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第2話 屍蝋

 井浦結は頭に白いヘアキャップを被り、革靴には足カバー、マスクとエプロンを着けの検死に立ち合っていた。


 河北潟は石川県金沢平野の北部にある農業用の干拓地で海にも近い。そこでは酪農、西瓜、キャベツ、加賀野菜の一つ「加賀れんこん」の大規模栽培が行われている。

 その男は蓮根を栽培する泥の中から脚を出していた。外気と長期間遮断された死体は腐敗する事なく蝋状になり、殺害された当時の状態を保っていた。


「全身が屍蝋化していますから、最低一年以上経過していますね」

「気味が悪いな」

「ビニール製の人形みたいですね」

「井浦警部補、どうされたんですか?」


 井浦は検死台の縁に片手を掛けたまま、水で濡れた緑色の床に目を落としていた。眉間には皺が寄り骨張った頬は真っ青、もう片方の手でマスクの口元を押さえている。


「見なくて宜しいんですか?」

「いや、靴紐が」

「靴紐なら足カバーの中、に」


 そこまで言い掛けたところで自分を見上げた井浦が鬼の形相だったのでその刑事は目を背けた。死体だと聞いてはいたがここ迄とは想像していなかった。しかもマスクを通して微生物満載の泥水の臭いが鼻に付く。


(や、もう勘弁してくれ)


 屍蝋化した遺体は男性、年齢不明、ガッシリとした体格で身長は約183cm、歯型治療痕などから行方不明者リストに該当者がないか照合中との事だった。死因は首周辺に紐状のような物での圧迫痕、失血死との見立てだ。


「局部をめった刺し、性的倒錯者の犯行でしょうか」

「生活反応あり」

「痛かっただろうなぁ」


 蓮根畑男に薄緑色のビニールが被せられたところで井浦が立ち上がった。


「痛えもクソもあるか、チンポ切られた男の立場になってみろ!さっさと現場行くぞ!」


 マスクとエプロンを剥ぎ取りゴミ箱に勢いよく捨て革靴の音を鳴らして逃げるように立ち去ろうとする井浦に部下が声を掛けた。


「警部補!頭!頭!」


 指摘されて気が付き、白いヘアキャップを掴むと蛍光灯の明かりが映るビニールの廊下に叩きつけた。グレージュの髪はボサボサに逆立っていた。



そして2日後、が発見された。




 街灯も疎らな真っ暗な河北潟干拓地を突っ切る直線道路。細い用水路に掛かった段差のある橋を、スピードを緩めず飛び上がる一台のタクシー。ガコンと音を立て車体の底はアスファルトへとダイブした。

白いボディには北陸交通、ルーフには緑色の行灯、バックドアガラスには101とオレンジ色のステッカーが貼られている。


 助手席で激しく跳ね上がり、シートベルトで押さえ付けられ激しく腰を打つ。井浦のグレーのスーツからダークグレーのネクタイが宙を舞った。


「てんメェ!何考えてんだ!」

「ひゃつはー!」

「タクシードライバーならドライバーらしい運転しろよ!アクセル踏むな、踏むなー!」

「営業時間外です、か、らー!」


 シートベルトにしがみ付き、片手でダッシュボードを押さえる。この猫はベッドの上とハンドルを握らせると大虎に変化するようだ。


「足、踏ん張ってください!」

「まてまてまてまて!」


 ハンドルを大きく左に切りブレーキを踏む。左に振られパワーウインドに頬が吸い付く。タクシーは砂煙を上げ、閉店直後のソフトクリーム販売所の芝生の上に停まった。


「おまえ、普通に停まれぇのか!!」

「停まりましたが」

「何しれッとした顔してんだ、免停にするぞ!」


 ブルンブルンと低いエンジン音が静けさの中に響き、助手席にポッと小さな灯りがついた。


「車内は禁煙です」

「一本くらい良いじゃねぇか」

「お断りします」

「チッ」


 砂利を踏む音、ボンネットに寄り掛かった井浦が煙草の煙を燻らす。次いで現次郎がその隣に立ち、腰に手を当てて背中を反らせた。


「で、なんでまた僕の車タクシーで来るんですか?」

「刑事と来ると落ち着かねえ」

「それだけが理由ですか?」

「捜査車両でウロウロすりゃ、来るものも来ねぇ」

「来る?」

「来るさ、がな」

「やったとは」

「殺っただよ。新しい死体がこんにちは。泥の中からな」

「え」

「出来上がってホカホカなのがな」


 井浦の革靴が砂利の上で煙草の煙をすり潰した。

そのまま捨て置くのかと思えば胸からシルバーの丸い携帯灰皿を取り出しピンセットで摘んで入れた。


「なんでピンセットを使うんですか」

「指紋が付くだろうが」

「何か罪を犯すご予定でもあるんですか」

「ねぇよ」


 一服を終えた井浦は、カントリー調のソフトクリーム販売所と背の高いトウキビ畑の谷間を暗闇に向かって進んだ。サイロで蒸した牧草の生臭さがあたり一面に広がっている。夜に馴染んだ目に浮かび上がる低いトタン屋根の小屋は”ふれあい広場”と看板が掲げられた家畜の寝床だ。生き物の気配、ブルルルと低い鼻息が聞こえる。


「井浦さん」

「なんだ」

「気を付けないと、そこ、ウサギの糞、落ちてますよ」


 そういえば先ほどから何やらふにゃりとした感触が革靴の底にあった。

片膝を上げ、手でくるぶしを掴んで鼻先で嗅ぐ。最悪だ。


「そういうことは先に言えや!」

「や、普通、農場に来ればそれくらい分かると思ったんですが」

「使えねぇな!」

「僕は井浦さんの部下じゃありませんからね」

「似たようなモンだろうが」


 下弦の月明かり。

コオロギが鳴き止み、農道の奥から草を踏み締める音が近付いて来た。

 その気配に気付いた源次郎がタクシーのボンネットから身を離そうとすると、井浦はその動きを手を挙げて制止した。月明かりに眼鏡が影を作り、井浦の表情を見て取る事は出来ない。


「何をしているんですか?」


 暗がりに浮かび上がる姿は華奢で、か細い声からその人物が若い女性である事を示唆した。面立ちは判別出来ないが胸までの長さの細い三つ編みを垂らし、白っぽいシャツにオーバーオール、足元は長靴を履いていた。


「あぁ、すんません。ちょっと煙草を吸わせて頂いていました」

「吸い殻は」

「あぁ、大丈夫です。片付けましたから」


 胸元から携帯灰皿を取り出して見せた。

鈍く光を弾く。


「火の取り扱いには注意して下さい」

「あぁ、はい」

「あと、この農場は私有地になりますから、これ以上の立ち入りはご遠慮下さい」

「あんた、いや。あなたは此処のスタッフですか」

「それが何か」

「名前は?」

「あなたに名乗る必要がありますか?」

「確かに」

「では、お願いします」

「へいへい」


 女性は踵を返すと今来た暗闇へと姿を消した。

井浦は腕を組みながら、低いエンジン音に身体を預ける源次郎の元へと戻った。源次郎はおもむろにトランクを開けると何やらガサゴソと取り出している。


「しまじろー、何やってんだ。早くドア開けろ」

「ちょっと待っていて下さい」


 源次郎は後部座席のドアを開け、乗り込もうとする井浦を引き止めて足元に新聞紙を2枚重ねた。


「新聞紙?」

「あぁ、ウサギのうんこを付けた客は乗せません」

「チッ」


 パタンと外側からドアを閉めると運転席に座った源次郎はウィンカーを左に上げヘッドライトを点けた。

 気温差で霧が立ち込めていた。ヘッドライトの白い線が空を切り、数メートル先で途切れている。


「女性・・・・ですか?」

「あぁ、さっきの女は何か臭ぇ」

「はぁ」

「こーんな夜中に女がひとり、こーんな暗がりをテクテクお散歩か?」

「私有地って言っていませんでした?」

「らしいな」

「見回りじゃないですか」

「懐中電灯も持たずにか?」

「それは、確かに」

「臭ぇ」


 源次郎はルームミラーで井浦の顔を見ながらため息を吐いた。


「何だ」

「臭いのは井浦さんの靴ですよ」

「チッ」


 すると井浦は新聞紙の敷かれていない隣のフロアマットにその革靴の裏をグリグリと擦り付けた。


「あっ、ちょっ!」

「はっはっはっはっ」

「何、高らかに笑ってるんですか!もう乗せませんよ!」

「はっはっはっはっ」


ピーピーピーピー ピーピーピーピー


 その時、車内にけたたましい音が響き、源次郎は手元の無線機を手に取ると右上のボタンを押した。


「101号車どうぞ」

「はい、101号車どうぞ」

「源次郎、あんたもう上がりの時間でしょ!?何で河北潟でのんびり休憩してんのよ!早く帰って来なさい!」

「あ、ごめんなさい」


 北陸交通本社配車センターのパソコンでは140台のタクシーの停車位置、その方向、営業状況を確認する事が出来る。そして、営業状況は色分けされ、本社のパソコンに全て表示された。



街中を走り乗客を探す営業中 空車 は緑色

客を乗せ指定先に送りに行く 実車 は赤色

予約先の店や客を迎えに行く 配車 / 迎車 は青色

本社に戻って営業を終了する 回送 は灰色



 更に各車に振り当てられたタクシーの号車番号が表示され、島畑源次郎の101号車は河北郡内灘町のかほく潟湖畔に(空車、緑色)の状態で停車していた。井浦は無線機をむしり取ると、マイクに向かって唾を飛ばした。


「おい、チワワ!俺としまじろーの時間を邪魔するんじゃねぇ!」

「何、またあんたと一緒なの!?」

「羨ましいか!」

「羨ましかないわよ!」

「密閉した車内で2人きりだぞ!」

「私なんてベッドの上で2人きりよ!」

「くっ・・・・・!」


 悔しげに言葉に詰まった井浦は無線機を助手席へと投げつけた。


「あぁ、もう。やめて下さい」

「ウルセェ!」

「何で機嫌悪いんですか」

「ウルセェ!」


 101号車は濃霧を掻き分け、葦の葉を揺らしながら金沢市へと戻った。

下弦の月がそれを見ていた。

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