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第5話 大事な忘れ物

  夜勤明けにこの低層階のマンションの階段はなかなか堪える。特に昨夜は長距離客の送りが数件立て続けにあり、長時間休憩なしでタクシーの運転席に座っていた源次郎は35歳という年齢も手伝い、腰をさすりながら一段、一段ゆっくりと階段を登っていた。


「ちょっと、源次郎。じじ臭いわよ!」

「そう言う咲さんだって、目の下のクマ、酷いですよ」

「えっそう!?」

「ええ、ヒグマ、グリズリーって感じです」

「あぁ、もう30歳間近!夜勤は無理か!」

「咲さんがいないと配車が回りませんから、頑張って下さい」


 佐々木咲は北陸交通株式会社のタクシー部門で配車係として夕方〜夜間の業務に携わっている。咲はこの気性の荒さから、海千山千のタクシードライバーのクレームや客からの着電対応をそつなくこなす優秀な職員だ。然し乍ら、配車係は休む間も無くパソコンの画面に向かっていなければならない為、お肌の調子はあまり宜しくない。


「あぁ、仕事、辞めようかな」

「寂しいから辞めないで下さい」

「毎日会ってるじゃん」

「疲れている時に咲さんの声が無線から聞こえて来ると俄然やる気になります」

「あぁ、もう源次郎ったら」

「咲さん」


 2人は階段の踊り場で抱きしめ合い、唇を重ねて互いに舌を差し込み口腔内を舐め回した。チュパチュパと廊下に響く艶かしい音、脚が絡み、源次郎の手が佐々木咲の制服の裾へと伸びる。顕になるピンクのパンティ。と、そこで手にしていたコンビニエンスストアの白いビニール袋が床に落ち、源次郎は我に返った。


「あ、また流される所でした」

「何が」

「まぁまぁ」

「にしても、源次郎!エレベーターの有るマンションに引っ越そうよ」

「今は無理です」

「鍵はどうなったの!?」

「今は無理だと言われました」

「むきぃぃぃぃぃ!またあいつが乱入するの!?勘弁してよ!」


 そして、ようやく部屋に辿り着いた二人は夜勤の疲れも手伝い、崩れるように窓際のベッドへと傾れ込んだ。


「あ、ん」


 源次郎の手が制服のブラウスの中に差し込まれ、ブラジャー越しの乳首に触れた。妖しく悶える声に理性が吹き飛んだ源次郎だったが、枕元の目覚まし時計にぶつかりハッと我に返った。


「あ、また流される所でした」

「何が」


 すると源次郎は佐々木咲の両脇を両手で掴むとベッドの上に座らせ、乱れたショートヘアーをぱっぱっと片手で撫で付けた。そして流れるような動作で彼女の左手を手に取った。


「何?」

「何って、左手といえばお決まりでしょう」


 佐々木咲は、難しい顔をして眉間に皺を寄せながら考える事、数秒。次の瞬間、頬が桜色に色付いた。


「え、え!?ええええええ!?」

「はい、そうです」

「えええ!源次郎!!」

「咲さん!」


 源次郎の手には、臙脂色した天鵞絨ビロードの小箱がちょこんと乗っていた。


「まじまじ!?」

「はい」

「源次郎!!」

「はい、僕には咲さんしか居ません」


 二人の身体がゆっくりとマットレスに崩れかかったその時、インターフォンが鳴った。あいつだ。暫く無視を決め込んだがそれは連打され佐々木咲のこめかみに青筋が立った。ところが、源次郎は玄関扉の施錠を忘れていた。


「てめぇ、無視するんじゃねぇ!」


 振り向くと井浦が革靴を脱ぎ散らかして上がり込んできた。


「ちょ、ちょ!また来たの!?」

「おはようございます、井浦さん」

「源次郎、よ!」

「はぁ?咲さん、なんですか、それ?」

だってば!」

「はぁ」


 源次郎は佐々木咲が何を言っているか分からないといった表情でベッドの上で呑気な顔をして胡座を組んでいた。


「緊急事態のでしょうが!」


 () とはタクシー業界の隠語の一つだ。

強盗犯や指名手配犯などを乗車させた場合、タクシー無線を使って(大事な忘れ物)と配車センターに緊急事態を知らせる。配車センターは警察に通報し、救助を求めるのだ。


 佐々木咲は井浦をと見立て、源次郎にその指輪を隠すように伝えた。ところが、伝えたつもりがそれは全く伝わらなかった。


「なんだ、こりゃ」


 井浦は、フローリングの床に転げ落ちていた臙脂色の小箱を拾い上げると躊躇する事もなく蓋を開け、それを繁々と眺めて左の薬指に嵌めた。


「何だ、しまじろー。サイズが合わないじゃないか」

「あ、あんた!なんて事を!」

「はぁ」

「ちゃんと俺の薬指のサイズを測ってから買えよ、ん?」

「ん?じゃないわよ!それはわ・た・しのエンゲージリング!」

「チワワ、何、寝言言ってるんだ、ん?」

「寝言は寝て言えーーーーーーーーーーーー!」


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