井浦結は頭に白いヘアキャップを被り、革靴には足カバー、マスクとエプロンを着け溺死体の検死に立ち合っていた。
相変わらず頬骨に陰を作り、検死台に背を向け壁に手を突いている。
彼は汚泥を筆頭に、湿地帯の泥や沼の臭いが大の苦手で、付き合いの長い刑事はその居た堪れない姿を見て見ぬふりをしたが、事情を知らない所轄の巡査はあっけらかんと「警部補、遺体を見なくても宜しいんですか?」と要らぬ声を掛け、こめかみに青筋を立てた井浦に襟元を掴まれ睨み付けられていた。
「こちらのご遺体は」
「あぁ、もう説明は受けた!例の蓮根畑の男と仲良く埋まってたんだってな!」
「こちらをご覧下さい」
「俺は良い!お前ら見とけ!」
「肺の膨隆、肺並びに肝臓に珪藻類が検出されました。」
「聞いとけ!」
「はぁ」
「メモも忘れんなよ!」
「はぁ」
遺体は女性。年齢は30代から40代、着衣はなく首に紐状の物での圧迫痕、生活反応があり死因は溺死との見立てだった。首を絞められ意識混濁の状態で泥水の中に遺棄された。
そこまで説明を受けた井浦はマスクと足カバー、ヘアキャップを剥ぎ取りゴミ箱に勢いよく投げ捨て、革靴の音を鳴らして逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
「警部補!エプロン!エプロン!」
胸元を見下ろすと微妙な色合いのエプロン。井浦は無理矢理それを首から引きちぎり、カツカツと刑事に歩み寄ってその顔目掛けて叩き付けた。
「面倒だな!」
「決まりですから」
「ウルセェ!」
「はぁ」
その女性の両腕、両太腿には煙草のような物を押し付けられた複数箇所の火傷痕も確認された。その期間は数年前から数ヶ月以内と推測され、ドメスティックバイオレンスを受けていた可能性から警察署への被害届や保護施設への相談がないか捜査が開始された。
源次郎の部屋のシャワーは温度調整が出来ない。井浦は「早く修理をしろ」と口を酸っぱくして言っているが、
「ふぅ、やれやれだぜ」
洗濯かごの中のバスタオルで引き締まった身体の水気を拭き取る。湿り気の残るバスタオルは源次郎が使ったものだ。クンクンと匂いを嗅ぐ。癒される。
(まだ寝てんのか。)
昨夜は夜勤だったのだろう、物音に目を覚ます事なく枕に埋もれている。羽毛布団の中に手を忍び込ませると熱を感じる。堪らない。井浦は下半身にタオルを巻き、源次郎の眠るベッドの端に腰掛けた。窓の隙間の心地良い風がカーテンを揺らし、火照った背中を撫でる。
ギシっ
「・・・・しまじろー」
剥き出しになった源次郎の肩の脇に腕を突き、やや屈み込む。その時、玄関ドアの鍵がカチャンと回り、ドアが勢いよく開いたかと思うと、黒いパンプスを脱ぎ散らかしそこに脱ぎ揃えてあった革靴を踏み付け、踵を鳴らして佐々木咲が部屋に乗り込んできた。
「あんた!また懲りずに!源次郎から離れなさいよ!」
「クソ、うるせぇチワワが嗅ぎ付けやがって!」
「外にあんたの車が停まってたわよ!ファンファン鳴るアレ、どうにかしなさいよ!みんな驚いて二度見してたわよ!」
「ファンファンだぁ?赤色灯って言うんだよ。ぶぁぁぁあか」
井浦が立ち上がると腰に巻いたタオルがはらりと床に落ちた。
「その醜いモノを何とかしなさいよ!」
「オメェには恥じらいってモンが無いのかよ」
「そんなちっぽけなモン、きゃーもわーも無いわ!」
「クソ!」
その賑やかしさに源次郎が目を覚まし、肩肘を突いて起き上がった。
目の前には素っ裸の男の尻、その奥には鼻の穴を広げて怒り狂う彼女。
「あぁ、来ていたんですか。気が付かなくて」
「おう、シャワー借りたぞ」
「はい」
「おう、も、はい、も無いわ!」
この光景は3人にとって日常茶飯事であるらしい。源次郎は黒いハーフパンツの中の尻をボリボリと掻きながら冷蔵庫からコカコーラのペットボトルを取り出した。
プシュ
上半身裸の腰に手を当て、ごくごくと喉に流し込む。その姿さえも愛おしそうに眺める井浦、佐々木咲は床に落ちていたバスタオルをその惚けた顔に押し付けた。
「・・・・さて」
リビングのカーペットに胡座をかく源次郎、正座をする井浦、佐々木咲は不本意ながらも3人分のコーヒーを淹れる湯を沸かしている。
「それで、何かわかったんですか?」
「蓮根畑の男の話はしたよな?」
「屍蝋化した遺体ですね」
「何よ、しろうかって」
井浦は鼻先で笑うと頭の上でクルクルと円を描いてパッと開いて見せた。
「
「一般人は知らないでしょ!」
「おまえも蓮根畑に突っ込んでやろうか!」
「警察官が物騒な事言うんじゃ無いわよ!」
「まぁまぁ、咲も、井浦さんも落ち着いて下さい」
佐々木咲は、眉間に皺を寄せながらも、芳醇な香のコーヒーを、揃いのコーヒーカップに注いだ。これは源次郎と佐々木咲が半同棲状態のこの部屋に、井浦がいそいそと買って来た物だ。何故に三客・・解せない。
「その蝋人形と、もう一体の死体は何らかの関係がある」
「もう一体?」
「あぁ。」
「新しい死体が見つかったんですか?」
「居たんだよ、蓮根畑のど真ん中にな。まだ報道はされていない。」
「それも屍蝋化しているんですか?」
「いや、殺されてピッチピチ新鮮、フレッシュだぞ」
「ピッチピチとかジジィか」
「ウルせぇな」
睨み合う、ハブとマングース。
「そこでだ」
「
「さぁ、聞いてみない事には分かりません。」
「当たってみてくれ」
「あ、はい」
「おい、チワワ」
「何よ」
「タクシーのGPS記録、半月分は残ってんだろ」
「良く知ってるわね」
「俺を誰だと思ってるんだよ」
「人の彼氏に手ェだそうとする、色ボケジジィ」
「誰が、色ボケジジイだよ!」
「ふん!」
「とにかく、その辺りをうろついたタクシーが居ないか調べてくれ」
「なんでよ」
「犯人は犯行現場に証拠が残っていないか確認しに来る、絶対にだ。」
佐々木咲は無言で手のひらを広げ、井浦の前に差し出した。
「チッ、強欲な女だぜ」
「何とでも」
井浦は立ち上がるとベージュのトレンチコートの内ポケットから黒い革の長財布を取り出すと、五百円玉を手渡した。目を半開きにし、眉間に皺を寄せた佐々木咲はそれを床に叩き付け、もう一度手のひらを差し出す。井浦は渋々五千円札をその手に握らせた。そして、「チッ」と舌打ちすると床の五百円玉を拾い上げ、源次郎に手渡した。
「でも、犯行現場に行くのにタクシーなんて使う?」
「幹線道路じゃねぇんだ、バスも電車も通ってねぇ」
「自分の車は?自分の車で行けばいいじゃない」
「・・・・・・」
「あんた馬鹿なの?」
「じ、自分の車だと身元が割れるだろう!」
「じゃあ、レンタカーは!」
「それこそ身元バレバレだろう!」
「タクシーなんて使わない!」
「使う!」
「使わない!」
「あぁ、使うんだよ!クソ、チワワ!」
睨み合う、ハブとマングース。
「まぁ。確率は半々、当たってみるのも面白いんじゃない?」
「源次郎!また甘やかす!」
「面白いじゃないですか?」
「面白いって、今回も危ないんじゃないの!?」
「バァか」
「何よ!」
「男の浪漫がわからねぇ奴は恋人失格だな!」
「うるさい!」
「ふん」
そして井浦と源次郎と佐々木咲の、暴投変化球的な独自捜査が始まった。