す限り何もない。南の方角に向かい太陽を仰ぐと左手には津幡町、右手には内灘町、その高台には内灘医科大学病院の高層病棟と、日本海から吹き付ける激しい風で斜めに傾いた防風林の松林が見える。麓に点在する酪農農家と牛の放牧地、その一角に死体が沈んでいた泥地の蓮根畑があった。
「じゃ、頼むわ」
「ありがとうございました」
「おう」
井浦は、赤いギンガムチェックのカフェカーテンが吊るされた丸太小屋の中に声を掛けた。その手にはワッフルコーンに絞り出されたバニラのソフトクリームを握っていた。
「大野牧場のソフトクリームだと」
井浦は舌を出してソフトクリームをべろりと舐めると、タクシーのトランクに寄り掛かる源次郎の唇の前にそれを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
源次郎は何の躊躇いもなく先の尖ったソフトクリームの下部から先端に向けてネロリと舐め上げた。その舌の微妙な動きを、井浦は惚けた表情で凝視した。
「井浦さん、何でソフトクリームなんですか」
「いや、違法駐車でタクシーがしょっ引かれても困るからな。ちょいと駐車させてくれと頼んで来た」
「なるほどです」
源次郎が運転するタクシーは石川県庁の駐車場で井浦を乗せ、河北潟干拓地へと車を走らせた。死体遺棄現場への細い農道は車両の通行が禁じられており、タクシーは現場に程近い(もーもーミルク)と書かれた看板が掲げられた乳製品直売所の砂利の駐車場でサイドブレーキを踏んだ。そしてこの場所は下弦の月の晩、井浦がうさぎの糞を踏んだ場所でもある。
「あれは、何をやっているんですか?」
眩しい太陽に手を翳した源次郎が指差した先には、ゴムで出来た胸付ズボンを着用した青い帽子の男性が数十名、横一列に並んで蓮根畑の泥水を攫っている。
「あぁ、あれか。県警の奴ら無戸籍の男児の遺体を探してやがる」
「県警の奴らって、井浦さんも県警の警察官じゃないですか」
「そうとも言う」
「集団行動は大事ですよ」
「タクシードライバーのおまえには言われたくないがな」
「まぁ、ドライバーは個人プレイですし」
「男児の遺体って」
「家族諸共、蓮根にされたんじゃねぇかと踏んでいる」
「家族・・・一家全員が殺された?」
「可能性はあるな」
「酷いですね」
「こんな
その光景を横目に二人は農道を歩き始めた。確かにうさぎの糞が点々と転がり、井浦はそれを踏まないように革靴を前に進めたが、遠目には小躍りしているように見えたに違いない。
「おま、しまじろー、おまえ、うさぎの糞は平気なのか」
「いえ、僕はこれがありますから」
源次郎は白い足カバーを履いていた。
「てんメェ、それがあるならあると先に言えや!」
「井浦さんなら気付くと思っていたんですが。気が付きませんでしたね」
ヘラヘラと笑う源次郎、井浦はその背中を追う事で精一杯だった。
「ちょ、待て、待て!」
「あぁ、井浦さん。ここは綺麗ですね、空気が澄んでる」
「牛臭えだけじゃねぇか!」
軽トラックが脱輪しそうな細い農道の両脇には、地平線が見えない青々とした牧草地が広がり、それを刈り取りロール状にラップした物があちらこちらに置かれていた。
「あれは?」
「発酵させて牛に食わせるんだと」
「はぁ、でも、大野牧場にはあれを全て食べさせる程の牛が飼育されているようには見えませんが」
「貸し出してるんだと」
「あのロールをですか?」
「いや、この牧草地を近隣の酪農農家に貸し出して、その金で生計を立てているんだとよ」
確かに、夫に先立たれた大野和恵がこの農場と牧草地を一人で管理出来る筈は無かった。うさぎの糞が消えて砂利道が続くと、やがて朽ちかけた牛舎が五棟並んだ。然し乍らその殆どに牛の息遣いはなく、ただ一棟の牛舎に八頭のホルスタインがモシャモシャと餌を食んでいるだけだった。
「え、井浦さん、これ」
「こりゃあ、酷いな」
牛舎の壁や出入り口の扉には、白い紙に赤いマジックで罵詈雑言が書き殴られていた。それはこの殺人事件の捜査に依って蓮根畑を荒らされ収穫する筈だった蓮根が出荷出来なくなった農家からの嫌がらせではないかと思われた。
出ていけ
人殺し
これは誰に宛てたメッセージなのか。この牧場の主人である大野和恵は蓮根畑の中に横たわっていた。また、夫の大野達也が病死した二十五年前にその親類縁者は牧場の経営から手を引いている。ならば現在、この大野牧場で牛の世話をしているのは誰なのか。
「あ、あの女!」「あの子!」
大野牧場へと続く農道の闇夜から懐中電灯も持たずに現れた長い髪をおさげに結った女性の姿が井浦と源次郎の脳裏に浮かんだ。