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第11話

「七瀬、七瀬、起きて下さい」


 膝小僧を揺さぶられた私は閉じていた瞼を開いた。温かな手の温もりは惣一郎のものだった。それはコテージのベッドの中で感じた指先、この一夜の出来事が悪夢だったのでは無いかとその顔を仰ぎ見た。


「そう、惣一郎」


 然し乍ら惣一郎の目の下は酷く落ち窪み髭が伸びていた。それは一夜を明かした証だった。身動きがとれない私の手首や足首は色を変え、ビニールロープが巻かれていた肘と膝の裏にはミミズ腫れが醜く血が滲んでいた。


「・・・・・!」


 私は助手席に起き上がれるまでに自由が許されていた。ハサミで切り落としたビニールロープが足元で戸愚呂とぐろを巻いていた。ガムテープで拘束された手足を隠すように肩から毛布が掛けられシートベルトで固定されていた。


「最後のドライブがあの状態では勿体無いと思いませんか」

「は、はい」


 奈落の底に突き落とされる。


(ーーー夢じゃなかった)


 惣一郎の運転するブルーバードは金沢市の街並みをゆっくりと走った。それは葬列の棺、私はここで終わるのだ。


「ほら、ここは初めて口付けた場所です」


 身体の芯から蕩けた熱い口付けが走馬灯の様に蘇り涙となって頬を濡らした。ブルーバードは一時停止の標識で停まりウインカーは右で点滅した。


(惣一郎は何処に住んでいるんだろう)

「惣一郎の家は何処にあるの」

小坂町こさかまちです」

「それ、何処」

東金沢駅ひがしかなざわえきの近くです」

「ーーーそう」


 泉高等学校の赤煉瓦の正門、向かいのベーカリーショップの扉のカーテンは閉じたままでバス停に人の姿は無い。


「惣一郎、今、何時なの」

「4:00、少し前ですね」


 早朝の街並みは物音ひとつせず、遠方の客を送迎したタクシーが片町方面へと向かう。路肩の電信柱のゴミステーションのゴミ袋には緑色のネットが掛けられカラスが群がっていた。


カァ カァ カァ


 彼らはブルーバードのエンジン音に慌てて飛び立った。


「七瀬のご自宅はこの辺りでしたよね」


 私は力無く頷いた。こんな事ならば母親に嘘を吐いて出掛けなければ良かった。タイヤは無情にも家の前を通り過ぎ、黄色で点滅する信号機を後にした。


 国道8号線の海を泳ぐ鯨のようなブルーバードは右折して緑の田園の中を進んだ。フロントガラスに広がる見覚えのある風景、通い慣れた学舎まなびやが近付いて来た。


「うっ、うっ」

「七瀬は泣きたくなるほどキャンパスが好きだったんですね」

「うっううっ」

「いつもやる気が無さそうにしていたので意外です」

「ううっ」

「じゃあ、もうひとつ思い出の場所を見て行きましょう」


 ブルーバードは歩道のない生活道路を2分ほど走るとJR北陸本線在来線の古びた駅舎、加賀笠間駅かがかさまえきの駐車場の白線の中で停車した。


「ここが初めてのデートの待ち合わせ場所ですね」

「違う!」

「違う、とはどういう意味ですか」

「ストーカーでしょ!私の後を尾けて来たんでしょう!」

「好きな人の後ろ姿は追い掛けたいものです」


 まだ私に叫ぶ力があったのかと自分でも驚いた。惣一郎は運転席から降りると自動販売機の前でひとしきり悩み、ベージュのサファリベストのポケットから小銭入れを取り出して一枚、二枚と硬貨を販売機の中へ落とした。


「いつものオレンジジュースが無くて悩みました」


 惣一郎は冷たい缶を私の左頬に当てた。それはまるであの日を思い起こさせ涙が溢れ出た。


「ーーー助けて」

「さぁ、ドライブはもうすぐ終わりです」

「ーーー助けて」

「笑って下さい」


 もう私の声は惣一郎の耳には届かない。ブルーバードは後方発進で回転すると大通りに向かって緩やかに走り始めた。


(ーーーあ)


 美術棟の雑木林を通り過ぎる瞬間、感じた。椿の垣根の隙間から、金色の巻き髪で華やかな花柄の青いワンピースを着た女性が私に手招きをしていた。


(ーーーもう一人の女性は美術棟の雑木林に居たんだ)


 私は静かに目を閉じた。

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