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第9話

 私は後部座席のリアウインドウから何度も何度も背後を振り返った。切り立った崖、波飛沫が上がる断崖絶壁、漆黒の緩やかなカーブに白いガードレールが浮かび上がった。


(来る、惣一郎が来る!)


 あのイエローオーカーのブルーバードが時速70、いや90kmの速さで私を捕まえに来る。


(早く!早く!早くここから!)


 惣一郎の車では入る事が出来ない何処かに身を潜めなければならない。


(早くーーー!)


 ダッシュボードの料金メーターは2,000円、2,800円と運賃を刻み、タクシーは確かに前進しているが車窓を流れる景色はスローモーションの様に写り私の不安を煽った。


(遅い、遅い)


 運転席を覗き込むとメーターパネルは時速60km、このままでは確実に追い付かれてしまう。


「うっ、運転手さん!もう少し速く走れませんか!」

「はい?」

「スピードは出せませんか!」

「あぁ、タコグラフ運行記録計が付いてるから駄目なんですよぅ」

「タコグラフ?」

「速度を測る機械でね、違反すると上司からどやされるんですよ」

「そうなんですか」

「ごめんなさいねぇ」

「はい」


 緩やかなカーブの坂道はようやく海岸沿いの直線道路へと続き、タクシーのハイビームが覆い被さる松林や巨大な岩石を照らしオレンジのライトが点々と並ぶ薄暗いトンネルを潜りぬけた。


(ーーーーもう、もう駄目だ)


 朽ち果てた海の家の陰が見え、静かな波間には満月がぽっかりと浮かんでいた。そしてその時、料金メーターが6,300円を超えた。こんな場所で降ろされたらもう何処にも隠れる所が無い。


(私、死ぬのかな)


ピッ


 タクシードラーバーの指先が料金メーターのボタンを押し、運賃料金は6,300円で止まった。


「お客さん、なんかあるんだろう」

「ーーーえ」

「こんな場所であんたみたいな女の子を降ろしちゃ後味が悪りぃ。もう少し先にコンビニがあるからそこで精算してくれ。6,300円で良いから」

「あ、ありがとうございます!」


 喜んだのも束の間、白いハイビームが夜の闇を切り裂いた。


「はい、6,300円ね」


ピッ


「あっ、ありがとうございます!」


 黄色いハザードランプを点滅させたタクシーが暗い海岸線を走り去った。私はコンビニエンスストアのトイレに逃げ込もうと考えた。


チャラララチャラ チャララララ


 レジでは生欠伸なまあくびをする男性店員の姿、トイレの入り口には清掃中の黄色い立て看板が掲げられていた。


(ど、どうしよう)


 私は陳列棚の商品を選ぶ振りをして背を低くしゃがみ込んだ。


(どうか、どうか、惣一郎の車が通り過ぎますように!)


 低いエンジン音がコンビニエンスストアの前を通り過ぎて行った。あれは燃費が悪い年代物のブルーバード、惣一郎が運転する車で間違いなかった。安堵のため息、ところが入店のチャイムが鳴った。脇に汗が滲む。


チャラララチャラ チャララララ


 その足音は出入り口付近、事務用品が並んでいる棚で商品を探している様だ。ビニールの音、それを手にレジに向かう。眠い目を擦りながら店員がバーコードで商品の値段を読み取っている。


ピッ


「530円になります、袋はお付けしますか、はい」


 その客は無口だった。会計を終えた客はもう一度陳列棚へと向い、丁度私の向かい辺りで足を止めた。無言の気配に心臓が跳ねる。それは次第に屈み込み、ささやいた。


「留守番、頼んだでしょう」

「ーーーーひっ!」


 私が立ち上がると向かい側の気配も大きく立ち上がり、革靴の音を響かせて此方こちらに向かって来た。


「いやっ!」


 私は陳列棚にあった菓子パンや食パンを握ると手当たり次第に叩き付けた。


「ちょっ!お客さん!」


 飲料水の冷蔵ケースを背に見下ろしていたのは姿の惣一郎だった。気怠げな表情その手には布ガムテープとビニールロープが握られていた。


「ーーーーひっつ!」

「約束は守りましょう」

「こ、来ないで!来ないで!」


 その革靴は散らばった菓子パンを無惨にも踏み潰した。


「お客さん!」


 冷凍ケースのアイスクリームのカップや冷凍食品を掴みその厚い胸板へと投げたがそれはびくともせず、私の指先が霜焼けしもやけの様に赤く変色しただけだった。


「お客さん、ちょ、通報しますよ!」


 惣一郎は平静な顔で胸ポケットから札入れを取り出すと、店員に一万円札を数枚手渡していた。


「釣りはいりません。あなたに差し上げます」


 その一連の動きは普段使いの買い物をしている様で怖気を感じた。


チャラララチャラ チャララララ


 私はそれを横目にコンビニエンスストアから飛び出しその脇の階段から砂浜へと降りた。そこは粗い石の海岸で打ち寄せては引く波の音が耳に煩かった。心臓が震え、落ち着かない膝を支える脚は覚束おぼつかなく思うように前へと進む事が出来なかった。


「七瀬、ドライブに行きましょう」

「ーーーいや、嫌」


 私の背中に規則正しい歩幅で迫る惣一郎、恐怖でしかなかった。


(ーーーこんな高いサンダル履いて来なきゃよかった!)


 後悔した、惣一郎との初めての三泊四日の旅行、小洒落た服装をしたくて黒いワンピースと底の厚い黒いギンガムチェックのサンダルを新調した。


「いや!」


 石に足を取られて私は前のめりに倒れた。振り向くと満月の逆光の中、惣一郎の口元が醜く歪んだ。


「七瀬、どうしたんですか」


 惣一郎は両手でガムテープを伸ばした。

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