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第8話

 私は小腹を満たす為に冷蔵庫の扉を開いた。LEDライトの中に浮かび上がる芸術作品。今夜の下拵したごしらえ、平皿にクリームチーズ、黒オリーブ、生ハムにバジルの葉が盛り付けられ整然と並んでいた。


(この中に<カドミウム顔料>の粉末が入っているのかもしれない)


 そう考え食欲が失せた私は隣の食器棚に目を見遣った。食器、グラス類、カトラリー、二組ずつ揃ったこれらは 碧 さんと使っていた物だった。けれど警察官が話していた「あぁ井浦さんこそまたですか」このは以前にも 碧 さんの身代わりになった女性が居る事を指している。


(45歳、そんな人のひとりやふたり居てもおかしくない)


 頭で理解していても胸の中は複雑だった。膝を抱えてキッチンのベンチに座っていると私は振り返った。出窓のカーテンを両手で勢いよく開けると胡桃の樹の下に、白い日傘を差した 碧 さんが立っていた。


( 碧 さん)


 不思議なもので恐怖を感じる事もこの異空間におののく事もなかった。


(ーーー!)


 私はリビングテーブルに置かれたソーラー電池のランタンを手に玄関の上りに腰掛け、黒いギンガムチェックのサンダルを履いた。あまりに慌てていたのでボタンがなかなか留まらなかった。


(もしかしたら!)


 駆け寄る足が夜目につんのめり転びそうになった。海から吹き込むもや、湿気が肌に纏わり付いた。


(もしかしたら!)


 胡桃の樹の下に駆け寄ると 碧 さんの姿は消えていた。


「ーーーやっぱり」


 そして想像していた物が胡桃の樹の根本にうずたかく積まれていた。それは短期大学部美術棟の昇降口、階段に座った惣一郎が黙々と無言で積み上げては手でぎ払い壊していた、蟻の巣を囲む小石の城壁だった。


「やっぱり、あった」


 あの時の異様なものの正体はこれだった。


 私はその場所を掘り返さなければならないと思った。周囲に落ちていた枝を地面に刺してみたがそれは心許無く折れてしまう。大きめの石を両手で掴み地表を掻いてみたが埒が明かなかった。こんな事をしている間に朝が来る。



 惣一郎はこの行動を良しとはしないだろう。私はランタンを翳してコテージの下を覗いて見たがそこに有るのは極太の薪の山だけでシャベル類は見当たらなかった。


(どうしよう、どうしよう)


 キッチンのフライ返しやおたま、スプーンを手に挑んだがどれも曲がってしまい、鍋やフライパンの長い持ち手は土壌を何cmか掘り進んだ所で根本から折れてしまった。


(ーーーあった)


 それはアトリエの珈琲の空き瓶に刺さったペインティングナイフ、金属製で形状としてはやや小さめのスコップだった。絵具に慣れていないと皮膚がかぶれると聞いていたのでイーゼルに掛けてあったゴム製の厚手のグローブを手に着けた。

 私の黒いギンガムチェックのサンダルは泥まみれになった。腕で汗を拭ったので顔中泥だらけだったに違いない。それでも一心不乱にペインティングナイフで穴を掘った。それはまるで逃げ場を失った蟻の様だった。


 先端が尖ったペインティングナイフが功を奏し作業は順調に進んだ。蟻の巣の様な小さな穴が異空間へと続いている、そんな気がした。 碧 さんは私がこのコテージに来た時から呼んでいたのだと思った。



 そして私は見つけてしまった。保険金4000万円と引き換えに埋められた大島紬の着物、茶色く色褪せた日傘の


「ーーーーひっ!」


 地面に尻餅を突いた私は震える膝に力を入れて立ち上がった。土足のままコテージに上がり込むと寝室に置いてあった携帯電話を握って外へ飛び出した。時間は19:50、朝までまだ時間はある。松葉を踏み、不気味なシダ植物に目を瞑って小石に足を取られながら急な坂道を登った。


(ーーーど、どっちから来た!?)


 確かウィンカーは右折で点滅した。海沿いの曲がりくねった道を私は左へ、左へと向かい下った。街灯のない暗い視界、白いガードレールに手を添えて前に進むと断崖絶壁を駆け上がる潮に心臓が縮んだ。


(車が、誰か、車が通り過ぎたら乗せて貰おう)


 そんな甘い考えはこの山間やまあいでは叶う筈も無かった。


 然し乍らとにかく前に進むしかなかった。黒いギンガムチェックのサンダルの紐がかかとで靴擦れを起こした。皮膚が禿げる感覚と痛み、生温い感触は血が滲んでいる証拠だ。


(は、早く、早く!)


 けれど靴擦れごときで怯んでいる暇は無かった。胡桃の樹の下の秘密を知った私の行く末は決まっている。一分一秒でも早く峠下の交番に駆け込んで保護して貰わなければ、私はにれの樹の下に埋められて小石の城壁で囲まれてしまうのだ。


(何時、今、何時!)


 額に汗が滲んだ。携帯電話を開くと22:15と表示されたが峠下の明かりはまだまだ遠い。携帯電話の明かりに浮かび上がった私の表情は恐怖に青ざめた。


(ーーーあ)


 タクシーのハイビームライトが曲がりくねった道をこちらに向かい進んで来る。この先に民家があるとは思えない。例えあったとしても何万円も掛けてタクシーで帰宅するだろうか。


(ーーーまさか、惣一郎)


 私は携帯電話の電源を切って明かりを消し、祈るような気持ちでその場所に小さくうずくまった。黒いワンピースはその姿を多少は隠してくれる筈だ。


(お願い、お願い、お願い、お願い!)


 タクシーは私の横を通り過ぎ安堵のため息を吐いたのも束の間、それは絶望に変わった。後部座席の扉が開いて外に出て来たのは惣一郎だった。


(あ、あ、あ!)


 惣一郎は私に声を掛けようと手を差し出したがそれはブラリと垂れた。なにか閃いたものがあったのだろう、後部座席の扉が閉まる音がしてタクシーはコテージ方面に向かって走り去った。



 惣一郎は胡桃の樹の秘密が暴かれていないかを確認する為にコテージに戻ったのだ。


「あ、あぁ、ああ!」


 私は声を大にして走った。すると惣一郎をコテージまで送り届けたタクシーが折り返して戻って来た。慌てて手を挙げるとタクシーは急ブレーキを踏んで目の前で止まった。訝しげな表情のタクシードライバーが後部座席の扉を開け、私は座席シートへと飛び込んだ。生温かい、惣一郎の体温が残っていた。気味悪さに隣へと移動した。


「お客さん、何処まで行きましょうか」

「ろ、6,500円だと何処まで行けますか!」


 携帯ポイントは6,500円しか残っていなかった。


「夜間料金なので海岸沿いまでしか行けませんよ」

「と、峠下までは行けませんか」

「ちょっと無理ですね」

「じゃ、じゃあ行ける所までお願いします!」


 一刻も早くコテージから遠い場所に移動しなければならなかった。惣一郎のブルーバードに追い付かれる前に私は何処かに隠れなければならなかった。


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